(2004.3.20 東京建物八重洲ホール)
バロック音楽を代表する2つの様式、イタリア様式とフランス様式の室内楽曲を、イタリア、フランスそれぞれのタイプのチェンバロでお届けします。
イタリアは、オペラの発祥の地であり、器楽においてもダイナミックで、自由で個性的な装飾の多い音楽が好まれ、ソナタ、コンチェルトを生みました。コレッリは、イタリアのヴァイオリンのヴィルトゥオーゾであり、作曲家でした。作品5のヴァイオリンソナタ集は、このジャンルの曲のモデルになったほど有名で、出版後、本日演奏の Walsh によるリコーダー版はじめ各種の楽器や協奏曲にも編曲されました。「フォリア」はこの曲集の最後を飾る曲で、スペインが起源といわれる定旋律(フォリア)をテーマに、技巧的な変奏が展開されます。スカルラッティは、イタリアの作曲家、チェンバロの名手です。オペラ作曲家の父親に音楽の教育を受け、イタリアで活躍したあと、スペインに渡り、後半生を王女の音楽教師として活躍しました。550曲以上のソナタを通じ、チェンバロのさまざまな表現に挑戦し、活力と変化に富んだ独創的な境地に達しました。本日の2つのソナタも、ニ短調はシンプルな抒情性に、ニ長調はギターを思わせる音型と両手の交差等に、彼の音楽上の特徴が顕著です。
一方のフランスでは、華麗な装飾や厳格な様式美、様々な楽器の組み合わせによる多様なニュアンスが好まれ、舞曲の組み合わせた組曲を生みました。ルクレールは、ルイ15世の頃、ヨーロッパ中に名前をとどろかせたヴァイオリン奏者でした。この組曲「音楽の楽しみ」は、フランス様式の用いながら独特の世界を描く、当時のフランスとしては画期的な曲で、序曲から始まり、壮大なシャコンヌを経て、タンブーランで終わります。フランスバロック音楽を代表する音楽家ラモは、オペラ作曲家、またチェンバロの名手、そして自ら調律法などを考案する音楽理論家でもありました。「コンセールによるクラブサン曲集」は5曲からなり、友人の名前や性格を冠した小曲、舞曲からなっています。チェンバロ、ヴァイオリンとヴィオラ・ダ・ガンバが対等に活躍する、斬新なスタイルでかかれています。テレマンは当時ヨーロッパ中に知られたドイツの作曲家です。このパリ四重奏曲は、パリに招聘された折に作曲され、パリのフルート、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェロの名手とチェンバロでテレマン自身が競演したことでも有名です。第4番は、フランス趣味の組曲の形式で書かれていますが、イタリアのスパイスも混ぜ合わせたヴィオラ・ダ・ガンバ協奏曲のような序曲で始まり、各楽器が重なり合い、微妙な色合いをつむぎ出すいくつかの舞曲が続きます。最後は、フランス趣味のメヌエットに基づく変奏曲で、それぞれの楽器が腕前を披露したあと、テーマに戻ってこの組曲を閉じます。
1926年、三重県生まれ。1950年ごろから浜松・楽器工場で研鑚を積む。その後、東京芸大楽器研究室でピアノ調律・整音・調整・設計を福島琢郎氏に師事。1958年、ピアノ修理工房を開き、同時にコンサート・チューナーとしても活躍。1967年頃から平均律への疑念をきっかけとしてチェンバロに興味を抱き、製作を手がけるようになる。1974年、渡欧、各地の博物館や個人コレクションを訪れ、資料の収集に努める。
また小林道夫、ブリュッヘン、レオンハルトなど内外の著名演奏家のコンサート・レコーディング・放送などに楽器を提供、絶賛を博す。
1982年、埼玉県吉見町に「堀洋琴工房」を設立し、チェンバロ、フォルテピアノなどの製作に多忙な日々を送ると共に、後進の指導にも精力的に取り組み、多くの若手楽器製作家が巣立っていった。これまでに手がけた楽器はフォルテピアノ含め230台余り。まさにわが国を代表する楽器製作者として広く海外の演奏家・製作者に「EIZO HORI」の名は知られている。
