市川信一郎さんとバロック音楽との出会い

 

曽禰 寛純

 

40年近く前の古楽器(フラウト・トラヴェルソ)との出会いがきっかけで、いろいろなご縁が拡がり人生を豊かにしてくれている。この出会いと縁の拡がりの最初の大きな起爆剤をしかけたのが市川信一郎さんだった。大学1年の時に、当時の慶応バロックアンサンブルの演奏会を、幼馴染の紹介で聴きに行った。モダンのフルートを吹いていたが、好きなバロックとの相性が何か違うように感じていた頃だった。曲目は、オトテールの二重奏だったか、パーセルのトリオだったか、(演奏と演奏者の余りのインパクトのためか)思い出せないが、痩せたアフロヘアーの奏者と学生らしからぬ押し出しの奏者の2本のリコーダーが奏でる音楽は、探し求めていたものがこんなに近くにあるのかと衝撃を受けた。

すぐに貯金を全部引き出して、当時大阪にあった古楽器商のところまで出かけ、10本ほどのフラウト・トラヴェルソを見せてもらった。手持ちのお金で買えるのが1本だけあったので、それを買って帰り、(先生が誰もいないので)オトテールの教則本の英訳を頼りに、数か月特訓を重ねた。ようやく少し曲らしきものが吹けそうになったので、慶応バロックアンサンブルの練習場に押しかけ聴いてもらった。

そこで、市川さん、和田さんを始め、カメラータ・ムジカーレの発足メンバーの皆さんと会った。大変緊張したのでどんな曲を吹いたか忘れたが、みなさん優しく迎えてくださり、その日から仲間に入れてもらった。(後日、そのころリコーダー専門の市川さんもフラウト・トラヴェルソを始めており、苦心されていて、その市川よりも音が出るやつが来たから入れてやろう、ということになったのだと聞かされた。)

市川さんとの出会いは、ショックの連続であった。真面目な理系学生であった私には、徹夜でマージャンをやりながら、最先端のバッハのカンタータ全集や新しい古楽器でのレコードを聴き、音楽議論をしていると思えば、「バーロー。ロンだ!」と勝負をかける日々。音楽合宿(民宿や岐阜県の辻オルガンの工房で良くやりました)で、そこにある楽譜を片っ端から演奏する初見大会に続く、野球大会〜バーベキュー大会。演奏会は二度と同じ曲をやらず、つねに新しい魅力的な曲を探索する。体力の限り、遊び・音楽をし、その中から今につながるいろいろなことが生まれていった。

市川さんが「カメラータ・ムジカーレ誕生秘話」に書いた発足コンサートが私のデビューコンサートだった。市川さんと共演した一曲がテレマン食卓の音楽からのフルート2本と低音のためのトリオ。ギャラントな曲として今はいろいろなCDで聴けるが、当時は知らなかった。「これをやるぞ」の一言で決定。また、そのためにオランダの名工Coolsma製作のステンスビーJrのモデルのトラヴェルソをお揃いで購入した(すべて手続きは市川さんがしてくださった)。すごいエネルギーである。その曲は(私の出来が悪かったので)以来封印していたが、数年前に思い立ってプロ奏者の国枝俊太郎さんに共演していただいた。市川さんのパートを国枝さんに吹いていただいたが、その演奏を聴いて、あのころ市川さんの目指していたものがいかに専門家レベルだったかを改めて痛感した。エピソードは尽きないが、いずれも古楽器でのバロック音楽演奏という、古くて新しいものへの挑戦に限りないエネルギーをそそいだ人だったと思う。

市川さんなしにはカメラータ・ムジカーレは発足しなかっただろうし、6人の仲間がここまで音楽に関わってこられなかったと思う。「曽禰よ、ここは、どぶつかりなんだから、ミヨヨヨ〜ンとやらなきゃダメだ!」そんな懐かしいリハーサルの匂いを思い出しながら、改めて感謝し、市川さんのご冥福をお祈りします。

2013年12月20日