アサヒグラフ3・17のBob Dylanカラー特集


P.8、9、10

フォークの本場関西でディランは心を開いた

海の向こうで、どんな風が吹いたのか知らないけれど、あのボブ・ディランがやってきた。
最初この話をニュースで知ったとき、ちょっと驚いた。どういったらいいのか、うれしいけれど悲しいとでもいうのか。

というのは、なにかでディランが「英語の通じないところではうたいたくない」といっているのを読んだことがあったし、また、彼のことを知っている人ならわかると思うけれど、昔のデイランならぜったいに考えられないことだったからだ。

週刊誌にのった「遅れてきたディラン」とか「慰謝料稼ぎの日本公演」という記事をみながら、やっぱり時代は変わったのかなと思ってみたりもした。

しかし、よく考えてみると、レコードや映画でしか知らなかったディランを目の前でみることができるのだ。
これは素晴らしいことではないか。

たしかに、ディランについてはたくさんのことが語られている。
たとえば、「ロック百科」のディランの項をあけると、六ページにわたって横文字がぎっしりつまっている。
本屋をのぞくと、ディランに関する本だけで十冊もあるという。
レコードだってLPがすでに二十二枚も発売されている。
雑誌になると話はもうべらぼうだ。
音楽雑誌はいうに及ばず、詩の雑誌、英語教育の雑誌にまで、ディランは顔を出している。
「ビートルズ、ローリング・ストーンズと並ぶロックの三大スーパー・スター」から「現代の吟遊詩人」「ボブ・ディランを解釈するのはもうやめよう」というのまでさまざまだ。
近ごろでは男性雑誌にまでインタビュー記事がのり出した。
なんでもアメリカでは、ディラノロジストといって、ディランの研究家までいるという。
二年前のアメリカ大統領選挙のとき、カーター氏が演説に好んでディランの歌を引用したともいう。

しかし、なんといっても、本物の魅力にはかなわない。
そこでさっそく公演を見に出かけた。

どこか吹っきれたようなうたい方


二月二十日。
一万二千人収容の日本武道館はすでに満員に近い盛況だった。
暗いステージを十二人の影が横切る。
やがて、正面に一筋の青いスポットライトが当たると、そこにボブ・ディランが立っていた。
白いスリーピース姿で浮かび上がったディランは、左足でリズムをとり、エレキ・ギターをかきならしているのだった。

目の前に見るディランは鼻の大きな男だった。
背は高からず低からず、アメリカ人としては小柄なほうだろう。

若かったころ、やせこけて骨がつき出ていたほおは、いまふっくらと丸味をおび、「腐ったミルク色の肌」と形容された顔には、白く仮面のように化粧をほどこしている。
目には青のアイシャドーもぬっている。

姿や形だけからいうと、その夜のディランには、いくつもの嵐をくぐりぬけてきた、大人の雰囲気すら感じられた。

歌は、何の挨拶もなくはじまった。

かつて、口にハーモニカをくわえ、生ギターをかきならし語るようにうたったというディランの歌が、バック・ミュージシャンたちによって、次々とロック、ブルース、レゲエとリズムをかえて演奏される。
電気回路を通じて何層倍にも増幅された音にまじって、ディランの、あのしわがれ声が聞こえてくる。
母音を強く突き出すようなうたい方は、昔とかわらない。
ただちょっと違うのは、歌に対する感情移入の仕方だ。
かつてのように、どこか思いつめたようなうたい方ではなく、なにかぽーんと吹っきれたようなうたい方だ。
昔の歌は言葉もほとんどかわっていないのだけど、そこには、過ぎさっていった時の流れのようなものを感じさせる。
一つ一つ、どの歌も、六十年代から七十年代にかけて、ディランによって作られ、今日まで生き残ってきた歌ばかりだ。

夢を見るにはあまりにも・・・


ぼくが「風に吹かれて」を知ったのは高校生のときだった。
ラジオの深夜放送からピーター・ポール・アンド・マリーの歌として流れてきた。
「時代は変わる」を聞いたのは、四畳半の下宿でだった。
大学は無期限ストライキに入っていた。
「ライク・ア・ローリング・ストーン」に驚いたのも、そのころだった。
六〇年代のおわりから七〇年にかけ、ほんとうに、いろんなことが同時に起こった。
パリに「五月革命」が起こったとき、ベトナムでは戦争が続いていた。
チェコの国境をソ連軍が越えたとき、アメリカでは黒人暴動が続いていた。
日本だけではなく、世界地図のなかで、同時代的にいろんなことがおこっていた。
ほんとうに、なにかが音をたてて崩れていくような予感さえした。
しかし、それは幻だったと気づく。
風に吹かれて、シャボン玉のようにこわれて消えていった大きな夢、小さな夢。

ディランの「ミスター・タンバリンマン」という曲を知ったのもこのころだった。

ヘイ・ミスター・タンバリンマンうたっておくれ ねむくはないけど 行くところもない

という呼びかけではじまるこの歌は、こんな文句があとに続く。

夕べの帝国は砂にもどり
この手からは消え
ひとりここにめくらのように
立ってはいるが まだねむくはない
この倦怠はものすごい わたしは足に釘づけになっている
だれにもあいたくないし
むかしのむなしい街頭は夢を見るには あまりにも死んでいる

(片桐ユズル・中山容訳「ボブ・ディラン全詩集」から)

