佛教から出た日常語 U
愚 痴(ぐち)
普通には、理非のわからぬおろか言
言って甲斐なきことを言い嘆くことを言うが
本来は、無明の意にして、心性愚昧にして
事に迷い、理を弁えざることを言う。
三毒の一である。
過 去(かこ)
本来は、三世の一にて
有為の諸法がその作用を終わりたる位をいうのであるが
今はただ、過ぎ去りたる時をいうに用いられる。
火 災(かさい)
普通には、すべて火事のことをいうが
もと佛教では、これを三大災の一として
一劫のつくる時、人みな悪業をなし
為に天雨を降らさず、諸河ことごとく渇き
大地より火おこり、一切をやきつくして
悪道ことごとく滅すると説いている。
観 察(かんさつ)
今日では、よく注意して見ること
或は、自然の状態をよく注意してしらべることを言う。
本来、佛教では、「くわんざつ」と濁って読み
物事を心に思い浮かべて、細やかに
明らかに分別することを言う。
元 祖(がんそ)
佛教では、一宗を創めた祖師の意であるが
専ら法然のことをいう習わしである。
故に「大師は弘法に、元祖は法然にしめらる」という言葉がある。
なお俗には、すべて物事を始めた人をいう。
観 念(かんねん)
俗には、あきらめ、かくごの意に用いる。
本来には、事理を心に思い浮かべて
細かく明らかに分別することである。
なお、哲学および心理学の用語としてもこの言葉を用いる。
教 授(きょうじゅ)
本来は、佛教僧侶の役の名であって
伝法灌頂に察して
受法者に作法を教える役をなす僧を言ったのであるが
今日では、一般に高等教育の学校における教師をいうことが多い。
決 定(けってい)
心のむかうところを定めること。きめること。
この語はもと、佛教術語の「けつじょう」より出たものであって
本来は、仏法を信ずる心の
堅固に定まって、動ずることのなきをいう。
懸 念(けねん)
一般には、気がかりの意。
本来佛教では、心を一処にかけて
他の事を思わざることを言う。
玄 関(げんくわん)
本来は、玄妙なる道に入を関門の意。
転じて、禅寺にて、客殿に入る門をいうこととなり
更に転じて、すべて人家の正面にあたる入口をいうこととなった。
降 伏(こうふく)
一般には、降参するの意。
佛教では「ごうぶく」と読み
神仏の功力によって
悪道・外道・怨敵等をおさえ鎮めることをいう。
乞 食(こじき)
今日では、おこも、食物を人に乞うて生活する者のことであるが
元来は「こつじき」と読んで
佛教比丘の生活を言ったものである。
御馳走(ごちそう)
世俗では、ふるまい、餐応の意。
馳走とは、走り回って、他のために奔走するの意である。
根 性(こんじょう)
普通に、心だての意。
佛教では、人間の気力の基を根といい
善悪の習慣を性というのである。
最 後(さいご)
普通には、最も後であること
最終の意であるが
佛教では本来、人生の終わり
即ち命終の時をいうのである。
差 別(さべつ)
一般には、けぢめ、わかちの意であるが
本来佛教では「しゃべつ」と読み
平等に対する語であって
万法一如の法性に対して
生類の個々を指していう言葉である。
自業自得(じごうじとく)
本来は、自ら作った苦楽の業因によって
自から苦楽の報果を受けること。
一般には、主として
悪業に対する悪果を受けることを言う。
自 在(じざい)
本来には、心が煩悩の縛を離れて無礙なること。
一般には、思いのままなることをいう。
自 然(しぜん)
一般には、天然のままにて、人為の加わらないこと。
もと佛教にては「じねん」と読み
人為の造作をうけることなくして
自らにして然かあることをいう。
自然法爾とも、法自然ともいう。
支 度(したく)
一般には、準備、用意の意。
本来には、修法に察して供養物等の支具を度り調べることである。
示 談(じだん)
真宗にて、僧侶が門徒の信仰上の質問に答える
一種の信仰座談会を御示談という。
転じて、双方の話合で訴訟、争事などを解決することをいう。
実 際(じっさい)
真如法性のこと。
これは諸法の際極であるからである。
転じて、一般には、まことの状態
或いはまことの現場をいう。
慈 悲(じひ)
佛教では、衆生の苦しみを除いて楽しみを與へること。
一般には、単にあはれみ、なさけの意。
執 着(しふちゃく)
佛教では、「しふじゃく」と濁って読む。
事物に固執して離れざること。
一般には、深く思い込むこと、執心して離れぬことをいう。
精 進(しょうじん)
本来は、精神をこめて、悪行をおさえ、善行を修すること。
また勤ともいう。
現在では単に、肉食せず、菜食することをいうことが多い。
成 就(じょうじゅ)
佛教では、唯識の二十四不相応行法の一であって
得をはりて、もはや失することなきをいう。
転じて、一般では、すべて物のできあがりたることをいう。
