堀さんの思いで

 

角田 幹夫

 

7月2日土曜日、故 堀栄蔵さんのお宅にお参りにうかがった。堀さんが亡くなられて約1ヶ月、久しぶりに板橋のお宅におじゃまして堀さんの遺影と対面し、30年以上にもわたった堀さんとの交流が次から次へと思い浮かんできた。

最初に堀さんに出会ったのは1972年初夏、所属していた慶応バロックアンサンブルの第5回の演奏会だった。レコードなどで古楽器演奏が少しずつ、知られ始めたころだ。堀さんから楽器を借りることになり、演奏会当日、白木に赤いラインのイタリアンチェンバロを当日青山タワーホールに運んで来てくれたのが堀さんだった。堀さんのイタリアンとしては最初の作品である。その楽器の音は、これまで聞いたどのチェンバロとも違う、軽やかで鮮やかな音だった。その演奏会を契機にわれわれと堀さんの交流が始まる。

楽器製作を始めたころの堀さんは、製作とコンサートへの楽器貸し出し、調律と忙しい日々を過ごしていた。チェンバロも、大きい楽器となると大人二人でも搬入は大変。そこで堀さんの楽器運搬の手伝い役となったのが、当時の慶応バロックアンサンブルのメンバーだった。そしてこのメンバーが後のカメラータ・ムジカーレの結成メンバーとなるが、それは大分先のこと。当時貧乏学生だった我々は、コンサートの前後で楽器を運ぶだけで、あとは堀さんの調律、外来演奏家を始めとするプロのリハーサルから本番までタダで聞けるという、当時としては大変おいしいアルバイトを見つけたわけである。今思い出すだけでも、F. ブリュッヘン、H.M. リンデ、M. アンドレ、K.H. ツェラー、来日する多くの演奏家や、邦人演奏家のみなさん・・・本当に楽しいアルバイトだった。

1975年、堀チェンバロを運んでいた慶応バロックアンサンブル時代のメンバーで、古楽器アンサブルを結成した。それが今の「カメラータ・ムジカーレ」である。活動は30年にもおよび、演奏会は今年で45回目を迎えるが、そのほとんどの演奏会で堀さんのさまざまな様式の楽器を使わせてもらった。今プログラムを見返すと、20年以上前にバッハの2台、3台のチェンバロ協奏曲という、当時のアマチュアとしては考えられないような贅沢なプログラムがあるが、これもすべて堀さんのおかげである。演奏会には、堀さんもよく足を運んでくれた。演奏会が終わった後の堀さんの批評でコテンパンにやられたのも今では懐かしい。

堀さんは、1982年に東松山に「堀洋琴工房」を建て、そこで精力的に楽器製作に取り組むことになった。工房には仲間や家族とも何度もおじゃましたが、ある時は楽器製作を志すお弟子さんが堀さんの工房の門を叩き、またある時はその弟子さんが堀さんのもとを去っていくということもあった。堀さんはおおらかな性格で、お弟子さんに関しても「来るものは拒まず、去るものは追わず」といった態度で接していた。そういう環境と指導の中で、今日本で活躍されている多くの製作者を育ててこられたことは言うまでもない。

我々が工房に集まる時は、みんなで酒、食事を持ち寄り、天気のいいときには庭?でテーブルを囲んでの昼の大パーティとなる。

堀さんはなかなかのグルメで、味にはうるさい。またワインが好きで、工房の居間にはおいしそうなワインがいつもゴロゴロ転がっていた。そのワインを空けながらほろ酔い加減となり、おもむろに楽器を取り出しては、堀さんの新作の楽器を使っていい加減な初見演奏がはじまる。演奏が終わると堀さんの厳しい評が待っている。そんなことが延々夕方まで続く。堀さんも我々が来るときは、いつもどの楽器も必ず調律をきちんとして待っていてくれいた。図々しい連中と思いながらも、時々会って昔話や、音楽の話をするのが堀さんにとっても楽しみだったのだろう。

堀さんから、「肺がん」と聞いたのは今から5〜6年前だったと思う。堀さんも病気には負けないという強い信念で、手術や温泉療養を繰り替えしていた。体力が戻ると時間を惜しんで工房で楽器製作に取り組んでいた。その堀さんから2年前の秋、「体力の衰えから、楽器製作を終える」という挨拶状をいただいた。いつかこういう日が来るとは思っていたものの、いつもは達筆で若干の皮肉をまじえたはがきを書く堀さんから、らしくもなく印刷した封書でのあいさつ文だった。数日後、メンバーの曽禰とガンバ奏者の福沢とともに工房を訪れ、いつもと同じようにワイン片手に秋の午後を過ごし「堀さん、ご苦労様」の気持ちを伝えたたことが、今でも記憶に残っている。

その時の訪問がきっかけで、堀さんに感謝するコンサートを翌年3月に開いた。雨にもかかわらず大勢の方においでいただいた。そして堀さんも寒い中、病身をおしてリハーサルの時から来て、「身体がきついから途中で帰るよ」といいながら、最後まで聴いてくれた。アンコールが終わった後、舞台に招いたら、恥ずかしそうに上がってきてくれた。もちろん会場からは、日本の古楽の礎を築いた楽器製作家に、おしみない拍手が送られた。

製作を中止してからも、それまでに注文を受けていた楽器については少しずつ仕上げに取り掛かっていた。それでも長年工房で手元においていた楽器は、徐々に買い手がついて、訪れるたびに数が減っていった。淋しい気もしたが、堀さんの楽器は演奏されるためにあるのだから、それもまたよし。

最後のチェンバロができる過程を、訪ねるたびにつぶさに見てきた。堀さんにしては製作のスピードが遅いので、やはり体力的にも大変なんだろうと推察していた。ただ、この楽器が出来上がれば本当に引退かと思うと、もっとゆっくりという気持ちもあった。

「堀さんが亡くなられた」という連絡を、亡くなられた数日後にもらった。ご本人の遺志でご家族だけで葬儀をおこなわれたそうだ。堀さんらしい周囲への気遣いだろう。心の中では覚悟していたものの、その日が来てしまった。堀さんの楽器のCDや、昔の録音をいくつか聴いてみた。30年以上にもわたる思い出がよみがえり、涙が止まらなかった。

堀さんの言葉でいくつも心に残っているものがある。

そう言って40代半ばからチェンバロ製作に取り組み、トップになった有言実行の人だった。堀さんが作った200台以上の楽器は、ご自身が言っているように、今後も何百年も、日本だけでなく世界で演奏され続けることだろう。

堀さん、ご苦労様。そしてありがとう。

2005年7月16日