REMEMBER

I am sorry This page is Japanese only !


♪ 1989年(平成元年)宮沢さんが浜松へ移住して来た時の中日新聞記事

下記新聞記事の前文
 戦後モダンジャズの歴史を刻んできた”大御所”、テナーサックスの奏者の宮沢昭さん(61才)が昨年11月、東京・世田谷の自宅を引き払い、妻のみや子さんとふたりで浜松市曳馬のマンションへ移り住んだ。故越路吹雪さんの伴奏を務めたり、日本ジャズ賞を3回受賞。渡辺貞夫さん、秋吉敏子さんら世界で活躍する日本ジャズ界のトッププレーヤーとともに活躍しただけに知る人は多い。同市流通元町のZIBA会館で開かれた「浜松定住記念コンサート」には約3百人のジャズファンが集まり、往年のスイングに酔った。東京にはジャズに対する夢が感じられなくなり、好きな釣りが出来る浜松を選んだという宮沢昭さん。ジャズはアメリカ南部の黒人音楽から出発したもので、舞踏に合う明快なリズムをもつ。宮沢さんのサックスの音は豪放、半面性格はせん細で「夫婦一体、音楽家である前に良き家庭人」を主張する。宮沢さんに”音楽の街”をめざす浜松は大いに期待する。
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♪ 2000年7月28日産経新聞記事
訃報:
宮沢昭さん72歳=ジャズ・テナーサックス奏者
宮沢昭さん72歳(みやざわ・あきら=ジャズ・テナーサックス奏者)6日午前4時39分、急性肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。葬儀・告別式は7日、親族らで営まれた。自宅は同市牟礼7の6の37の103。喪主は妻みや子さん。
 陸軍戸山学校軍楽隊でクラリネットを吹き、復員後はテナーサックスに転向して米軍のクラブなどを回った。守安祥太郎のカルテット「フォーサウンズ」のメンバーを務め、秋吉敏子が率いるグループでは渡辺貞夫とフロントを担当するなど、
戦後日本のモダンジャズの胎動期をリードしたプレーヤーだった。代表作には「マイ・ピッコロ」「ラウンド・ミッドナイト」などがある。

♪ 某新聞訃報記事
宮沢 昭 -長野-(Miyazawa Akira)ts,fl72歳
1927年12月6日〜2000年7月6日
急性肺炎。陸軍の軍楽隊でクラリネットを担当、戦後テナーサックスに持ち替えた。秋吉敏子や渡辺貞夫とプレー、日本のモダンジャズ発展に貢献した。アルバム「マイ・ピッコロ」「グリーン・ドルフィン」「ラウンド・ミッドナイト」で日本ジャズ賞を三度受賞した。
1年前から入退院を繰り返していた。黛敏郎、八木正生が音楽監督、1968年映画「さらばモスクワ愚連隊」でも演奏している

☆さらばモスクワ愚連隊 製作=東宝  1968.03.22 7巻 2,651m カラー
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製作 ................  藤本真澄 神谷一夫  監督 ................  堀川弘通  原作 ................  五木寛之
音楽 ................  黛敏郎 八木正生  録音 ................  渡会伸
−演奏−
ピアノ ................  八木正生  宮沢明子(宮沢さんのお嬢さんではありません)
ドラム ................  富樫雅彦
トランペット ................  日野皓正
トロンボーン ................  東本安博
テナーサックス、アルトサックス、クラリネット ................  宮沢昭
ギター ................  沢田駿吾
 
配役    
北見英二 ................  加山雄三  磯崎 ................  黒沢年男  坂井ユウ子 ................  野際陽子
ブルー・ポートで演奏する客  ピアノ ................  杉野喜知郎  ベース ................  鈴木勲夫
                  トランペット ................  吉田信行  ドラム ................  小津昌彦


2001年1月14日東京神田TUCでの追悼コンサートのPHOT等(小川さん撮影)


♪ 2001年2月10日 宮沢昭メモリアル・テープコンサート 岡崎市美術館 内田修先生 森剣治氏

当日は百席ほどのホールが満席で、内容も宮沢さんのフアンには涙の出るような内田先生所有の名古屋でのリサイタル他を聴かせて戴き感激ひとしおでした。


写真撮影・提供:岡崎資夫氏



♪ ビッグ・テナー健在!!
 
