アンサンブルKATOOはまだ活動を継続しております。
こちらでは、第13〜15回定期演奏会で指揮者の千葉がお送りした宗教曲ステージをまとめます。
第13回定期演奏会より
伊橋さんの黒人霊歌
Same Train (Alice Parker and Robert Shaw)
The Battle of Jericho (Moses Hogan)
Ride the Chariot (William Henry Smith)
千葉の宗教曲集1
Pater Noster (Alejandro D Consolacion II)
O vos omnes (Kevin A Memley)
Ubi Caritas ピアノ付き (Ola Gjeilo)
Cantate Domino Canticum Novum (Vaclovas Augustinas)
O nata lux (Tom Porter)
第14回定期演奏会より
小島さんのルネッサンス宗教曲集
Ne timeas, Maria (Thomas Luis de Victoria)
Super flumina Babylonis (Orlande de Lassus)
Super flumina Babylonis (Giovanni Pierluigi da Palestrina)
Simile est regnum caelorum (Cristobal de Morales)
千葉の宗教曲集2
Pater Noster (Alejandro D Consolacion II)
Adventi enek (Zoltan Kodaly)
Hodie Christus natus est (Francis Poulenc)
Indodana (Michael Barrett and Ralf Schmitt)
Let us gather in the shadow of the cross (Brad Nix)
Exsultate justi in Domino (Brant Adams)
第15回定期演奏会より
千葉の宗教曲集3
Pater Noster (Alejandro D. Consolasion II)
Gloria (John Leavitt)
Gloria Festiva (Emily Crocker)
Dark night of the soul (Ola Gjeilo)
Luminous night of the soul (Ola Gjeilo)
The Ground (Ola Gjeilo)
宗教曲ステージ解説 [1][2][3][4]
指揮者より:霊の暗夜に至るEKT3年間の宗教曲集の構成について [1][2][3][4]
宗教曲ステージ・ステージ解説
今回の宗教曲ステージは、3年間に渡る宗教曲ステージの集大成となっています。パンフレットには曲の解説が掲載しきれないためここで紹介します
「暗夜」(
Dark Night of the Soul)とは、端的にまとめると、試練である。
試練の最中は、何故このようなことが起こるのかという理由はわからないし、自分に関連するものをすべてもぎ取られ、えぐり取られるような体験となる。神の不在を感じ、かつ、罪をもつ人間にとっては、神に見捨てられたという強い確信である。すべての助け、すべての努力、すべての祈りが無に帰す体験を通して、本来必要ではなかったものが洗い流され、浄化され、ただ精神は神のみへ向かうという心理的境地へのプロセスである。
これは、イエス・キリストが十字架に向かっていった道にほかならない。イエスが、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と十字架で語る姿と一致する。Dark Night of the Soulを歩む者にとって、イエスもまた同じ道を歩み、歩みきったことが慰めとなる。
第3ステージの最後の曲、
Luminous Night of the Soulは、十字架を受けての復活の物語である。「愛する者と愛された人を結んでくれた夜!愛された人を愛する者に変容しながら…」こう語れるのは、夜があったからである。
話が抽象的でわかりにくいので、十字架の前後で、最も心を揺さぶられた人物に焦点を当てたい。これは、千葉(指揮者)が曲から着想をしたイメージであるが、参考になればと思う。
主人公はイエス・キリストの一番弟子である「
ペトロ」である。
ペトロはもともと漁師であった。イエスとの出会いのエピソードとしては、ペトロがイエスから網を船の右に下ろすようにと言われ、そのとおりにしたところ大漁となったという出来事があった。ペトロは、仕事を捨てて、すべてを捨てて、熱心にイエスを信じ従った。イエス・キリストに最も愛されたと言ってもよい弟子である。イエスが、最後の晩餐で、自分が死ぬことを話したときに、そんなことを言ってはいけないと意見をし、そのときには自分も勇敢に戦うとまで、語っていた。
しかし、実際イエスが捕まると、ペトロを始め弟子たちは逃げてしまう。イエスが裁判にかけられている間、ペトロは、イエスの仲間だろうと問われたときに、イエスのことを知らない、関係がない、呪いの言葉で罵るということをしている(
ペトロの否認)。そのときに、イエスが以前、ペトロが自分のことを3度知らないと言うだろうという予言を想い出し、聖書には、「ペトロは泣きに泣いた」と書かれている。
この後の、イエスの十字架での死を、ペトロはどのように経験しただろうか。彼にとっての
