YAMAMOTO Ω(DOMLOCK SANDHILL) INTERVIEW
(1998年11月発行oo5号に掲載)

ツインベース、ツインドラム、ツインヴォーカル、ギター、シンセ、映像etc。
多いときには10名以上のメンバーが在籍していた京都のサイケデリックバンド、
ダムロック サンドヒル。
最近、その活動がみられないのであるが、
彼らの残した印象は今も鮮烈だ。
Tag ragから発表されたCD『COSMIC SOUL』。
このアルバムは、抑圧的な社会で一人の人間がもとの心を取り戻すまでを
コンセプチュアルに描いたという。
比較的自然の多い京都の地理とも無縁ではないような気がする
スペーシーなサイケデリックロックが展開されている。
バンドの音や意識を一体にするためには、
かなりの時間を費やしたであろうだけに、活動の休止は惜しまれる。
Ω LOVES YOUというユニットで、Uの横田とのコラヴォレート作品を何曲か発表していた
元ダムロックのヴォーカリスト、ヤマモト Ωが新しいユニット、
MEGAONを始動させようとしている。
過去の音楽活動も含めて話をきいた。
 

●DOMLOCK SANDHILLの話をしたいんですが、去年12月、CONVEX LEVELとFANDANGOでやった時の演奏、あれはすごいハマリました。即興っぽいのから曲、曲から即興っていう。
即興いうても一応あれは練習してんねんで。即興っぽく聴こえる「曲」。 「ハマリもん」っていうことで言うたらさ、いろいろその「サイケのハマリもん」とかさ、「物語風なハマリもん」とかあるからさ。物語の中にハマらすとしたらさ、最初に何小節やるかとか決めへんねん。たとえば何もないところから一つの光が生まれて、それに羽が生えて、広い空にはばたいていって、それが今度宇宙にはばたくっていうそのストーリーを音楽で表わしていくとしたら、そやから即興風には聴こえるけど、流れがあるわけやん。その場で曲を作ってるるわけやん。ムチャくちゃ演奏してるワケやないしな。

●ああいう部分が、ゴッツい好きでした。
あれはDOMLOCKでは、やっぱりやってて良かったなと思う。そういう意味ではやりがいあったわ。なんか新しいことにはチャレンジできたしな。
ベースとドラム2人ずつとかいてる時とかあったやん。ああいう時でもさ、俺ら独自の方法で考えたんは、空の色を変えるとかさ。普通のバンドやったら空の色ってなかなか変えられへんねん。風景とか。聴いてて頭の中に青空があるとするやん。それがだんだん日が暮れて夜の風景をあらわそうとするならさ、ドラム、ベースの一つの部隊が延々Aのコードで弾いてるとするやん。それをだんだん音をしぼっていってフェイドアウトしていくねん。ほんだらもう片っ方のドラムとベースとキーボードとかが違うコードででてくんねん。DとかBとか。それが徐々に上がっていくねん。ほんだら交錯するやん。空の色がだんだん変わってくる。聴いてる人は知らんうちにコードがグワーンと変わるわけやん。そういうところにすごい音楽のおもしろさがあるなと思ってな。DOMLOCK SANDHILLを大人数でやったっていうのは、そういうこと。いろんなことができるやん。あくまで俺らの世界をつくりたいっていうところがあったしな。最初にいたメンバーはあきらかにそういうコンセプトを持ってやってたな。
DOMLOCKはビデオのメンバーがいたりとかさ、PAのメンバーがいたりとかさ、チラシつくってくれてる人がいたりとかいろんな人が参加してくれてたから。みんなで作り上てるっていう。俺らにしたら40分の演奏が、毎回一つのドラマとか舞台を作り上げてたって気持ちやねん。だから演劇みたいな感じでさ。みんなで力をあわせて一つのものをつくるっていう。そういうノリやったなあ。だからそれはそれですごい楽しかってん。

●DOMLOCK SANDHILLはもう活動しないんですか。
するで。絶対する。いつか。今はやってへんなあ。リーダー、林君やねん。林君がやる気になったらやるんちゃうか。絶対つぶしたないしな。DOMLOCK はみんなすごい思い入れあるしな。いまだに。

(中略)