植田紗加栄著書「そして、風が走りぬけて行った」のプロローグの一行目に「日本のジャズミュージシャンが、誰よりもプレーしたいと声を揃える相手は、サックス奏者の宮沢昭だと言う」と書かれた一節が有る。その行を読んだとたん僕は嬉しくて舞い上がってしまい、開いたばかりのハードカバーを閉じて、心の中で幾度もこの嬉しいフレーズを繰り返した。「マイ・ピッコロ」からカムバックした宮沢さんに微力ながらも演奏の場を提供できた事は、僕(店)にとって名誉な事だったし、今でも誇りに思っている。そして、大地に根ざす農夫の様なたくましさと、まるで少女の様なデリケートな繊細さを併せ持つ宮沢さんの人柄に、多くのファンの人達も同様であろう、たまらない親近感と人間愛を感じてしまう。
とにかく僕にとっては世界で一番愛すべきミュージシャンなのだ。 都合で2日目しか聴きに行くことが出来なかったが、この日、10数年ぶりの宮沢さんに胸をワクワクさせて、その姿がステージに現れるのを待った。トリオ演奏が終わり、池田さんが宮沢さんを呼び込んだ。期待は動悸に変わった。食い入るようにじっと上手を見つめる。宮沢さんがゆっくりと出てきた。一瞬、月日の流れを埋めれず戸惑った。ストラップに吊ったテナーが重たそうに見えた。一寸悲しかった。目頭が熱くなるのを覚えて、瞼を閉じた。テナー・マッドネスのテーマが流れる。もう幾度なく聴いた宮沢さんのオハコだ。暫くの間呆然としていた心の中に宮沢さんの体温と鼓動が徐々に浸透してくるのを感じ、ステージに目を戻した。
そして、あの本に書き記された昭和の、僕の知らなかったジャズ。そして昭和の、僕が知っているジャズが宮沢さんを中心に走馬灯のように頭の中を過った。昭和のジャズを培ってきたビック・テナーは平成10年9月14日、僕の眼前で、その健在ぶりを示してくれた。 テナー・サックス、宮沢昭。万歳!。そして、内田先生、YJC。乾杯!。 
 演奏の始まる前に池田さんから小津さんの不調を聞き、心配だった。数週間後その悲報に接し、YJCの初回からの出演者としても、このコンサートに出演出来なかった事の無念さを想うと胸が痛くなってしまった。ライブの後、お客さんの住所を丹念にメモしたり、アマチュアに一生懸命ドラミングの指導をしていたことなど思い出します。 
 ご冥福をお祈りします。

小澤伸一(JAZZ ROOM KEYBOARD)



♪ 《気まぐれジャズマン》
        
                                     水戸守敬一郎

☆昭和28年8月、上田剛(b)のフォー・サウンズ結成には、守安、宮沢明、平岡昭二(ds)が集結した。宮沢明は守安の推薦であったという。このフォー・サウンズの時代こそ、守安の才能が花開いたいわば最盛期といっていいかも知れない。「守安、宮沢は自分のスタイルを形成しつつあって、二人のプレイはすさまじい気迫がこもっていた」とは内田修の言葉である。この年にはハンプトン・ホース(p)が軍楽隊の一員として来日し、日本のミュージシャンとセッションを重ねていた。ホースはフォー・サウンドの演奏を聴き、「日本にもこういうジャズをやるバンドがあるのか」とつぶやきを漏らしたという。

宮沢はやがて秋吉敏子(p)のバンドに移り、二人の共演はジャムセッションでしか実現しなくなった。幻のモカンボ・セッションは宮沢が守安の下を離れた、3、4ヶ月後の後のことだ。


♪ 以下竹内俊介さんのtsubuyakiより(竹内さんのご好意で提供していただきました) 

●悲しいニュースをお伝えしなくてはなりません。テナーサックスの巨匠、宮沢昭さんが去る7月6日逝去されたと知らされました。浜松から東京三鷹に移られかれこれ2年になりますが、東京での体調は思わしく無く入退院をくり返して居られましたが、肺炎を併発され亡くなったそうです。
マスコミには発表しておりませんので、この事は一部の方しか知らされていませんが、日本の星が落ちたと悲しんでおります。小津さんの葬式の時、彼を送る為にテナーサックス1本でBody And Soulを吹いていた姿を思い出します、それがまだついこの間だというのに。
宮沢さんの晩年の10年間、私たちにおつき合い頂き本当に勉強になりました、感謝しています。有難うございました。合掌。
up date 2000.7.10

