市川氏に感謝をささげる

 

角田 幹夫

 

入学式後の大学では、サークルの勧誘が花盛り。広島から東京に出てきた私は、「慶應バロックアンサンブル」が勧誘を行っている階段教室に足を踏み入れた。それが市川氏との最初の出会いだった。今でもはっきり覚えているが派手なスーツとネクタイで、東京の学生はみんなこんな格好をするのか?と思ったほどだ。それからというもの、仲間と市川氏の自宅に集まっては、それまで聴いたこともなかったレオンハルトとかブリュッゲン、ハルノンコールト(当時はこう表記されていた)といった演奏者たちのレコードを擦り減るくらい聴いたものだ。今から考えればそれが現在のカメラータ・ムジカーレにつながっているかもしれない。

市川氏とは多くの曲を演奏したが、中でも印象深いのは1973年、慶應バロックアンサンブル第6回定期演奏会でラモーのコンセールを古楽器で演奏したことだ。市川氏のトラヴェルソ、和田章氏のチェンバロ、私のバロック・ヴァイオリン、それに賛助出演として宇田川貞夫さんがヴィオラ・ダ・ガンバという編成だった。私にとってはじめてのバロック・ヴァイオリンでの演奏でもあった。プロの古楽演奏もほとんどなかった時代、当時では画期的なことだったと思う。

その頃、ある事情から市川氏と二人で、ジェミニアーニの『ヴァイオリン奏法』という本を和訳することになった。この本はL.モーツァルトの『ヴァイオリン奏法』と並んで、ヴァイオリンを志す者、特に古典派以前の音楽を演奏する者には必読と言っていいもの。ただ、当時は翻訳がなく、英語の古文?を苦労しながら訳すことになった。私が拙い叩き台を作り、市川氏が添削する。ヴァイオリンの知識が必要なところは、私がさらに書き込むといった作業を、例によって酒を飲みながら繰り返した。参考にする文献もほとんどなく、当時の原稿を読むと間違いも多く赤面ものではあるが、自分にとってはいい勉強になったと思う。

市川氏とはよく酒を呑んだ。彼の住まいと一人暮らしの私のアパートが近い(といっても車で30分以上はかかるが)こともあって、夜突然電話をかけてきて「これから酒もって行くぞ!」。酒を飲みながら古楽のレコードを聴き、盃を重ねることもしばしばだった。またある時は河口湖畔の宿でワインを浴びるほど飲み、翌日は二人ともお腹を押さえながら東京に帰ったことも今では懐かしい。

市川氏が旭川に移ってからは、なかなか会う機会がなかったが、今から10年ほど前の真冬、旭川で久々の再会を果たした。若い時のスーツ姿からは対照的な厚いジャンパー、雪道仕様の長靴で空港に迎えに来てくれた。市内の飲み屋では、北海道がよほど気に入っていたのか、昔話から今の大学のこと、さらには温泉からヒグマの話まで話は尽きなかった。今考えれば、あれが市川氏とゆっくり話をした最後になってしまった。

市川氏が亡くなったのは10月19日。その日は偶然にもカメラータ・ムジカーレの練習日だった。休憩中に彼の話題がでたのは、今にして思えば虫の知らせだったのだろうか。

古楽器による演奏を楽しみはじめて約40年、もし市川氏と出会うことがなければ古楽の世界には足を踏み入れなかったかもしれない。そういう意味で、彼は私や仲間たちの音楽人生に決定的な影響を与えてくれた。

膨大な知識と大胆な発想、旺盛なチャレンジ精神とリーダーシップで我々を引っ張ってくれた市川氏に、感謝をささげると同時にご冥福をお祈りする。

2013年12月18日