エイコ
chapter 03
「もしもし?」
エイコは電話でたたき起こされた。
「私。カズミ。あ、まだ寝てた?」
「いや、あ、うん。バイトから帰ったの朝だから、えーと、今何時?」
「12時20分。あ、交通量の調査だっけ?」
「うん、神奈川の街道沿いでさ、蒸し暑くて熱くて。帰ったら部屋も暑いし。6時間も寝たように思えないわよ」
時計を見ながらエイコはカズミに聞いた。
「どうしたの?」
「あのね、新宿のライブハウス、そうあの店、出入り禁止になったって知ってた?」
寝起きで頭が働いていないエイコが反応しないのにも関わらず、カズミは続けた。
「また、あいつらが騒いだのよ」
「あいつらって?」
「ほら」
エイコは先だってのライブを思い出した。「やったるでぇ」の一団が騒いだあの日のライブだ。
カズミは続けた。
「それでね、まあ、あいつらはどうでもいいんだけど、割を食ったのがバンドでね、あの手のバンドのブッキングはもうやらないって店が言い始めたの。ほら、今月もまだあと3本くらいライブの予定入ってたじゃない? 全部キャンセルよぉ」
「てことは?」
「そう、お楽しみが無くなっちゃったってわけ」
エイコはあの日半べそをかいてノルマをはらっていたボーカリストの顔を思い出し、笑いがこみ上げてきた。
「じゃあ、バンドの連中は?」
「そう。泣きっ面にブタ」
「バカ、そうじゃなくて」
「ああ、いやいや、ハチ」
「違うってば。なんか言ってるんでしょ?」
「うん、あいつらフクロにするって」
「できるの?」
「無理でしょ、バンドの連中、弱いから」
ここまで言うとカズミも笑い始めた。しばらくケラケラと笑っていたが、お楽しみが無くなるという現実感がふたりの会話を復活させた。
「他の店は?」
「ダメじゃない? 最初から。だってあそこだけだったじゃない、パンクが出演できてたところ」
「そっかぁ、つまんなくなっちゃうな」
「ね、私もニュースソースが無くなるわけだから困るのよね。例えば頭下げるとか? 店に」
「なんでぇ?」
「だってぇ」
「だってもへったくれも、私らは単なる客なんだからさ、筋が違うよ、筋が。それはバンドの連中がする事でしょ?」
「でもニュースソースが」
「まだ眠いから切るよ、目が覚めたらまた電話する」
「え、冷たい。なんかいい考えないのぉ?」
「わかんないよ!」
「夜、そっちに行くからさ」
エイコは気温が上がりきった部屋の中で、湿った布団に再び横たわり、フッと口ずさんだ。
「変わった方がいいのさ、そう、変えてしまえ! どっちにしても少しはマシになるだろうさ」
二時間ほど微睡んだのだろう。体中、汗まみれだった。目覚める直前の夢だったかもしれない、エイコの頭にこびりついた夢の破片があった。何かそれは漠然として判別付け辛いものだったが、景色は妙にリアルだった。
どこかの街でバンドが演奏をしている。屋外でだ。それも地べたにアンプやドラムが置いてあり、ステージなんてのは、無い。客もバンドも同じ高さ、同じ地面。夏の日差しがアスファルトにしがみついている。アツイ、暑い、熱い。
そこで目が覚めた。
そういえば、どこかのフィルムコンサートで見たかもしれない、と思った。だが、それがいつどこでなのは思い出せなかった。まあいいや、変な夢。枕元に転がっているタバコに手を伸ばし、火を付け深く吸い込んだ。
のろのろと立ち上がり、側にあったタオルで汗を拭き、やかんを火に当て湯を沸かし始めた。
「カネは無いけど、これだけはねー」
ブツブツ言いながら冷蔵庫から珈琲豆を取り出すと、手動のミルにぶち込んで、おもむろにハンドルを回し始めた。
やかんの湯とコンロの火、そしてゴリゴリと豆をひく事で、ますます部屋の気温は上がっていった。珈琲を口に運ぶ頃には既に汗まみれになっていた。そう、ここには扇風機すら無い。
エイコは部屋の隅にある、ステレオのスイッチを入れた。
「貧乏人をぶち殺せ!」
とアメリカ西海岸のバンドがわめき始めた。昼間とはいえ、安普請のアパートだ。なるべく音量を押さえ気味にしながらあぐらをかいた膝頭でリズムをとる。見るつもりもなしに音を消したテレビを付ける。
このテレビはインターン時代の友人が拾ったもので、ステレオ以外家具らしい家具を持たないエイコを憐れんでシブシブくれたのだ。白黒でなおかつ、画面が横長に見える代物ではあったが、初めての、生まれて初めての自分のテレビに、貰ったその日は興奮した。が、3日もするとマジメに見るべき番組があまりに少なく、シュールな絵だけの額縁にしてしまった。
今、横長ワイドの画面では4、5年前のドラマの再放送をやっている。
ステレオから今度は「ガキをぶち殺せ!」とわめきはじめた。画面に映る70年代然とした景色が妙にガサガサしたこのバンドの音にマッチしているなと思った。
「今の大統領が辞めるときに解散すんだっけ?」
エイコは誰かがこのアメリカのバンドについて言っていたのを思い出した。彼等は現体制を批判している、らしい。ムチャクチャ逆説的なタイトルと歌詞を持つこのバンドの影響を受けた日本のバンドが結構いる、らしい。でも大部分はうわべっ面だけで本質的な事は誰も解ってない、らしい、と。
「だってさぁ、反戦て書いてある皮ジャン着てながら、ヒトなぐるんだぜぇ」
アメリカでもヨーロッパでもマイナーながら世界的に名を広めているバンドのいくつかが「反戦」「民主」「自由」などのひと昔前のまるでガクエントウソウの時代のようなスローガンを掲げて活動していた。
「確かにね」
アメリカでは元俳優のバカみたいに時代遅れな超保守のジジイが大統領だし、日本でも海軍崩れのクソスダレが首相だし、それもイキナリお友達になってしまったし。そんな流れが何か漠然としない空気を生んでいるのだけは感じていた。
70年代風のドラマを見ながらエイコは思う。
「でも私はダイッキライ」
「大人数集まって同じ意見、同じ行動、同じ格好、ケッ!」
「アイドルがどうのこうのじゃないのよ、あの柔らかい檻の感じ、自由そうだけど全然自由じゃない、優しいけど優しくない、あの感じ」
ふとカズミの言った言葉を思い出した。
「全然つまんないもん。全部が」
いつのまにかレコードは終わり、シャパッ、シャパッ、という針の空転する音に気づき、ステレオのスイッチを切った。テレビでは映像だけのニュースに番組は変わっていた。そこには東京のド真ん中に住む幸せ一杯の家族が微笑んでいた。
「もうけっこういい歳だよなー」
エイコは残っていた珈琲を飲み干した。そして、思い出したように、受話器を上げた。