●小津さんの葬式の時、宮沢さんは東北ツアーからそのまま東京に着いたのだが、テナーサックスを吹いて帰りの時である。ピカピカのセルマーを吹いた人がいたが、同じテナーのケースが2つあってどちらか判らなくなった。
宮沢さんの楽器はセルマー・マーク6だがケースだけ新しいものに替えていたからである。「開けてみようか」という事になった、緑青の噴いた小汚いテナーが出てきて「あっこれだ」という事になったが「汚ねえなー」と大笑い。
ステージでライトを当てると綺麗に見える楽器も実際はボロボロである。
年期が入っているとはこの事をいうのである。康雄の吹いているテナーもマーク6(アメセル)だが宮沢さんのに比べたらまだ綺麗だぜ。しかし宮沢さんの音は良い音してたねえ。
 ♯康雄さんは竹内さんの息子さんで私の推測では、宮沢さんの唯二人の弟子の一人(もう一人は川嶋哲郎)、多分日本のサックス界を背負って立つと思われる将来有望な23才の好青年です。

竹内さん親子トリオ










●CDプレーヤーが調子良いのでやたらCDを聞いている。最近CD音楽を聴くのは珍しい、そう言えば宮沢さんはあまり聞かないと言っていた。
「どうして?」と聞くと「ひとの音楽聞くとやらなくてはいけない様な気になる、やりたい事が沢山あるからなるべく聞かない様にしている」という答えである。

●私が始めて友釣りをやったのは20数年前の浦川である。2匹の友鮎を持って行った、1匹目は鼻環が付けられなくて逃げてしまった。逃げられてはなるものかとギュっと握って付けたら、弱ってしまい全然泳がない。これが私の友釣り初経験である。それから宮沢名人の登場である。
囮鮎が暴れない様にするには人差し指と親指で目を押さえて軽くお腹を掴むのが良いから、鮎を泳がせるには水中糸の張り方をこう操作する、仕掛けは針から糸までどう使えば良いか手取足取教えてもらった。何回かご一緒して現地でも教えて貰った。友釣りは良い師匠がいないと出来ないと云われているがその通りだと思う。
師匠のお陰で鼻環仕掛けや掛けバリの作り方、針の研ぎ方まで全部出来るのだから。

●我々ミュージシャンは自分の演奏に自信を持っている訳じゃない。どこかに「これで良いんだろうか」という微かな不安を持っている。菅野さんも宮沢さんも心の中で「これで良いんだろうか」という気持ちを持っていた。これを自信の無いとは取らない、稲穂が実る程頭が下がると同じで音楽に対して真摯な姿勢だと解釈した。
あれだけの才能を開花させた人でもなお「これで良いんだろうか」と思っているのは、音楽家として立派なスタンスだと思う。だから尊敬するのである、駄目な人程自分のことを実力以上に見せたがる。私もそうだが解っていないヤツ程、したり顔で解っている様な顔をする。嫌になっちゃうね。

●康雄が始めてサックスを買った時、宮沢さんの所へ持って行った。セルマーのピカピカのアルトサックスである。「おー良い楽器だなー」と言ってケースから取り出してなで回した。康雄が「どう吹けば良いですか?」と聞くと「この音を出したいと思ってブリっと吹けば良いんだよ、出したいと思ってその音を出せば出るんだよ」と言った。
「あなた中学生の坊やにそんなこと言ったって」と奥さんがおっしゃる。「解る人には解る、大人でも子供でも同じだよ」と言った。それが康雄が宮沢さんに教えて貰った最初である。康雄はサックスの音を聞いたのが小学5年生、私達が宮沢さんとカルテットを始めた時である。私達の録音を何時も聞いていた。家で練習する時は生で宮沢さんを聞いていたのだ。

●宮沢さんの数奇な運命を聞いてもらいたい。終戦間際、陸軍音楽隊(團いくま氏や芥川也寸司氏が同部隊にいた)にいた宮沢さんは慰問の為に広島に駐屯していた。先輩の楽器を担がされヘトヘトに疲れていたから、軍医に診察してもらったら「単なる疲れだ」と言われ休ませて貰えなかった。鬼軍医に見えたそうだ。
一人が急性盲腸炎で入院し、羨ましいと思ったそうである。彼を残して部隊は四国へ渡った、そこで広島に新型爆弾が落ちた事を知った。九死に一生とはこの事である。すれすれで原爆に遭遇しなかったのは運が良かっただけだろうか、ちなみに陸軍病院は爆心地のすぐ近くであった。盲腸炎の戦友は当然跡形もなく亡くなったのである。
彼が原爆に遭遇していたら日本のジャズは変わっていただろう。

