G.P.テレマン概要
06/07/04
西川研究会 2年 佐藤康太
0.序
生涯と作品
音楽史的意義
受容史
研究の現状
序
ゲオルク・フィリップ・テレマン Georg Philipp Telemann (1681-1767)はヘンデルと並んでバロック時代後期に最も人気のあった作曲家の一人であるが、その音楽学的な研究はあまり進んでいない状況であると言われている。今回の発表では彼の生涯と作品、音楽史的意義、受容史など一般的な情報を概観し、テレマン研究の現状を明らかにすることを目的とする。
生涯と作品
1681 マクデブルクの上流市民階級に生まれる。学校のカントルの影響からフルート、ヴァイオリン、鍵盤楽器などに親しみ、作曲も試みる。
親の希望によりライプツィヒの大学で法律を学ぶが、教会などのために作曲をするうちに音楽家の道へ。
ライプツィヒにコレギウム・ムジクムを創設1、定期的に公開演奏会を行う。同年、ライプツィヒ・オペラの監督に就任。←当時のトマス・カントル兼市の音楽監督クーナウ2からの批判
ゾーラウ(現ポーランドのジャールィ)の宮廷楽長に招聘される。ポーランドの民族音楽に多大な影響を受ける。
1708 アイゼナハの宮廷楽長に就任。J.S.バッハとの交流。
フランクフルト・アム・マイン市の音楽監督に招聘される。5年分のカンタータ年巻を作曲。コレギウム・ムジクムの監督も引き受け毎週コンサートを行う。
ハンブルク市の音楽監督に招聘される。
ドイツ初の音楽雑誌『忠実な音楽の師 Der Getreue Musicmeister』出版(1728-29)
『食卓の音楽 Tafelmusik / Musique de table』出版(1733)
パリを訪問。『新四重奏曲集 Nouveaux quatuors』出版。(1738)
ハンブルクで死去
音楽史的意義
テレマンの作風はバッハのそれとは対極にあり、複雑な対位法的手法は少なく簡潔な和音や流麗なメロディーを使い、馴染みやすくわかりやすいものとなっている。この作風はこの時代のドイツの主要な流れであって後に古典派につながっていくものであり、決して珍しいものとは言えないが古典派への流れをその先端に立って推し進めたと評価することもできる。また1700年代という早い時期にポーランドという地方の民族的要素を取り入れた作曲家としても注目に値するだろう。
もう一つテレマンで見逃してはならないのは当時の音楽生活への影響である。彼はコレギウム・ムジクムを率いて当時まだあまり一般的ではなかった公開演奏会を進んで開いた。ライプツィヒで初めて公開演奏会を開いたのはテレマンであると言われており、またコレギウム・ムジクムを単なる学生たちの余暇の楽しみから演奏団体へと変えたのも彼であると言われる。またテレマンは自ら出版も手がけ、自分の作品のほとんどを自らの手で出版している。その中にはドイツ初の音楽雑誌や通奏低音のための教本、装飾の方法を示したもの、様々な楽器編成で演奏できるよう配慮されたものなど明らかに市民のアマチュア奏者向けと思われるものが数多く含まれている。貴族のための音楽から市民のための音楽へ、という流れを考えたときテレマンのこういった活動は非常に大きな意味を持つと言える。
受容史
テレマンの音楽の評価には常にバッハの評価がついてまわる。上述の通り彼ら2人の作風はまったく対極に位置するものでありそれが当時の大きな2つの流れを代表するものであるからである。当時バッハ批判で有名なJ.A.シャイベ3はテレマンをドイツの作曲家で最も革新的でよい趣味を持った人物として賞賛しているし、バッハの活躍したライプツィヒの詩人J.C.ゴットシェート4はヘンデルとテレマンをドイツの作曲家の中で最も優れた人と呼んでいる。
しかし19世紀にバッハが再発見されると、テレマンは単なる流行作曲家として見下されることとなった。これはそもそも評価基準がバッハにあったためで、バッハと異なる作風、職務態度が批判されることとなったのである。テレマンが非常に多作であることもこの評価を促進した。この評価は20世紀に入るまで続き、この結果テレマンの学術的な研究は他の作曲家に大きく後れを取ることになる。
研究の現状
20世紀に入ってからようやくテレマンの再評価が始まり1950年から全集の編纂が始まったがあまりに曲数が多く未だ完成を見ていない。それに対して演奏家たちは近年頻繁にテレマンの作品を取り上げるようになっており、音楽学者が追いつけていないのが現状である。ただし伝記研究についてはテレマンが3つ自伝を残している上に出版作品の序文などに様々な資料が存在するためかなりの部分が解明されてきているようである。しかし音楽作品そのものの研究が進んでいないためテレマンの音楽史上の位置づけ、全体像の把握はまだ難しい状態にあると言える。
参考文献
D.J.グラウト、C.V.パリスカ/戸口幸策、津上英輔、寺西基之 共訳、
『新西洋音楽史 中』、音楽之友社、1998(英語版1996)
C.グレーベ/服部幸三、牧マリ子 共訳、『テレマン 生涯と作品』、音楽之友社、1981(独語版1970)
田村進『ポーランド音楽史』1974
柴田南雄、遠山一行総監修『ニューグローヴ世界音楽大事典』、講談社、1994~96
The Grove Dictionary of Music and Musicians 2nd ed.、Macmillan、2001
Musikalische Werke Gerog Philipp Telemann、Bärenreiter、1950~
1 大学に付属する音楽演奏団体。1723年、バッハはこのコレギウム・ムジクムの監督になっている。
2 Johann Kuhnau(1660-1712) バッハの一代前のトマス・カントル。クーナウの死後そのポストにテレマンが招聘されたがテレマンが断ったため当局が妥協してバッハを招聘。
3 Johann Adolf Scheibe (1708-1771) ドイツの作曲家、批評家。1737年に評論雑誌『批判的音楽家』でバッハの音楽を過度に対位法的で技巧の先走りであると批判した。
4 Johann Christoph Gottsched (1700-1766) ドイツ啓蒙主義の文学者。本文は『ドイツ賛美のオード』の中の証言
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