佛教から出た日常語 V


徹 底(てってい)
佛教では、悟りの底に徹することをいい
大悟徹底などと熟するが
世間では、底の底までゆきとどくことをいい
或は意味の充分に理解疎通することをいう。


兎 角(とかく)
世間の俗語としては
ともすれば、何にせよの意に用いられておるが
もとは佛語として
物の真にあり得べからざることを
兎に角のあり得ざることに喩えていう言葉である。


奈 落(ならく)
梵語ナカラの音訳にて、また那落迦ともいう。
地獄の意である。
世間でも、それに近い意味で
どんぞこ、浮ぶ瀬のないところをいい
また劇場にて、舞台の下のことをいう。


如 実(にょじつ)
佛教にて、真実の義理にかなへること
真実にして謬りなきことをいい
転じて、世間の語として
その通りに実現することをいう。


人 間(にんげん)
佛教では、人界の衆生をいい
また世間と同じく、世の中のことをいうが
現今では、単数の人をいう場合もあり
また人類一般をいうこともある。


莫 迦(ばか)
梵音バカの音訳。
現今、世俗においていう馬鹿と同義。


方 便(ほうべん)
佛が衆生を化導するために
かりの方法を設けることをいう。
世俗では転じて
目的のために利用する一時の手段をいう。


彼 岸(ひがん)
佛道に精進して、煩悩にみてる現世(此岸)を解脱し
涅槃の世界たる彼の岸にわたることをいう。
後世、わが国にては
彼岸の法要を、春分・秋分の日を中日として
前後七日に亙って修することとなり
それらを専ら彼岸(彼岸会の略)というならわしである。


畢 竟(ひっきょう)
また究竟ともいい
最後の果まで究めつくすことであるが
世間では現今、つまるところの意に用いる。


皮 肉(ひにく)
もと佛教にて、骨髄に対していう言葉にて
皮や肉の意、骨髄にあらざるものの意であるが
後世転じて
遠まわしの意地悪い非難をいう言葉となった。


秘 密(ひみつ)
佛教にては、顕露の対にて
深奥にして容易に人に示さざるをいい
また蜜意の義にて
佛が不可思議の意味をもって述べたまへたることをいう。
後世では、人にかくして示さぬこと
公開せぬことなどをいう。


平 等(びょうどう)
差別に対する語にて、不同なく一様なること
一切にあまねきことをいう。
世間の語法としても
大体同じ意味に用いられるが
近代思想に於いては
特に権利、分配の均一を意味することが多くなった。


不思議(ふしぎ)
また不可思議ともいう。
理深妙に、事希奇にして、心にて思い難く
語に議り難きことをいう。
現今では、やや転じて
単に、思いはかれぬこと、怪しいことをいう。


不 断(ふだん)
佛教では、読経や祈祷等を断へず続けることをいい
不断経、不断輪などの語がある。
世間では、絶間なきこと
つねづね、平生の意に用いている。


分 別(ふんべつ)
また思惟、計度ともいい、心が対境を思惟し
量度することをいう言葉であるが
世間の言葉となっても
大体おなじ意味にて、思慮あること
事理をわきまえる考えあることをいう。


没 頭(ぼっとう)
没頭忘我などという。
頭をつきこんで我を忘れること。
世俗においても
おなじく物事に熱中することをいう。


法 螺(ほうら)
佛僧、修験者の用いる道具の一つであって
法会、経行等の際に吹くのであるが
俗語としては、大言するもの
虚言を吐くものを「法螺を吹く」という。


妄 想(もうざう)
五法の一にて、まことならぬ分別心
真理にそむける想念の義であるが
一般世間では、単に、みだりなる思いの意に用い
「もうそう」と読みならしている。


妄 念(もうねん)
もと佛教にて、迷妄の執念の義であるが
世俗においては、よこしまなるもとめ
みだりなる考えの意に用いられている。


未 来(みらい)
未来世の略。
未だ来たらざる世、即ち将来のことである。
世間でも、同じ意味に用いられている。


無一物(むいちもつ)
慧能の有名な偈に本来無一物の句あり
生死、迷悟、凡聖、去来の相なく
畢竟無相なることをいう。
世間では、文字どおり
何一つ金一銭もたぬことをいう。


無 我(むが)
佛教では、我の常在を否定する言葉であるが
世間では、我を忘れてすることをいう
無我夢中などという。


無 垢(むく)
佛教では、清浄にして、煩悩の汚れなきことをいい
世間では、純粋にしてまじりけないことをいい
また、ある場合には性の純粋をいうこともある。


無 情(むじょう)
有情の対。
木や石のごとき心なきものをいう。
世間では、なさけ心のないことをいう。


無 心(むしん)
佛教では、分別知慮の心のはたらかぬことをいい
世間では、何の邪念もないことをいうが
更に転じて、金銭をねだることをいう場合もある。


無 念(むねん)
佛教では、正念をまた無念という。
妄念なきが故である。
俗語としては、残念、口惜しいことをもいう。


迷 惑(めいわく)
佛教では、事理を謬るを迷となし
事理に明かならざるを惑という。
世間では、何事かにからんでこまることをいう。


勿 体(もったい)
無体というにおなじであって
体がない、即ち、存在せるものの一切は
実はそのもの自身としての存在ではなく
重々の因縁によって成立している
即ち一切のものは因縁生起のものであるとの意。
転じて、俗語として、かたじけない
徒りに費すのは惜しいということを
勿体ないという。


融 通(ゆうずう)
また「ゆずう」とも読む。
佛教では、事理相互いに通じて
差別隔絶することなきをいう。
転じて、世間では、金銭のやりくり
貸借すること
或は臨機応変に事を処分することをいう。


用 心(ようじん)
世俗の用語として、注意、警戒することを
用心するというが
これはもと佛教の言葉にして
専念に心を用いることである。


来 世(らいせ)
未来の世、来るべき世の意であるが
現今世俗にていう場合は
死して後ゆきて生まれるという世界を意味していることが多い。


利 益(りやく)
ためになること、人に幸をあたえることにて
佛教では、自から益するを功徳となし
他人を益するを利益と云うとしている。
現今世間では「りえき」と読んで
自己の利得、もうけの意味に用いている。


往 生(おうじょう)
死後、浄土や兜率天などにおもむきて生まれることをいうのであるが
俗語として、ひどい目にあうこと、参ったことを
往生すると称することがある。





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