●宮沢さんの奥さんは「みや子さん」というが本当は宮子さんと書く。宮沢さんと結婚して宮が続くからひらがなに変えたのだそうだ。お父さんは宮内庁に勤めていたから「宮子」と名付けられたそうだ。ただ生まれた時大正天皇が崩御されたから、遠慮して生年月日をずらしたそうで本当じゃないと言っていた。
水戸出身の家柄の家系である、それでないと宮内庁に勤められる訳がない。戦後宮沢さんが音楽家の家に下宿していた部屋に押し掛けて結婚したのである。「ドアを開けたら布団を抱えて立っていた」と宮沢さんは言っていた。
大恋愛で一緒になったのである。あー当てられること、参った。宮沢さん夫婦は日本のジャズの創生期を見て来た訳である、本を書いてくれとお願いしたのだが「まだ関係者が存命中だから本当のことは書けない」とおっしゃった。「そして、風が走りぬけて行った」という講談社の本がある。
これには伝説のピアニスト守安祥太郎のことが書いてあるが全部ではない、書けない事もあるのである。宮沢さんの亡き後、真相を知るのは宮子さんしかいない。

●天下の宮沢さん、蚤の心臓だった。気が優しいと云った方が良いが、やりたくないライブが結構あったのである。「これじゃあ佐藤君(ピアニスト佐藤雅彦さん)に申し訳ない」とかなんだかんだと理由をつけて、断ろうとしていた。
精神的プレッシャーに弱い人でレコーディングやライブというと、必ずどこかが具合悪くなって奥さんが頭をさげて回らなくてはいけない羽目になっていた。私の持っていった仕事を良くもやってくれたと感謝している。
私達と一緒の時はプレッシャーを感じなかったのだろうか、「お前たちは息子と娘のようなものだから」と言ってたから良かったのだろう。とにかくピリピリしない様に家族揃ってという感じでやっていた。それが良かったのだろうと思う。
昭ちゃん(宮沢さんの長男)と一緒にカルテットやってた頃は本当の家族みたいだった。懐かしい。

●書類を整理していたら懐かしいパンフレットが出てきた。10年前の宮沢さんと写ったものである。「この頃は若かったなあ」あんまり懐かしいから掲載します。真ん中のお姉ちゃんはモデルで知らない人だけど、とにかくこの3人で表紙になったんだよん。

●宮沢さんの未亡人(みや子さん)から電話を頂いた。今年は夫の宮沢昭さんが他界され、大変な年だったのである。私たちは10年以上に渡る長いお付き合いで、宮沢昭さんの一切の面倒を彼女が取り仕切っていたのを知っていたから、亡くなった宮沢さんは勿論の事、奥さんにもご苦労様と申し上げたい。
あんなに神経がナイーブだった宮沢さんを陰で支えていた人である。普通では出来ない、彼の音楽を理解し心を解っていた御夫婦を他に知らない。掛川城の誉れ高い「山の内一豊の妻」にも負けないと思う。私たちが宮沢さんを尊敬しているのは音楽だけではない、素晴らしいご夫婦の生き方に感動したのである。
年明けに追悼コンサートが企画されていると聞く、まだその打ち合わせがあるそうだ。夢に御主人と小津さんが出てくるという、「亡くなっても心配することないのに」とお嬢さんに言われたそうである。お嬢さんは中野にある高校の音楽の先生である。合唱の指導で関東では有名だそうである、奥さんの血を継いでいる。

●「宮沢昭ディスコグラフィー」をリストアップした人がある。実に70タイトルを超えるジャズのLP、CDを発表した事になる。宮沢さん本人はそのほとんどを持っていなかった。というより「そんな録音やったっけ」という具合で無頓着だった。
越路吹雪さんとの13年間で作ったLP、その他のジャンルの録音を数えたら膨大な量で、忘れてしまっても無理はないと思う。アルトサックスでクラシックの作品を吹いている珍しい未発表の録音も手許にある。ただそれだけ沢山のレコードを発表しても気に入ってるものは数枚しかなかった。
「あれは最初ちゃんとやっているが後半は嘘だ」とか「あの録音は駄目だ」と言っていて、気に入ってるのは2枚だけだったようだ。そのCDでも「あの曲は気に入らない」と言ってたぐらいである。とにかく厳しくて、完璧と言えるものを求めていたから難しいものだと思った。

