市川君の突然の訃報に言葉がない

 

和田 章

 

彼との出会いは40数年前に遡る。

結成2年目の慶応バロックアンサンブルに待望の新人が入部するとのこと。態度もでかいが、リコーダーの腕にもかなり自信があるようだとの前評判。いよいよ、彼が学校に楽器を持ってきてお披露目をするので、第XX番教室に集合することとなった。

果たしてその結果は評判どおりの凄腕。部員は皆、脱帽。先輩を先輩とも思わない態度の大きさをも許してしまえるほどの斬新さ。それ以来、バロックアンサンブルは強引なまでの彼の牽引力で影の部長を迎えた。

合奏での練習はもちろんであるが、有志を募って、ヴァイオリンやチェンバロ奏法、装飾やアーテキュレーションの解釈など、当時の文献を探し、分担して翻訳し、それが実際にどう響くのか、半信半疑で演奏を試行錯誤していく。

週末の夜には彼の武蔵境の家に押しかけて、(彼の部屋は母屋からは独立分離されており、出入りフリー)牌を混ぜ合わせながら、音楽談義を重ね、彼の所有の輸入盤や新譜レコードを聴かせてもらうのが習慣。ブリュッヘン、クイッケン兄弟など、当時の新バロック演奏家のものが主たる演者。彼の部屋で聞いたレオンハルト・コンソートのバッハのチェンバロ協奏曲はあまりに強烈で、ド肝を抜かれた。彼の家からの帰りはいつも興奮状態で家路に着いた思いがある。

そんなわけで、我々の学生時代は100%、彼を囲むバロックに明け暮れた。 その後、彼の発案で中古のトラックを買いこみ、チェンバロの運送、プロの方々の演奏会のチューニングをやらせてもらう。部費も潤い、かつ、プロの演奏家とも親交を深めさせていただき、気がつけばなんと充実した6年間だったことか。

以来40数年、メンバーは各自の道を進むが、カメラータ・ムジカーレの演奏会は50回を超えて、我々の中には未だ、彼の遺してくれたこの手の音楽スピリットがうごめいていて離れない。

彼は後年、音楽学者、指導者として押しも押されもせぬエバンゲリストの役割を果たすことになったが、その素地は40年も前に出来上がっていたことを誇りに思う。

ここに心より彼のご冥福をお祈りする。

2014年1月7日