市川さんの思い出

 

岡田 龍之介

 

市川さんに初めてお目にかかったのはいつの頃だったろう?

私が、市川さんの創設された慶応バロックアンサンブルに入部した時にはとっくに卒業されていたので 、最初にお会いしたのはそれからだいぶ経っていたのではないかと思う。

当時、市川さんはチェンバロ製作家の堀栄蔵さんの楽器を運搬して演奏会で調律する、コンサート・サービスをされていて、私もよくそのお手伝いをさせていただいた。演奏会をリハーサルからただで聴けてアルバイト代までもらえ、学生にとっては大変おいしい仕事であったが、バロック音楽に餓えていた私には生演奏を身近に享受できるまたとない機会であった。(とりわけ初来日したチェンバロのレオンハルトの演奏会をすべて聴けたのは、未だに忘れ難い経験として脳裏に焼き付いている)

そのような関わりの中で堀さんや、同じくチェンバロ製作家にしてリコーダー奏者でもあった柴田雄康さん(市川さん同様昨年10月に鬼籍に入られた)の知遇を得、楽器をお借りすることができた。学生時代に宇都宮で演奏する機会をもらい、この時は市川さん自ら車を運転して調律を担当して下さったが、終わったあと我々現役の部員たちと宿で飲み、夜更けまでトランプで゛大貧民゛に興じていたのを思い出す。拙宅で酒豪を自認する?サークルの先輩・後輩が一堂に会し、泊まり掛けで飲みかつ論じたのも楽しい思い出だ。

卒業してからはOBたちのグループ、カメラータ・ムジカーレに参加させて頂くようになり、そこでも様々な形で関わらせていただいたが、そちらは他の方の稿に詳しいかと判断し、割愛させて頂く。

音楽を専門とするようになってからはどれだけお世話になったか知れない。栃木の蔵の街音楽祭、旭川雪の美術館などのコンサートへの出演、新潟でのレッスン、洗足学園大学で教える仕事、さらにCDや演奏会の解説原稿の依頼など数え上げれば切りがないほどだが、そのようなお付き合いを通じて接する市川さんは、私にとっては相変わらず、親分肌で頭脳明晰、歯に衣着せぬ物言いながら人情味にあつく、面倒見の良い、サークルの先輩であった。

最後にお会いしたのはチェンバロ・デュオのCDをリリースした翌年(2008年)、旭川に招んで下さり、CDと同じプログラムでいくつか演奏の機会をいただいた折りであった。市川邸でのサロン・コンサートのあとパーティも終わり、二人で世の更けるのも忘れアルコールを片手に、久々に音楽のこと、慶応時代のことなど語り合ったのが、ついこの間のことのように思い出される 。まさかこれが最後の機会になろうとは予想していなかったが、好きなお酒で身体をこわさなければ良いな、と時おり入ってくる風の便りに身辺を案ずるここ数年であった。

突然の訃報を耳にしてからはや2カ月、未だに信じられない思いが心の片隅を占めているが、沢山の感謝の念とともに故人のご冥福を祈りたい。

2014年1月7日