この春、77歳を迎えるのを機に工房を閉じ、楽器製作の第一線から引退することとなった。
堀さんとの出会いはもう30年以上も前に遡る。
押しかけ弟子だった私に、小林道夫先生から「練馬の方でチェンバロを作っている堀さんという方がいるらしいけれど、一緒に見に行かない?」と声をかけていただいた。当時、オリジナルベースの音を眼の当たりに聞けるチャンスなどほとんどなく、私にとっては夢を見るような思いでお供をさせて頂いた。
池袋を出てしばらくすると、先生は「だんだん寂しくなってきたけど、本当にこっちの方で作っているのかな」と、つぶやきとも取れない声を出された。
そんな杞憂もものの15分で吹っ飛んだ。迎えていただいた堀さんはひょうひょうとした風貌とひとなつっこい笑顔で、挨拶もそこそこに、制作中の楽器をかたっぱしからバラバラ音を出しては、我々をオリジナルの世界に導いてくれた。レコードでもやっとオリジナルによる演奏が垣間見られる当時、生のオリジナルの音を何台も聞かされ、頭をぶん殴られる思いがした。また、楽器の歴史的背景、チューニング、材料、撥弦のメカニズム等に及ぶ堀さんの話題は、沸き出る泉のごとく尽きることがなかった。それは3〜400年前に作られた歴史的楽器が無言で彼に難問、疑問の数々を投げかけ、ひとり悶々とし、その答えを見出しているかのごとくであった。また、彼は自作の楽器に満足せず、見せていただいたものに対しても、これはちと響板が・・とか、これは××が気に入らないとか、我々の目からは判断のつかない製作家としての内なる戦いに、彼の信念の深さと並々ならぬ闘志を感じたものである。
それから早30余年。工房を練馬から東松山はぽんぽん山に移し、ピアノフォルテを含め、幾多の名器を世に送り出したのだが、この5月で工房を閉じることを決断された。非常に残念ではあるが、日本の先駆者が独学で暗中模索の結果、ここまで到達された足跡に対し、心より畏敬の意を表し、音楽を本当に楽しませていただいたことに深く感謝したいと思う。彼の製作した楽器を通し、彼自ら「人生は余りにも短い」と言わしめた高邁で深遠な音楽への追求を、時代の演奏家、楽器製作家および音楽愛好家が引き継がれ、奏功されることを願って止まない。
和田 章(カメラータ・ムジカーレ)
(以下は演奏会後に堀氏に贈呈した寄せ書きからの抜粋です)
カメラータ・ムジカーレの先輩達を通じて堀さんと初めて面識を得た時、堀さんは丁度今の自分位の年齢でいらしたのではと思う。もうかれこれ30年近くも前のことだ。以来、音楽のこと、楽器のこと、そして人生のこと、様々な場面で実に多くのことを学ばせて頂いてきた。「学ぶ」などと書くと、ご本人から「俺は教えたつもりはないぞ」とお叱りを受けそうだが、私にとって貴重な人生の師のお一人であることは間違いない。自分の楽器を手に入れる前から長期間にわたって貴重な楽器をお借りし(チェンバロを弾く多くの方が、私と同じ経験をさせて頂いたこととお察しする)、「楽器から教わること」の大切さを教えて頂いたこと、初めて「タッチ」の問題に意識を向けるきっかけを与えて下さったこと等懐かしく思い出される。
何気ない四方山話の中にも、物事の本質に目を向ける堀さんの、ある時は厳しく妥協のない視線が、そしてまたある時は愛情に満ちた眼差しが感じられ、粛然たる思い、心温まる思いを抱いたのは恐らく私だけであるまい。堀さん一流の毒を含んだユーモア、辛辣な物言い(加うるに頭の回転の速さ!)にひたすらタジタジとなっていた私も、薫陶宜しきを得て?それなりに切り返すことが出来るようになったのを、「おっ、少しは成長したな」という感じでこちらを向かれた時の一瞬の表情も忘れられない。