Dark Night of the Soulは、自分の捧げたものすべてと自分自身の信仰・自信のすべてを奪われ、そして、なにより自分を最も愛してくれた相手を裏切ってしまった罪について最も苦しんだことに違いない。
イエスの十字架の死の3日後に、復活の物語が始まる。
イエスが十字架についたのはユダヤの過ぎ越しの祭り(
Festival)の前であり、そして、安息日の後に、イエスの死を悲しむマグダラのマリアは、イエスが葬られた墓に向かう。そこで、マリアに復活のイエスが現れる。ペトロは、マリアの話を聞いて墓に向かうが、イエスにまかれていた麻布を見つけるのみでイエスには会えなかった。
ヨハネによる福音書の最終章21章で、ペトロは、漁に出ようといって、他の弟子たちと出かける。しかし、夜を通しても魚は一匹もとれなかった。信仰の道が絶たれ、現実に戻ろうという決心し、漁師としての仕事にもどっても仕事すらもできない。ペトロにとって、更に深い暗夜である。
その後に、奇跡が起こる。21章4節「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」… 6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
ペトロは、イエスが出会ったときと同じように現れて、心から驚いただろう。そして、ペトロはすぐに海に飛び込んでイエスのもとへ行く。私は、このときのペトロの気持ちは、本当に嬉しく、そして、本当に悲しく、恥ずかしく、辛かったに違いないと思う。
イエスはこの後、ペトロに3回「私を愛するか」と尋ねるが、ペトロは、素直に「はい」とは答えられない。3回尋ねることは、ペトロが3回イエスを否定したことと重なる。ペトロは悲しくなり「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と返事をしたと聖書にはある。イエスはこの答えを否定もせず、そのまま受け入れ、「私の羊を飼いなさい」という使命を与える。
ペトロは、イエスを助けるべき、一番大事なところで、イエスを裏切るという大きな失敗を犯した。イエスを失い、信仰を失い、仕事を失い、能力を失う、という暗夜を通った。しかし、ペトロにとって、この失敗がリーダーとして最も必要な条件になっただろう。この闇は、深く辛いものであったが、闇を通ったところで、ペトロは、自分の罪、弱さを直視し、そして、心から苦しんだはずである。そして、一番大事なことのみ「イエスを愛する」ということにも、肯定できない自分を、そのまま受け入れるイエスと出会っている。十字架の前のペトロなら、勇んで主を愛しますと宣言したであろうが、ここには、違う人物がある。
ペトロは、暗夜を通り、イエスと再開し、そこで、新たな使命を得た。ここから初代のキリスト教教会が始まった。
「暗夜」の歌は、夜を抜けた時点で読まれた歌である。第5の歌は、闇の中で、愛するものと愛されるものが出会い、闇を通って、「愛されるものが愛するものに変わる」ことが書かれている。
Dark Night of the Soulは、カトリック神秘主義の聖人である、十字架の
聖ヨハネの詩による。十字架の聖ヨハネは、1500年代のスペインの教会博士であり、厳格な信仰生活を説いた。このことで、周囲から疎まれ、同僚のクリスチャンから牢獄に繋がれるという非常に不遇な経験をしている。この、不遇な経験のときに、詩に目覚めたとされ、この「暗夜」は、十字架の聖ヨハネの神学を表す非常に重要な詩とされている。
本人自身がこの詩に対して、数冊の解説書を書いており、非常に難解な詩である。とともに、この詩がもたらした、信仰者への影響も計り知れない。
十字架の聖ヨハネの説く、「
暗夜」は、決して多くはない信仰者にとって、神から贈られる非常に稀な体験であり、神との一致を目指す信仰者の、すべてを奪っていく体験である。神以外のものへの価値を見いださず、ただ、神とともに歩むと決めた者に、まさに襲ってくる体験である。この暗夜の体験は、身体的にも精神的にも、非常に苦しく、そして、信仰者にとっては、その意味を見出すことができず、長年に渡って悩み、信仰から離れてしまうものもある。
暗夜の体験には2つの段階があり、一つは「
感覚の暗夜」と言われ、いわゆる外的に感じられるものが取除かれる体験である。人、モノ、金、情報ノウハウといったものを奪われ、価値を失う体験である。次の「
霊の暗夜」は、更に心のあり方そのものに関わる。今までの生き方、考え方、価値観、行動、更には、想像、推論、希望、楽観、悲観、思考を否定されていく体験である。これは、犯してきた罪の問題、自分とは何か、生きる目的とは、命とは、といった問題につながる。重要なのは、信仰者にとって一番の心の拠り所であるはずの、「神」そのものから、見放されている感覚、または、神から見放されても当然であるという感覚に支配されることである。
この暗夜に苦しんだ非常に有名な人物が、「マザーテレサ」である。
マザーテレサは、非常に経験なクリスチャンであることは、言に及ばないが、若き日にイエス・キリストとの霊的な体験があり、この体験から、インドのカルカッタの貧困層を支援する活動を始めたとされる。しかし、マザーテレサの死後、カトリックの聖人に選ばれる「列聖」のための調査が行われた際に、非常に驚くべき事実が明らかとなった。それはマザーテレサが、非常に長期に渡って、言うなれば、インドへ渡ったその時から、亡くなるときまで、信仰的な空虚感、神の不在に悩まされていたのである。マザーテレサは、ごく一部の神父のみにこのことを打ち明けている。