●宮沢さんは茶目っ気があったから、楽屋で面白半分に誰スタイルで吹いてくれとリクエストすると何でもやってくれた。レスターヤング、コールマンホーキンス、ハンクモブリー、スタンゲッツ、ソニーロリンズ、コルトレーン、はたまたシルオースチンやサムテーラーまでそっくりに吹いてくれた。
音質もフレーズもそっくりなのである、耳が良いのだ。「俺はカメレオン宮沢と言われたことがある」と言っていた。ステージでは絶対吹かなかったが、「ダニーボーイ」「ハーレムノックターン」はクリソツで笑っちゃったよ。「ほんとに巧いなー」と思った。みんなが知らない彼の一面である。
宮沢さん曰く「40才になった時、物まねじゃ駄目だと気がついて宮沢節を考えた」という訳である。

●カルテットでステージが始まる前は「何を演奏するか」で何時もメニューを書いていた。「宮沢さん、この前はこの曲だったから今日はこれで行きましょう」「ここらでスローかボサノバを入れた方が良いのではないですか」等と曲順を決めるのである。
「同じキーが続いてしまうからこの方が良い」などとなかなか良いメニューはできない。テンポ、キー、リズムとかを考慮してメニューは作られる。「毎回考えるのが面倒くさいから、竹内君そのメニューを残しておいてくれ」などと言っていた。これだけ苦労して曲順を決めるのである、
リクエストが来ると流れがメチャクチャになってしまう。出来ない訳ではないが遠慮してほしいのである。何でも出来たがやらないのである、同じキーが続いてしまうとアドリブフレーズが似てしまうのを恐れた。

●宮沢さんは反応が素晴らしいミュージシャンであった。ピアノがテンションいっぱいのコードをガーンと弾くとフレーズが俄にモダンになった。オルタードコードとナチュラルコードでは明らかに吹くフレーズが違う。宮沢さんは耳が良いのである、バッキング和音にすぐさま反応した。
「音が多すぎる、片手を縛って弾け」などと言われ晴美はサウンドについて良い勉強になった。ピアノにうるさい人だったから、カルテットをやり始め、私たちは本当に勉強になったのである。本に書いてない事、これは実際やってみるしか方法がない。それを体験できたのである。
「チックコリアは理論どうり音を使っている、嘘はやってない」などと言っていた。音楽に対して何処までも真摯な姿勢だった。私たちが「バッキングの巧いピアニストは誰だ」と意識し始めたのは宮沢さんの所為である。ソロを取っている時ではなく「バックにまわった時どんな事をやっているか」が問題なのである。
そういう聴き方をするとピアニストの評価が変わってくる、管と歌とではバッキングの仕方はおのずと違う。誰も気がつかない所でゴキゲンな事をやっているピアニストがいるのだ。

●In A Sentimental Moodというスタンダードがある。オリジナルではDm-Dmmaj7-Am(onC)-A♭dim(onB)と半音下降のベースラインを取るのは、元祖のエリントンを聞けば解る。しかし宮沢さんはBm7-5からE7に取れと言うのである。最初のベース音はBが鳴らなくてはいけない、キーはFmajである。
かなり過激な♭5thの音からスタートするのである。この意外性が好きだったのだ、ピアニストの佐藤雅彦の本にこのくだりが書いてある。今でも冷や汗が出ると言っている。Bm7-5はDm6の代理コード(構成音はDFABで同じ)だから使って悪い事はないが、元祖エリントンや大方のミュージシャンはオリジナルコードでやっている。
ピアニストの小川さんに聞いてみた。「そりゃDmの方が正しいよ」と言ったので、宮沢さんとやる時だけBm7-5を使う様に演奏した。それでないと内声の美しいオブリガートが出来ないからである。
ミュージシャンによって好き嫌いが有るという訳だ、康雄に言わせるとコードチエンジをやり過ぎると「吹きにくくて参っちゃう」と言っている、鍵盤奏者とホーン奏者では感じ方は違うのだ。同じ曲でもリハーモナイズで違った感じになる例である。ジャズの面白いところだ。

●ドラムの内山淳平さん(浜松で活躍している方です)から1997年12月の大晦日、宮沢昭さんとのライブの写真を送って頂いたので
掲載します。この時が宮沢さんとステージに立った最後です。

    在りし日の宮沢さんと竹内さん(グランドホテル浜松スカイラウンジにて)       宮沢さんと内山さん

●ミュージシャンは冗談めかして一言いうが、これが的を得ている。彼等からユーモアを取ってしまったら面白くも何ともない。やっていることは結構シビアであるからつらくなってしまう。ミュージシャンは誰でもギリギリのところをやっているのを知っているから、プレイについてお世
も言わないがあまり厳しい言い方はしない。
昔、決定的な事を言われ自殺した人や、未遂に終った人の事を聞いたことがある。自分の才能に疑問を持ち世をはかなんだ結果である。宮沢さんも若い頃は「鬼の宮沢」と言われ恐れられたそうである。
私たちがカルテットを組んだ時は60才の「仏の宮沢」になっていたから、死にたくなる程の厳しい言われ方はされなかった。しかし彼の演奏の素晴らしさに鳥肌が立ち、何度か死にたくなった。もうあんな天才とは巡り会えないと思っている。