上 手(じょうず)
一般には、すべて物事の巧みなこと、叉はその人をいう。
本来は佛教にて、「じょうしゅ」と読み
上方、上座の意である。
情 欲(じょうよく)
佛教では、四欲の一にて、情愛の欲をいう。
一般では、性欲、色欲のうごきをいう。
邪 見(じゃけん)
佛教では、五見、十悪の一にて
因果の理を無視したる妄見をいう。
一般には、すべてよこしまな見解をいう。
娑 婆(しゃば)
佛教では、俗世界、人間世界をいう。
俗には、この世の中の意にて
また獄内にある者が
獄外の自由な世界をいうに用いる。
邪 魔(じゃま)
一般には、さまたげ、さはり、故障の意に用い
佛教では、妄見を説いて、菩薩をさまたげるものをいう。
宿 命(しゅくめい)
一般には、前世から定まった運命をいう。
佛教では、「しゅくみょう」と読み
宿世の命数の意。
出 世(しゅっせ)
佛教にては、如来のこの世に出現することをいう。
一般には、立身すること、この世に現われることをいう。
冗 談(じょうだん)
一般に、むだばなし。
もと佛教の言葉にて、佛教修行に関係なき無用の談をいう。
諸行無常(しょぎょうむじょう)
佛教では、万物はつねに流転して暫くも常住することなきをいう。
一般には、主としてその憐れなる方面を強調していう。
所 詮(しょせん)
一般には、つまるところ、結局の意。
佛教にては、経文等によって顕はされる意味をいう。
随 分(ずいぶん)
もと佛教では、力量の分限に随うことをいう。
いま一般には、すこぶる、はなはだの意に用いる。
世 界(せかい)
佛教では、有情の衆生の住居たる山川国土のこと。
一般には、この地球及び地球上の人類をいう。
世 間(せけん)
佛教では、出世間の対
有情の衆生の相依りて生活する境界の意。
一般には、世の中の意、或は自分以外の世の中の人々の意に用いる。
絶 対(ぜったい)
一般には、何ものにも制約せられず
何等の条件をも付随せざることをいう。
本来佛教の語で「絶待」とも書き
獨一の法にして他に対比すべきものなきをいう。
相対の対。
退 屈(たいくつ)
本来の意味は、難なきを見てしりごみすることにて
佛教では、菩薩行中に生ずる三退屈を説いている。
そして、これらの退屈を退治するを三練磨となす。
現今世俗に用いらるる意味は
やや転じて、いやになることを意味し
更に転じて、ひまで苦しむことをいう。
大 衆(だいしゅう)
佛教では、多くの僧のことをいう。
現今世俗では、一般民衆をさしていい
読み方も変化して「たいしゅう」といっている。
道 具(どうぐ)
もと、修行をたすけ、佛道を進めるに役立つ物具のことであり
やや転じて、僧家に蓄ふる器物の総称となったが
更に転じて、現今では専ら
世間一般の用具器具をいうこととなった。
到 頭(とうとう)
現今では、世間の俗語として
とどのつまり、結局、ついにの意に用いるが
もと佛語としては、畢竟ということである。
道 場(どうじょう)
佛教ではもと、諸佛の金剛座に座して正覚を成ずる処をいい
また弘く、佛道を修する場所をいうが
世間では、これを転用して
武術その他の修行場を道場ということが多い。
沢 庵(たくあん)
徳川時代の名僧「沢庵禅師」のことであるが
現今では、乾大根の漬物の名となった。
端 的(たんてき)
佛教ではもと、正確分明の意に用いた。
現今では、明白に、てっとりばやくの意に用いられている。
檀 那(だんな)
梵語ダーナの音訳であって、意訳すれば布施である。
現今世俗では、使用人に対して主人
眼下のものよりする眼上のもの
商人が男の客に対する場合などに用いる。
すべて財物を与える人であるからである。
他 力(たりき)
自力に対し、主として、衆生救済の誓願をたてし
如来の願力に依ることをいう。
世俗では、更にひろく
すべて他の力に依ることを意味する。
智 慧(ちえ)
もと梵語般若の訳であって、六波羅蜜の一。
事理を照見し邪正を分別する心作用をいうのであるが
現今世俗では、やや広義に、物事を思慮し
計量し、処理する頭脳のはたらき一般をいう。
畜 生(ちくしょう)
現今世俗では、獣類一般をさし
時に、義理人情をわきまえぬ人間を蔑称するに用いるが
本来は佛教にて、性質暗愚にして自立せず
他のために畜養せらるる生類をいい
悪行多く、愚痴多き衆生は、死して畜生にうまると説く。
知 識(ちしき)
佛教では、また善知識ともいい
事理を辧えて善く人を導く者のことにて
学僧、名僧をかく呼んだが
現今一般では、学解の内容一般をいうならわしである。
丈 夫(じょうぶ)
佛教では、正道を勇進して退くことなき修行者をいう。
世俗では、ますらを、男子の美称として用いる。
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