●Ωってどこからきてるんですか?
ΩMASTERってずっと俺がやってたバンドやねん。ほんで自分のクレジットもずっとΩにしててん。山本っていう名前もいっぱいあるし。ΩMASTERは結構長いこと、いろんなメンバーでやっててん。友達入れたりとかさ。それこそQちゃん(QZO=DRILL MAN)とかナベちゃん(渡辺 良=CONVEX LEVEL)とか。レコードも出してんねんやんか、何枚も。映画館で映画バックにライヴやったりしてんで。ロケッツとかでは2階でライヴやってん。客はどうなってんねんって感じやねんけど。2階からMC入れたり、最初はハードでだんだんアンビエントにしていったら、最初は客は踊ってるねんけど、だんだん座ってしゃべりだしたりすんねん。それ見てたら音楽の力が絶大やなと思って。音楽一つで人間の行動パターンて変わるからな。そういうのをいっぱいやってて結構音楽の追及ができたな。ハマリもんとかさ。だから1時間1曲とかさ。もう7〜8年前かな。それは結構長いことやっててさ。ハウスだけのアルバムとかつくったり、アンビエントなアルバムつくったりしてんで。海外からもだしたしな。

●音楽活動をはじめたのはいつ、どうやって?。
12〜3年前かな。最初SNAKE HEAD MENってやってたやん。今BAMBI  SYMNAPSEのキーボードのオッキーっていう奴と一緒に。そいつと高校で一緒やって初めて喋ったのがそいつやってあいつでさ。二人で音楽つくろかっていうことになって。俺もシンセ持ってたし、あいつも器材持っとってんやんか。ほんで曲つくったりしててん。
ほんで近所に渡辺楽器っていうのがあってそこで器材よう買うたりしてて、そこでテープコンテストとかあった時に、2人でつくった曲がなんか賞もらってんやん。ほんだらそこの兄ちゃんがどん底ハウスっていうライヴハウスのマスターを紹介してくれてんやん。ほんで遊びに行くようになってん。どん底ハウスに。そんで最初にみたバンドがP.L.Oっていうバンドで、それが今東京で頑張ってるサワサキ君って人がいんねんけどさ、その人と友達になって。そういうのからどんどん友達が増えてきて毎日遊びに行ったりしててん。いっとき。ほんで大橋君っているの知ってる?。サイケアウツ。その人と友達なってさ、実は大橋君高校の先輩やったりしてさ、毎日遊んだりしててん。一緒に殺具っていうバンドしててん(笑)。ノイズバンドやってんけどさ。ほんで一緒にフリーペーパーつくったりしてさ。あれどん底に毎日来てつくっててんで。みんなで。

●ライヴハウスでそんな作業できますか?
いや、勝手に行ってたんや。他の奴らはライヴしとるけど、俺らは関係なかってん。たまってただけやねん。何にもなしに(笑)。金も払えへん。「どんなんやってんの」みたいな感じでライヴとかもみるやん、一応。一応言うたら悪いけど(笑)。そのうちに京都のいろんなバンドと友達になって。毎日いるからな。人脈が増えていって。知らんうちに深い世界へ入っていってんな。最初遊びやってんけど。
せやからめぐりあわせだけやで。
ほんでおもしろいんが、SNAKEではじめて大阪でライヴやったんが、EGG PLANTやってん。ほんでその時に誘てくれたんが大野君やってん。大野君が偶然テープ聴いて気に入ってくれてイベントよんでくれてん。で、対バンがオフマスク OOと大野君のやってるハイドロオーガンっていうバンドやってん。その時カツミ君とかおって。そん時P.Aが前川さんやってん。ほんで俺ら京都から、いきなりまだガキやん。前さんに偉そうに言うてさ。「もっと音でかなれへんの!」とか言うてんねんけど。今から考えたら怖い話やけど。で、前さんはすごいガキやなあ思うてはってんか。それからいろんなことがあってさ。10年ぐらいして前さんのレーベルからCDだせることになって。ほんでそれのジャケットつくってくれたんが大野君やろ。メンバーにカツミ君おったし。その時に大阪ではじめてライヴやったメンバーはずうっと今おつきあいあんねん。
 
 

(取材:98年8月20日)

 
・・・・インタビューはまだまだつづきます。
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