「教わる」と書いたが、堀さんは常々「教え過ぎる」ことの愚、自分で考える余地を残すことの大切さを説いておられる。演奏会で使用する楽器をお借りするため工房に伺った折――こんな時は大抵、お茶を飲んで堀さんとお話している間にお弟子さんたちの手で(知らぬ間に)件の楽器が私の車に積み込まれ、飲みおわった頃には作業終了、帰路に着くのみという状況になっている――あれこれお話を興味深く伺っていたが、ふと壁にかかっている絵に注意を促し、「いい絵というのは、画面に描かれていない絵の外の空間、世界まで、どうなんだろうと思わず想像させてしまうようなところがある。」という意味のことをポツリと言われた。達意の人の識見と言うべし。
岡田龍之介(チェンバロ奏者)
私の堀チェンバロは1983年製フレンチフレミッシュの二段鍵盤です。二段鍵盤を作ってくださいとお願いしたら、あんたは貧乏なガンバ弾きだからと、仰ったか仰らなかったか忘れてしまいましたが、一段鍵盤が出来てきて、さすがに、やはり二段にしてくださいとお願いしました。注文以前に私が下宿をしていた、池末隆君が堀工房で初めて作った楽器で、メンテナンスをしていただく度にどんどん美しい音色の、良く響く楽器となって来ました。この楽器で初めてチェンバロをさわった学生も多く、その伴奏でガンバの腕と脚!を磨いた奏者は数知れません。日本の古楽界に寄与していると思います。
本日3月20日は、誠に残念ながらアメリカツアー中で伺えませんが、堀さんのご健康と楽しい余生と演奏会のご成功をお祈りいたします。
神戸愉樹美(ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者)
堀工房の居間(応接間?)壁の片隅に小さなリースが架かっています。実は、あれ、私の奥さんが作ったもの。確か工房を開かれて初めてお伺いした時に手土産代わりに持参したものです。それ以来何度となく工房にお伺いしましたが、だんだん年代ものになり、部屋に馴染んでいくのが楽しみでした。まるで、堀さんと堀さんの楽器のように。
堀さんのリクエストにお応えして、若い女性を連れて行きました(うちの娘ですが・・)。堀さんはやけに張り切って、平均律の意味もよく解らない中学生に、チェンバロの2 段鍵盤を使って「ミーントーン」「ベルクマイスター」「ピタゴラス」と様々な調律をあっという間に披露し、その違いを熱く語ってくれました。娘曰く。「よく解らないいけど、堀さんって、すごいおじいちゃんね・・。」
堀さんの話は、一つひとつが私の人生訓です(口は悪いけど・・)。「お前は、会社に入って何を目指すのか。トップを目指せ、社長・会長を目指せ!」、「最高のものを知らないのに、ちょっといいからといって『最高!』なんて言うな」等々。時々、部下達に使わせてもらっています。
カメラータ・ムジカーレも今年で30年、44回目の演奏会を迎えます。考えてみれば慶応バロック時代から、演奏会ではほとんど堀さんの楽器にお世話になりました。ありがとうございます。今度、みんなでのんびり温泉でも行って 囲碁でもやりましょうか。
角田幹夫
1970年代前半、ナマイキ盛りの学生であったわれわれは、いっぽうで目に付く曲はかたっぱしから取り上げる、まあ公平に見てもたいへんアグレッシブな演奏団体でありました。なにしろピリオド楽器のレコードが出たら、この曲いいじゃない、楽譜探してこいよ(当時はよく遠山図書館にコピー取りにいってたような気がする)てな感じですぐ演奏会でやったりしておりましたので。
