「邦楽ジャーナル」2000年7月号掲載

異国見聞尺八余話 (10)

藪の中のジョン・レノンさん

倉 橋 義 雄


NYにて、ラニー・セルディン(左)と筆者(右)、1981年

 先月号の本誌で「ジョン・レノンが尺八を吹こうとしていた 云々」という文章を書いたところ、彼が尺八を習おうとしたと される当のラニー・セルディン氏が「そのような話はなかった」 と言明したので、まさに青天の霹靂、アワを食っている。
 20年間も固く信じていた話だから「そんなバカな」と思っ たけれど、言い返そうとして、ハタと困難に直面した。私には ラニー氏の言明に反論する手段がないのだ。いくら私が「天地 神明にかけてウソではない」と壮語してみても、それを証明す るテダテがないというのは、決定的な弱点である。
 思えば古い話、記憶がかなりアイマイになってしまっている のは確かだ。私はその話をニューヨークでラニー氏本人から聞 いた、と記憶しているが、じっくり思い起こしてみると、他の 人から聞いたのかもしれない。だんだん自信がなくなってくる。
 ラニー氏はデタラメを言うような軽薄な人物ではない。とす ると、軽薄だったのはこの私、思い違えて20年、ということ になってしまうが、そうは思いたくないのが人情。そもそも、 どうしてこの私が20年間も思い違えなければならなかったの か。「ジョンが尺八を・・・・」という話題で複数の人と語り合っ た記憶もあるのだ。私が固くその話を信じたのは、それなりの 確証があってのことだと思うのだが、悲しいかな詳しいことを 思い出せない。
 でも、その頃のニューヨークの尺八界には、その話を信じる に足る独特の雰囲気があった。若き演奏家ラニー氏が頭角を現 し、尺八旋風のようなものを巻き起こしていた。彼が尺八演奏 家として初めてニューヨークの音楽家ユニオンに加入を認めら れたのは、当時ちょっとしたニュースだった。それはつまり、 尺八音楽がニューヨークで市民権を得たということであり、尺 八音楽に対する関心の高さの反映でもあった。
 ユニオンを通して、他のジャンルの著名な音楽家たちとの交 流も始まったはずだし、尺八に関心を持つユニオンの音楽家た ちはまずラニー氏に接触を試みたはずである。
 事実、彼が主宰する尺八道場「虚吹庵(きすいあん)」に、 その頃ドッと人が押し寄せた。一般のアマチュア音楽愛好家は もちろんのこと、クラシック・ジャズ・ロック等々さまざまな 分野のプロの音楽家たちが、少なからず彼の門をたたいたので ある。
 私が初めてニューヨークを訪れたのは、ちょうどその頃、20 年前のことだった。私も若くて元気で貧乏だったので(貧乏 なのは今でも)、ロサンゼルスからバスを乗り継いで、6日も かけてアメリカ大陸を横断し、ニューヨークにたどり着いた。 懐かしい旅である。その旅が、おおげさではなく、私の人生を ゆるがせた。
 ニューヨークで、いろんな人に出会い、ものすごく刺激を受 けて、ものの見方がすっかり変わってしまったのだ。ニューヨ ークではさまざまな人が尺八を吹いていた。私も少々その人た ちに技術指導したけれど、教えるよりも教えられることのほう が多かった。尺八は初心であっても、すでに他分野で一流とみ なされている芸術家は、やはりみんな素晴らしい哲学を持って いた。また、そのような偉い人たちでも、尺八道場では初心者 として謙虚にふるまっているのが、まったく感動的だった。心 にそうとうの余裕があるのだろうと、かえって畏敬の念を高く した。
 そして、そのときは、あのジョン・レノンの悲劇からまだ数 カ月しかたっていなかったのだ。どこでもジョンの思い出話でも ちきりだった。
 「ジョンが尺八を」・・・・その話はいつどこで出てきたものだ ったのだろう。私が出会った人たちの中には、ジョンと直接交 流があった人も確実にいたと思う。ともかく、私はその話を聞 き、信じ、そして信じ続けた。今でも信じている。
 でも、今ではラニー氏の証言以外にそれを証明するテダテは なくなってしまったし、そのラニー氏が「知らない」という以 上、そんなことはなかったと言うほかない。あるいは「ジョン がラニー氏に電話して・・・・」という部分だけが私の思い違いな のかもしれないが、もう証明できない。
 悲しいけれど、私がタワゴトを言い過ぎると、いろんな人に 迷惑をかけるので、先月号の「ジョン・レノン云々」の部分 は、涙を呑んで「事実無根」ということにする。ごめんなさい。

(第10話終)