●宮沢さんはいつも「色気出しちゃ駄目だ」と言っていた。私が書いている「開き直れ」と同義語である。人は自分を良く見せようとする、これがいけないのである。「等身大で見てもらえば良い」この心境になれるまで時間はかかったが、要は欲を捨てることである。仏教で言っていることである。
「自分に素直になれたら下手でもいい」とまで思った。「下手なベース弾いてます」と言えるようになった。それにかまけて練習が疎かになり本当に下手になった。練習しても上手くならない、ただ音楽が良くなるには「色気出しちゃ駄目だ」ということだと思う。禅問答の様な話になった。

●宮沢昭一(みやざわしょういち)というのは、宮沢昭さんの長男でドラマーである。我々は「しょうちゃん」と呼んでいるが、どうして自分の名前に安易に一を付けただけの名前を付けたのか、父親である宮沢さんに聞いてみた。
しょうちゃんが産まれた時、かっこいい名前を考えて区役所へいったら字が難しくて登録出きず簡単に一を付けて「昭一」にしたそうだ。おかげでライブハウスにクレジットされてもお父さんのほうに間違えられ苦労したと言っていた。
大物の息子は参っちゃうようだ共演するミュージシャンから「昔お父さんには虐められた」と言われ「俺の所為じゃないや」と思ったそうだ、苦労もあるものだ。彼は若い頃ギターをやっていて先生から「もう教えることは無い」と言われるほどの才能を開花させていたそうだ。
ドラミングはいたってシャープで強力、反射神経バツグンでレスポンスが良い。動物的ともいえる感性を持っている。ピアニストの菅野邦彦とトリオをやっていた。私たちとも沼津や浜松で何回もプレイしたが、宮沢昭カルテットでの仕事は結婚式ぐらいしか親子共演したことないのを「一緒にやろう」と狩出したのは私である。
リズムセンスの良いドラミングに宮沢さんも舌を巻いていた。私たちは宮沢さん一家ともおつき合いが始まったのである。

●宮沢さんにアドリブって何だと素朴な質問をした事がある。フレーズは頭の中の引き出しに詰まっている、それを「全部出し切って鼻血も出なくなった時、出てくるものが本当のアドリブだ」と言った。いつもではない、しかしそういう時が何回かあった。
本当に乗ってきてプチっと切れる時がある、其の時は背中に鳥肌が立つほど素晴らしい。彼に天才を感じる時である、まさに神憑かりになる。アドレナリンがでる至高の時である。

●宮沢さんの音楽は「どうしてあんなに存在感があるのかその基は何だろう?」と思っていたら答えが解った。オペラのテノール歌手のそれである。歌うことの大切さ、その存在感はオペラを聞けば解る。テナーサックスで歌を歌っていたのである。ジャズの話よりオペラの話の方が多かった。
パバロッテイ、カレーラス、ドミンゴなど聞かされた。椿姫のあのアリアは誰それのが良いとか、オペラ音楽は根本的に悲劇をあつかったものがヒットしたなどと御夫婦で私たちに教えて頂いた。「ジャズは屁みたいなものだが、それなのになかなか出来ないんだよ」と言っていた。音楽は奥が深い、それを極めるなんて神業だと思う。

●小津さんは40才から「ジャズプラザ」と称してツアーを企画していた。東北、中国、九州など地域を決めてコンサートツアーする訳だ。宮沢さんを冠したカルテットや、細川綾子さんを加えたバンドなどで計画されていた。そのスケジュールを送ってもらっていたが実に緻密、JRのダイヤなみである。
宮沢さんは「小津マメ彦」「あんなに緻密に神経使ってたら音楽に集中出来ないよ」と言っていた。地元の人には大歓迎される、だから酒はガンガン飲まされることになる。行った先々でである、毎日そんなことが続くから身体がもたない、宮沢さんはそれをいつも心配していた。小津さんは胃ガンで亡くなったが解らんではない。
神経使うのは良くない、ミュージシャンは根はナイーブだからね。生まれつき酒が強い人は別にして馬鹿飲みするとロクなことはない。皆さんほどほどにして下さい。

