山本 勉
10月24日、慶應バロック・アンサンブル出身のチェンバロ奏者・岡田龍之介さんより、カメラータ・ムジカーレ創設メンバーである市川信一郎氏逝去の知らせをいただいた。突然のことであった。ここ30年、市川氏とは競演する機会がなく、会うこともほとんどなかったのだが、市川氏の存在がカメラータ・ムジカーレにとって、また自分にとっていかに大きなものであったか。思い出とともに綴ってみたい。
43年近く経った今も、市川信一郎氏と初めて会った日のことは忘れない。
慶應義塾大学に入学した時のこと、サークル勧誘の輪の中にひときわ目を引く、学生とは思えないいでたち・立ち居振る舞いの人物に目が釘付けになった。彼こそ、私の人生に絶大な影響(良し悪しを別に)を与え、その後カメラータ・ムジカーレを立ち上げた、市川信一郎氏その人であった。すでにリコーダーを吹くのが趣味であった私は、慶應バロック・アンサンブルのリコーダー奏者である市川氏との出会いがなくても、おそらくバロック音楽演奏を趣味としたことと思う。しかし、「古楽」の世界へここまで深く引きずり込まれ、逃れることの出来ないバロック音楽への思い=「生涯の宝物」を与えてもらったのは、間違いなく市川氏からである。
その強力な、ほとんど暴力的(?)とさえ思われた牽引力を見せつけられた思い出は数限りないが、特に私のリコーダー人生を決定づけた2つのシーンが思い浮かぶ。
1つ目は慶應バロックの演奏会活動のなか、学生によるコンサート活動ではおそらく最初期と思われるバロック・ピッチでのオトテールをトライした時のことであった。低いピッチに慣れていない上に、本格的なレプリカ楽器が入手できないこともあって、「モダン・リコーダーの方が吹きやすいよ」とごねる私の泣き言など全く意に介せず、「これでいいのだ、文句を言わずにこれを吹くのだ」と一方的に宣言され、泣く泣くデュエットしたのが私にとっての「バロック・ピッチ初めて物語」である。
私にとって二つ目の曲がり角は40年前、市川氏に引きずられて、リコーダー奏者・チェンバロ製作家の柴田雄康氏のご自宅に立ち寄っていた、著名な木管楽器製作家・リコーダー奏者であるアンドレアス・グラット氏を訪ね、同氏の持参していたコピー楽器(ステンスビー・リコーダー)に初めて触れたことである(グラット・柴田両氏に続いて市川氏が亡くなるとは思いもよらぬことであった)。柴田邸で耳にし、吹いてもみた低ピッチのリコーダーの音色。まさに衝撃、市川氏の目指していたことの意味を思い知った瞬間であった。
この日も市川節は満開。
市川氏 「いま現金で払うからこの笛を置いて行け」
グラット氏 「ようやくたどりついた第1号の笛、演奏会に使うので持って帰る」
市川氏 「ベルギーに帰れば何本でも作れるじゃないか、置いて行け」
グラット氏 「それだけは勘弁してくれ」・・・
この時はさすがに市川氏の負けに終わったが、後日送られて来た2本のリコーダーの1本は、38年経った今も現役で我が家に生きている。オリジナル楽器転向の原点はやはり市川氏にあったのだ。
先日、本当に何十年ぶりかに市川氏のリコーダー演奏録音をカメラータ・ムジカーレの古参メンバー数名とともに聴く機会があった。その時はまさか早すぎる訃報に接することになるとは思いもせず、「うーん、勉強になる」とうなりながら聴き入っていた。
38年前に作られたグラット氏製作の笛の音、昨年末に最後に聴いた柴田氏のリコーダーの音、そして35年前の録音から聞こえてきた「市川信一郎氏の音楽」。共通するのは、真似事でないオリジナルなもののもつ魅力である。
学生時代のサークル合宿での「市川講師によるバロック講習会」、やはり合宿時の野球大会・カラオケ大会、市川邸での(発売直後のテレフンケン・カンタータ全集を聴きながらの)徹夜麻雀大会etc.の想い出。そして、何よりも「古楽」への思い入れと、オリジナリティーの大切さ。
いつしか忘れていたものを噛みしめながら、市川信一郎氏のご冥福を祈りたい。
2013年11月1日