鬼束ちひろは神の子なのか?

1、はじめに
 日本のミュージシャンで宗教っぽい人を探していたらふと鬼束ちひろの名前が思い浮かんだ。僕はこの人についてはシングル曲(売れた曲)くらいしか知らなかった。しかし友人がことあるごとに「鬼束ちひろみたいな狂った文章を書きたい!」と言っているのを思い出したのだ。「そういえばこの人って歌詞で『自分は神の子〜』とか言っているから宗教っぽいよなあ。」と思った。そこでここでは「鬼束ちひろは宗教か?」という疑問を徹底追及していこう。

2、鬼束ちひろって?
「癒し系」がブームとなったニ、三年前にいきなり登場したのが女性シンガーソングライター、鬼束ちひろである。確かに鬼束の曲はピアノの弾き語りがメインで、鬼束の歌声も聴いていて心地よいものなので、サウンド自体は癒されるものかもしれない。しかし鬼束の歌詞は到底癒されるものではない。彼女の書く詞は痛い。生きる上での苦しみ、葛藤、孤独感、閉塞感、やりきれない思いなどを書き綴っている。女性シンガーソングライターにありがちな普通の恋愛の歌詞は皆無といってよいだろう。
 デビュー曲「シャイン」(2000.3)では、彼女が高校生活に感じていた息苦しい思いが吐露されている。この時彼女は若干二十歳だった。そして何よりも歌詞にインパクトがあったのはセカンドシングルの「月光」(2000.8)である。深夜ドラマ「トリック」の主題歌でもあったこの曲はじわじわと世間の注目を浴びてかなりのロングセラーになった。冒頭の「I am God's child. この腐敗した世界に堕とされた」という歌詞が実に印象的であった。この曲で鬼束の知名度はぐっと上昇し、同時に鬼束の歌詞に注目が集まるようになったのだ。(きつい言い方かもしれないが鬼束の曲は基本がピアノの弾き語りなのでバリエーションに乏しくどの曲も同じようなアレンジなのである。)
 「月光」のヒットによりネットでは鬼束の歌詞を分析するサイトも開設された。そのサイトを見てみると、一番様々な意見交換がなされている曲はやはり「月光」である。どうしても「鬼束といえば『月光』」というイメージがあるのだ。売上げを見ても一番売れている曲は「月光」である。というわけでまずは「月光」を取り上げて、鬼束の歌詞の宗教性について考察していこうと思う。

3、「月光」歌詞分析その1
 まず「月光」の歌詞を以下に示す(繰り返し部分は一部省略)。

I am God's child.(私は神の子供)この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field? (こんな場所でどうやって生きろというの?)
こんなもののために生まれたんじゃない  

突風に埋もれる足取り 倒れそうになるのを この鎖が 許さない
心を開け渡したままで貴方の感覚だけが散らばって   
私はまだ上手に 片付けられずに
I am God's child. この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field? こんなもののために生まれたんじゃない

「理由」をもっと喋り続けて 私が眠れるまで
効かない薬ばかり転がってるけど
ここに声も無いのに  一体何を信じれば?
I am God's child. 哀しい音は背中に爪跡を付けて
I can't hang out this world.  (この世界を掲げる事など出来ない)
こんな思いじゃ   どこにも居場所なんて無い 

不愉快に冷たい壁とか 次はどれに弱さを許す? 
おわり最後になど手を伸ばさないで  貴方なら救い出して 私を 静寂から
時間は痛みを 加速させて行く

 では僕なりの解釈を述べていこう。この曲のサビの始めで鬼束は「自分は神の子」だと言っている。サビの歌詞は場面ごとに微妙に変わるのだが、この部分は変わらないまま全部で五回も繰り返されている。明らかに鬼束はこの部分にこだわっているのだろう。こんな表現はそうそうできるものではないだろう。僕はこの部分に注目した。なぜ鬼束は「自分は神の子」と言うのだろうか? まずは「自分は神の子」だと鬼束が表現するに至ったプロセスを考えてみた。歌詞全体を通して読むと「やりきれない思い」が書かれていることはすぐに分かる。すると次の二つの可能性が考えられる。
 
 A:本当に「自分は神の子」と思っている
 B:「やりきれない思い」を書くために「自分は神の子」とたとえた

 さて、この二つの場合に分けて考えていく前にまずはこの歌詞を以下のように僕なりの解釈で分かりやすい言葉に変換してみた。(というのも鬼束の歌詞は非常に抽象的な表現が多く一読しただけではよく分からないのである。「月光」の歌詞を見れば分かるように具体的な名詞が非常に少ない。「鎖」・「爪跡」・「薬」くらいのものである。)


心を開け渡したままで貴方の感覚だけが散らばって 私はまだ上手に 片付けられずに

まだ神を信じているが神の存在を感じられない  


「理由」をもっと喋り続けて 私が眠れるまで

私にはなぜ神の救いがないのか教えて!


効かない薬ばかり転がってるけどここに声も無いのに 一体何を信じれば?

神の声は聞こえない。でも他に信じるものなんてない!


おわり最後になど手を伸ばさないで貴方なら救い出して私を静寂から

あきらめないから。神よ早く私を救ってください!