●今だに考えても解らない事がある。それは宮沢さんがどうして浜松に移り住んだのか理由が解らない。まだ相模原にお住まいの頃、3rdリサイタルで宮沢さんをゲストによんだ時、気よく来てくれたこと、晴美が感激のあまり涙を流したことがある。そのぐらい雲の上の存在だったのです。
宮沢さんはインタビューで私たちのことを「夫婦でがんばってるのは日本でも珍しい」と言ってくれた。それが理由か解らないが、それから半年もしない内に浜松の人となった。名古屋だったら活動範囲だしファンや内田先生も居たし便利だと思うのだが、何故か浜松だったのである。
ただ天竜川の鮎釣りのポイントは地元の私より良く知っていた。とにかく10年間この浜松を活動拠点とし、私たちに音楽の神髄を指導してくれた、これを神に感謝せずに誰に感謝しろというのか。

●先ほど東京より帰ってきた。晴美と二人で三鷹のお宅へ伺い、去る7月6日亡くなった宮沢さんの御霊前に生前のお礼をして来た。奥さんにも浜松時代には大変お世話になったお礼を申し上げてきた。私たちは10年間音楽の神髄を勉強させてもらい何とお礼して良いか言葉も見つからない。
音楽の歌うことの大切さ、それを身を持って教えて頂いた感謝の気持ちは例えようもない。本に書いてあることは読めばよい、しかし書いてないことは経験して解るしかない。何ごとにも換えがたい経験は、私たちの音楽の向上に本当に役に立った。
おかげで音楽の深さと素晴らしさを教えて頂き、身体中震えがくるほど喜びと興奮を覚えました。あんな天才はもう生まれてこないかも知れない、「日本の音楽界の星であった宮沢昭さん」が天に召されたことの損失は計り知れない。冥福を祈ります。
up date 2000.8.14

●戦後の昭和20年代、楽器が出来れば何でも良い、東京駅八重洲口に楽器を持って立っていると、トラックとかジープが来て「ピアノ、はいサックスはいるか?ベースはいるか?」てなもんで即席でバンドを組んで連れてっちゃうんだそうだ。どこに連れていかれるか分らない。
随分乱暴な話だが、本当だそうだ。それでもバンドにランク付けがあってABCとあったそうだ、宮沢さんのバンドは特Aで将校クラブで演奏しギャラも良かったそうだ。GHQは将兵の慰安の問題にいち早く対処していたのだ。占領下の日本、戦後のドサクサという言葉があるが正にドサクサの話だね。

●岡崎資夫カルテットで「つま恋」に出演してた頃、ゲストで宮沢昭を呼んでコンサートを開いた。ドラムは小津昌彦の予定だったが奥さんが急病でトラのタイコが来た。宮沢さんはレコードでしか聞いたことなかったので『あんなノタリ捲ったサックスどうすればいいの?』と小津さんに聞いたら『聞かずに聞け』と禅問答のような答が返ってきた。
それでも不安はあったのだが小津さんと一緒なら何とかなるだろう、と思っていた。ところが急きょトラのドラムである、その日「つま恋」に渡辺貞夫さんが来ていた。先輩である宮沢さんが来てるなら一緒に吹こうとなったのである。客は勿論喜んだ。
宮沢さん、渡辺さん、岡崎さんをフロントにライブは続けられたが、こちらリズム隊のほうは真っ青である、早く終ってほしいと願ったくらいだ。

●宮沢さんは越路吹雪さんの歌判を13年間やっていた。巷ではジャズからシャンソンに逃げたなどと勝手に噂されていたようだが、真相は違う。越路さんを芯から尊敬していたのだ。最初は宝塚の出身ということで気乗りしなかったそうだが、奥さん(元ソプラノ歌手で戦後コンクールで日本一になった人である)の強い勧めでやることになったそうだ。
奥さんによればクラシックの声楽家も越路さんの歌は誉めるそうだ。歌は数分間の劇である、娼婦から貴婦人まで演じ切るのである。彼女は天才だと言っていた。私たちは「サントワマミー」「愛の讃歌」などヒット曲しか知らなかったが「セラヴィ」「ジュテムレ」「初日の夜」など最高なのである。
越路さんは気が弱くて初日などは楽屋でソワソワ、立っていれない程だったそうだ。両脇かかえてステージの真ん中へ立たせ緞帳が上がればシャキっと舞台上の人になる。そんな彼女の歌をオブリガートで支えていたのだ、『もし彼女が倒れたらサックスぶん投げて助けに行く』そんな気持ちで吹いていたそうだ。
私のようにジャズが最高だと思っていたのは勉強不足、其の素晴らしさを知らなかったからである、良いものは良いのである。