その夜、ディランは、この歌を二曲目にうたってくれた。
はじめ、エレキ・ギターがゆっくりとメロディーをはじき、そのあと、バックが加わって歌となった。
耳をかたむけるとピッコロの音が聞こえ、うしろではタンバリンもたたいているようだ。
なんだかとってもなつかしい気分になったことはいうまでもない。

ここでちょっと説明しておくと、その夜、ディランは二時間半にわたって二十五曲ほどうたってくれたのだが、どういうわけか、もう一つ雰囲気が盛り上がらなかった。

八角形の武道館の構造が、音をあちこちに反射し、耳が痛くなったこともあるが、ディランだって元気がなかった。
どうしてだろうかと考えてみたのだが、思い当たることは一つしかなかった。

神様じゃないただの人間だよ


二月十七日、羽田のホテルで記者会見が行われたときのことだ。
この日は、ディランの初来日とあって、百人を越える報道陣がわんさと押しかけていた。

そこへ、一時間余り遅れてディランが姿をみせたのだが、彼は終始ブスッとした表情で、機嫌がよくなかった。
カメラのフラッシュがまぶしすぎるのか、黒のサングラスをかけて、インタビューに応じるのだった。


なぜ日本に来られたのですか。
―これといってはないが、ただ一度日本には来たいと思っていたからさ。

日本については。
―フジ・マウンテン・・・他にはあまり知らないんだ。

日本では何を見たいですか。
―川、流れている川だよ。

昔と比べると最近は愛の歌が多いですが・・・。
―いや、プロテスト・ソングにだって愛は含まれてるよ。
プロテスト・ソングはぼくの一番素晴らしいラヴ・ソングだと思っている。

いま人間として何かに怒りを感じていることはありますか。
―いまは何もない。

それなら静かに落ち着いて暮らしているのですか。
―いや、そうとはいえない。
ぼくだって人間だから悩みもあれば問題もあるさ。

ところで、あなたは「フォークの神様」といわれていますが。
―いや、ぼくはフォークの神様なんかじゃないよ、ただの人間さ。

最後に、日本のファンに何かメッセージがありましたら。
―(笑って)いや、ぼくはショーをするために来た。
メッセージをいうために来たんじゃない。


この間、わずか二十分。
型通りの質問をする記者と、短くぶっきら棒に答えるディラン。
そのやりとりのちぐはぐさに、何度も笑いが起こった。
そのたびに大きくため息をつくディランは、ちょっと痛々しかった。

あとで知ったのだけど、機嫌が悪かったのは、空港内でカメラマンとひとモンチャクあったからだという。

ゆれ動くアンコール・トーチ

元気のなかったディランが甦ったのは、二十四日からの大阪公演でだった。
場所は松下記念体育館。
ふだんはテニスやバレーボールの試合に使われる体育館だけど、この日は、はじめからディランを見よう、聴こうとやってきた七千人の熱気でつつまれていた。
公演前からディランに催促の拍手がひびく。
ディランが姿をあらわすと、ワァーというものすごい歓声にかわった。
観客は大学生がほとんどだが、みんなディランをよく知っているらしい。
どの曲でも、前奏がはじまると、何という曲かわかったのか、そのたびに歓声と拍手が場内に響くのだった。

これには、ディランも気分をよくしたらしい。
東京公演では「サンキュー」としかいわなかったディランが、ときどき、一言二言英語でつけ加えるようになった。

驚いたのは、客席から「アイ・ウォンチュ―」とリクエストの声が飛ぶと、「オーケー」といって、すぐうたってくれたことだ。
そして、次の日から、この曲がプログラムに入った。

また、アンコールを求めるときに、場内のあちこちでマッチに火をつけて高くかかげる人が目立った。
アメリカでは「アンコール・トーチ」として有名だが、日本でこれをみるのははじめてだった。
なかには、わざわざロウソクに火をつけるグループもあって、「日本的だな」と思った。

それだけじゃない。
もっと驚いたのは、三日目のことだ。

アンコール曲「時代は変わる」をうたい終わったディランが、握手を求めて前に押しかける若者たちに、手を差し出したからだ。

しかし、これは、前に押しよせる若者たちを止めようとする係員によってはばまれてしまった。
「今夜はどうもありがとう」
よく聞きとれなくてわからなかったけれど、おそらくこんな意味のことをいったのだろう。
ディランは、両手を高くかかげ観客に応えると、よろけるようにステージから消えていった。
二時間半あまり、歌を通していまの自分をさらけ出したディランだった。
さすがに、日本のフォーク・ソング運動の生まれた関西ならではのことだった。

その夜、大阪での三日間の公演が終わると、ディランは、控室のテーブル・ガラスに、「どうもありがとう」と黒のマジックで書き残していったという。

翌日は、半日京都に遊び、またあわただしく東京にもどっていった。

こんどの日本公演で、一番印象に残ったのは、毎回公演の最後に「いつまでも若く」を願いをこめてうたうディランの姿だった。

そこには、わが道をいく三十六歳のディランがいた。



P.8写真 「ぼくはショーをやりに来たんだ」というディラン そこには かつてのディランの姿はなかった



P.9写真 2時間半にわたって たっぷりと演奏しうたったディラン 後半には 顔の白い化粧もいつのまにか汗で流れてしまうほどだった



P.10写真 大阪から東京へ帰る途中、京都に半日立ち寄ったディラン 清水寺や金閣寺を訪れ夕食にはすき焼きを食べた




Dylan in Japan / next page