では、先ほどのAの場合ではどうなるだろう。この場合鬼束は「自分は神の子」と本当に信じているのでこの歌詞も本当のことをストレートに言っているということになる。要は「自分は神の子である。今私が生きるこの世界はつらいことばかりだ。だからどうか神よ早く私を救ってください。こんな世界では生きていけない。」と言っているわけだ。確かにこの場合では「月光」は宗教ソングになる。だが、決して神を賛美する宗教ソングではなく、神の救いがないことを嘆くといった内容の宗教ソングなのだ。鬼束は「自分は神の子なのに、なぜ神は私を助けてくれないのか?」と苦しんでいるのである。
 次にBの場合を考えよう。この場合鬼束は「自分は神の子」とは思っていないので、この歌詞は大きなたとえ話になる。つまり、「やりきれない思い」を抱えている自分を、「自分は神の子」とたとえることで、「神様どうか私を助けて!」と言っているわけだ。これだけでは世間でよくありがちな現実逃避ソングになってしまうのだが、鬼束はさらに「ここに声もない」と表現し、結局誰も助けてくれない孤独や絶望を書き綴るのである。
 これまで二つの場合に分けて分析してきたのだが、どちらの場合が正解なのだろうか。いや、どちらとも不正解で全く別の解釈が正しいのだろうか。本人に聞けば早いことだろうが、本人がインタビューなどで、「そうです。私は○○教信者です。」などと言っているはずもない。とりあえず、「月光」は保留して他の曲の歌詞を見てみることにした。

4、「月光」以外の曲の歌詞について
 「月光」以外の曲の歌詞を見ていくと、やはり月光ほどインパクトのある歌詞は正直なところ少ない。しかし何箇所か「月光」のように「神」が含まれている表現は見つかったので以下に並べていく。

A「神様 貴方がいるなら私を遠くへ逃がして下さい」(Cage)

B「Because God is watching you 
  God is holding your grief 
  God is watching all shadow
  研がらないその爪にさぁ願いを懸けて Yeah Yeah」(Little Beat Rifle)

C「FEEL ACROSS THE BORDERLINE
  NOW YOU'RE SAVED AND YOU UNDERSTAND
  さあ 神の指を舐めるの」(BORDERLINE)

D「I'm not your God.」(NOT YOUR GOD)

 これらを見ていくと鬼束の歌詞における「神(GOD)」の使われ方は統一してないように思われる。まずAでは「神様あなたがいるなら」と言っている。「〜なら」と表現するということは鬼束は神の存在を確信はしていないということだ。彼女が神を信じているなら、「あなたがいるなら」とは言わないだろう。しかしBやCでは「神はあなたを見ているから」・「神の指を舐めるの」などと言い切っており、「神は存在するんだ!」という確固たる信念が感じられる。そしてDは少し毛色が違う。「私はあなたの神ではない!」と言っているのだ。この場合の「神」は「あなたは神を信じる? 信じない?」という場合の「神」とは別物だろう。
 ここで重要なのはAとB・Cのような二種類の表現が同じアーティストの歌詞に存在するという事実なのだ。先ほども言ったが、鬼束が本当に神を信じているなら、Aのように、神の存在を「あなたがいるなら」などと仮定法で表現する必要はないはずだ。なので僕は、「鬼塚ちひろは宗教信者ではない」と考えた。そうすると、B・Cのように「神」をストレートに歌詞に登場させるのは一種のたとえであり、「言葉のあや」みたいなものと説明できる。彼女は、本気でいるとは思っていないのだがあえて神を歌詞に登場させることで自分の言いたいことを表現しているのではないだろうか。そう考えるとさっき保留したままの「月光」の解釈の答えが見えてくるだろう。

5、「月光」歌詞分析その2
 話を「月光」に戻そう。鬼束は神を信じているわけではないので、「月光」の「私は神の子」という表現も本気でそう思っているわけではないということになる。そうすると「やりきれない思い」を書くために「自分は神の子」とたとえたというのが正解になる。だから、「月光」は宗教ソングではないのである。もちろん「鬼束ちひろは宗教ではない」ということになる。

6、まとめ
 最終的には「鬼束ちひろは宗教ではない」という結論に至った。しかし鬼束の楽曲は宗教的である。微妙なニュアンスの違いではあるが、要するに「(スピッツの場合と同様に)本人が信じている信じていないは別にして、歌詞に『神』が登場する以上は宗教的世界観を持った楽曲といえる」ということだ。
 さて、今回の分析はほとんど僕の勝手な解釈によるものである。インターネット上の鬼束ちひろの歌詞を研究するサイトを見ると、「月光」に関しては実に様々な解釈があるのだ。僕の解釈は一つのアイディアにすぎないということを頭に入れておいて欲しい。それこそ本人が見たら鼻で笑うような解釈かもしれないだろう。
 鬼束本人はこれまでにインタビューなどで自身の楽曲を詳しく解説することはほとんどしてきていない。何よりメディアへの露出がさほど多くないのだ。しかし、だからこそファンは彼女の曲を必死に自分なりに解釈しようとするのだろう。今回これまでの彼女の曲の歌詞を全部読んだわけだが、「すごい」というのが一番の感想だ。彼女はまだ22歳なのだ。これからどんな曲(歌詞)を世に放っていくか非常に楽しみなアーティストである。