●昔宮沢昭カルテットを収録する仕事をした。後に彼と一緒に演奏できるなんて考えてもみなかったけれど、その時はミクサーとして付き合ったのです。宮沢さんは演奏する時楽器を動かすから音がフワフワして具合が悪い、という訳でサックスに直接小さなマイクを取付る方法をとったが音質は気に入らなかった。
太い音に録るにはダイアフラム(振動板)の大きなマイク、例えばダイナミックでエレクトロボイスRE-20とかゼンハイザーMD-421を使いたい。コンデンサーならノイマンU-87ってところだ。RE-20もU-87も20万以上もする高いマイクだからどこにでもあるとは限らない。その後も宮沢さんを録るのには神経を使った。

●宮沢さんには鮎の友釣りを教わった。仕掛けの作り方、テグスの結び方、竿の使い方、オトリの泳がせ方など総べてのノウハウを伝授してもらった。友釣りは良い先生がいないと出来ないと言われている。川の釣りではプロと云われた宮沢さんである、「渓流の釣り」、「つり人」など雑誌に記事が載ったり、
一連のレコードのオリジナル曲に魚の名前がついていることでも判る。彼と奥さん私の3人で愛知県豊川上流の寒狭川へ友釣りに行った。大きい石がゴロゴロある川だ、石を乗り越えようとした宮沢さんコケそうになって竿で杖をつく格好になった。バキッ!と大事な竿を折ってしまった、
その友竿13万円もしたカーボンのダイワ製最高級品で奥さんに内緒で手に入れたのを知っている。ショボンとしている宮沢さん、『何をガッカリしているの、10万もしないんでしょ?』と奥さん、13万円の竿と聞いて『バカ!』の一言。あれは最高に笑えた。宮沢さんの釣り道具(浜松に引っ越す時、
楽器はトラックで運んだが竿だけは手持ちで持って来て大切にしてた)、ほとんど私の許にある、夏が来るとそのエピソードを思い出す。

●宮沢さんが書いた曲でDoctor "U"というB♭のブルースがある。これはベース弾き泣かせの曲で泣きながら弾いてきた。稲葉国光さんも井野信義さんもみんな泣いていた、と宮沢さんは言っていた。リフをベースソロでとるのだが、なんせハイポジションでその指型でしか弾けない難曲である。
宮沢さんが東京三鷹へ行っちゃってしばらく弾かなかったら弾けなくなってしまった。晴美に『パソコンばかりやっていて練習不足だ!』ときついお言葉を貰いました。シュンとなっています。私たちは練習というものをしないです。ずるいからという訳じゃありません。若い頃さんざんやったからもういいというものではないですね。
とにかく本番でミスるのはいけません、以後気をつけます。チャーリーパーカーはさんざん練習やったからああなった、などと息子に意見されてるようじゃ終りだぜ。やっぱりずるいのかな。

●ロドリゴ作曲アランフェス協奏曲の原譜見た事ありますか。主旋律のギターパートですが5連譜だか7連譜で真っ黒けの譜面です。それであのようにはまりきってないようなノリに聞こえるんです。コンボで使っている譜面はシンプルそのものですが、誰もそのように弾かないです。 独特のノリで歌っています。
これを正確に譜面にしたら真っ黒けになります。康雄が中学でサキソフォンアンサンブルをやっている時、宮沢さんを講師で招いたことがありますが8分音符の解釈で棒読みじゃだめだという個所があったのです。相手は中学生です。でもその個所を何回も歌って解らせようとする宮沢さん、
吹奏楽で団長をやっている友人がいるが彼も言っている、譜面をそのまま読めば音楽になるわけじゃないと。リズムというかノリが大切だという訳だ。ジャズだって一番大切なのはリズムだもんね。スイングする事それが命です。エリントンのIt Don't Mean A thing これだぜ。

●シェーンベルグの唱える『12音による作曲技法』を読んだことがありますが、コムヅカシイ本で解ったことはジャズのアドリブ方法論にはなり得ないということです。あまりむづかしいので途中でぶん投げたのですが、天下の宮沢さんは本がボロボロになるまで読んで、モノにしたそうで流石です。
『野百合』というCDでそれをやってるのですが、本人に言わせると一度使った音をワンフレーズの中で使えないのはコンピュータでもなければ出来ないと言うわけで、ありゃだめだと言ってました。ストラビンスキーをアナリーゼしたミュージシャンもいます。しかし先輩たちは真面目に勉強してますね。



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