私は、アメリカでの生活の中で、当初大きな挫折にぶつかった。力の限りで、なんとかしようともがいたがどうしてもうまく行かない日々であった。医師として、研究者として、父として、成人としての能力や自信を、全く無くしてしまう体験であった。どうして、アメリカに来たのだろう、どうして研究をしているのだろう、どうして医師をしているのだろう、何をするためだったのか、どうして今自分はここにいるのか、について、直面し、研究者、医師の生活の振り返りから、医師を志すとき、もっと幼少の頃に果たして自分は何をしたかったのかなど、何をどうやって生きてきたのだろうか、とずっと考える日々であった。
この苦しみを通して、この体験の意味を探し、考えたが、いまだに十分には、その意味は分かっていない。私にとっては感覚の暗夜であり、霊の暗夜であり、辛く苦しい日々であったが、すべての自力を奪われて、全てを諦めたそのときに、やっと扉が開いた。
医師として必要とされ、研究が始まり、人とのつながりが回復され、思いがけず指揮者としても求められた。幸いにも帰国後も、アメリカでの体験、経験が活きている。
暗夜は、二度とゴメンであるが、そこを通して、得たものも多かったと思っている
帰国後、私は、EKTで、3年、3回に渡る宗教曲集ステージを構想した。
第13回定演では、旧約聖書の
バビロン捕囚を扱った。これは、ユダヤの王国が誕生し、そして、滅亡していく物語であり、救世主を待ち望む心からの希望へとつながる。
第14回定演では、新約聖書の
キリストの受難を扱った。これは、待望の救世主を、ユダヤ人自身が、十字架につけてしまう物語である。イエスの十字架の死から、すべての罪の許しがもたらされ、キリスト教の信仰が始まった。
13回、14回で、見えるのは、人間は大きなものを与えられても、それを自らだめにしてしまうという性質のようなものである。希望や信仰は、それ自体は、とても大事なものであるがが、それは、求め、愛されたいという心のありようである。結局信じたいものを信じる、というところに留まっている、未熟なあり方からは抜けきれない。
聖書では、大事なものは、信仰と希望と愛であると書いてある。そして、一番大事なのは愛であると書いてある。
今回の
Dark night of the soulは、13回(希望)、14回(信仰)で、解決されなかった問題への一つの逆説的な解決である。暗夜にとどまること、そここそが自分のいるべきところと思うところから、やっと変わってくる。能動的な部分がすべて奪われたところで、能動的でないかのように能動的になる。愛することなどできないでいて、愛するようになる。人間にはDark night of the soulを超えることはできないが、イエス・キリストが十字架を通ったというその事実が、どこまでも苦痛の中にいる人間の慰めになる。クリスチャンでなくても、信仰、または、大きなるものへ心を委ねることが、慰めになることがある。
暗夜の第1、2の歌は、「我が家はすでにしずまったから…」とある。これは、全ての自力を奪われ、亡くし、もう何も残っていない状態を示している。逆説的に、この状態に置かれることで、第3の歌で歌われる、
「ひそかに私は出て行った、心に燃え立つ光の他には 何の光の導きもなしに。」ということが可能になるのである。
暗夜に入ること、それは、神からのもだえる愛の炎であり(第1の歌)、秘密の梯子でしか、行けない(第2の歌)、極めて稀な体験
「おお、すばらしい幸運!」なのである。
そして、第4の歌、第5の歌で、光と、闇が「愛された人を愛する者に変容しながら…」というプロセスに至らせることを示している。
第6,7,8の歌は、まさに、能動的でないかのように、能動的である。
愛するということは、とても能動的であり、意志が必要となる作業である。
マザーテレサは、私は死んでも天国には行かずに、地獄で苦しむ人達を助けつづけます、と語っている。これは、マザーがイエスを体験した経験から、「来て、私の光になりなさい」と言われたことと通じる。カルカッタの貧民層の苦しむ人々の中に、イエスをみたという。私は、イエスを慰め続ける、という行動を実践したマザーテレサは、イエスや信仰を感じることができないでいるままにとどまり、
十字架の聖ヨハネの暗夜の体験を通して、真に愛することを実践した。
愛されるものが、愛するものに変わる体験。それが、暗夜である。
EKTは15年続いたわけであるが、EKTにとっても、
歌を歌う、という単純なことを、単純なままに続けることがどれだけ大変であったかと思わされる。人が増え、規模が大きくなり、歌を歌うということよりも、大事に見えることがとても大きくなってしまった。その中で、歌を歌うということ以上のものを守ろうとして、
EKT自身も多くの暗夜を通って来たと思う。暗夜を通ることで、また再度、「歌を歌う」という単純なところに戻って行くこと。そして、その歌を歌うということを守ることが、能動的で無いように能動的に、当然のことを当然にできるように。
EKTが15歳になったということからは、子供のままではいられない年齢になったとも言える。今までのEKTも、楽しかったし、これからのEKTももっともっと楽しみたいと思っている。
宗教曲ステージを3年3回組むという構想は、アマチュア合唱団が取り組むには、非常に無謀で、実現は困難と思ってきたが、なんとかここまでたどり着くことができた。きっと音楽も、EKTに歌ってほしいと願っていることだろう。精一杯、団員と、お客さんと、関わる全ての人と、音楽を楽しみたい。
ステージ解説以上。