その頃堀さんは、注文品の製作のかたわらで、いろんなタイプのハープシコードの勉強をされ、試作品と称して「今度2段のちょっと長いのを作ってみた」とか、「イタリアンができたんだけど外のケース作るのが面倒だから、ま、これでいいかな。塗装もいいや」てな調子で、次から次へといろんな楽器をつくりだされている時期にあたりました。注文されたわけではないので出来上がったものは当然しばし宙ぶらりんとなります。堀さんは若造でしろうとのわれわれにこうした楽器をよく使わせてくださり(われわれもまた、当然のような顔をして使っていましたが)、われわれに、曲によって楽器を変えるなんぞという贅沢な事を許してくださったのでした。これがわれわれの音楽活動形成にどれほどの恩恵を与えてくださったことか、人生のフシギ、ご縁、まことに計り知れないものがあります。
おっと長くなりすぎました。ご縁・ご厚情に感謝しつつ。
大澤信行
今を去ること30数年、こちとら長髪なびかせ、何故かノートの代わりに縦笛を持って大学を闊歩していた青春時代、ちょっと変わった調律屋のおじさんというのが堀さんの第一印象でした。今でこそ、CD解説などで堀さんの名前を見た人はその偉大な功績から気難しいマエストロを想像するのでありますが、ちょっと変わった楽器作りのおじいさんという、あまり変わらない印象を持ち続けているのが、我がカメラータ・ムジカーレの古参団員です。
大昔のこと、コンサート前の練習をした時だったか、我が家にお立ち寄りいただいたことがあったのですが、堀さんが、弾く人もなくほこりを被ってガラクタと化していたフォイリッヒ製のピアノの前で、あたかも生き物を可愛がるような目つきでじっと見ておられたのが今でも妙に記憶に残っているのです。その後、我が家のおんぼろピアノなど及びもつかないフォルテピアノの名器を作り続けられましたが、たとえどんな楽器であっても、楽器というものへの想いは変わらないということなのでしょうか。このような瞬間は、ちょっと変わった堀さんが、うんと変わった人に見えたものです。
おかげさまで我が団員も50歳代が多数を占め、新旧交代の勢いに怯えながらも、本邦ピリオド楽器アマ集団の最長不倒距離のみを励みに世にはびこり続けている、この最大の原因が(ご本人に罪なきことなれど)カメラータ・ムジカーレの堀さんとの出会いにあったことは間違いありません。
山本 勉
ちょうど30年前になると思います。カメラータムジカーレの発足時に一番後から参加させてもらいました。先輩は皆、古楽器に狂っていましたし、私もそこに続きました。(古楽器も今なら、「狂う」にも、多少好意的な意味も加わったと思いますが、当時は全くマイナーだったので、文字通り「狂ってる」評価を受けていたように思います。)
学生だった私たちに、堀さんは、実に自然に付き合ってくださいました。とらえ所の無いようなあっちやら、こっちやらの話をし、チェンバロで、いろいろな調律を手品のようにあっという間に完成させ、響きまで教えていただきました。生意気盛りの私たちは「ふーん」とか言うだけで・・・。また、堀さんにくっついて、かばん持ちならぬチェンバロ持ちを手伝い、古今の有名演奏家のコンサートに行き、リハーサルから本番までただで聴くなどという、今思うと最高の勉強の場も与えていただきました。トラヴェルソも良い楽器の無い時代で、堀さんに長野の楽器製作者の家まで連れて行ってもらい、そこで手に入れた楽器が、古楽に本格的にのめり込んだキッカケにもなりました。なんと濃密で贅沢な時間だったことでしょう。
社会人も音楽も長くやり(腕前は別として)、やりたいことが少し見えてきて、堀さんの言葉を思い出すと実に含蓄深い。曰く、「個々に正確に作って積み上げても、全体としてまとまらなければだめだ」「どんな音にするかのファンタジーもってやってるか?」「やりたい表現を自分のものにするには、数をこなし、身につけないとなぁ」など、チェンバロ作りに堀さんがフワリと話す一言は、音楽にも社会にもすぐに使える真理と、30年たって少し分かったことを告白します。
私たちは、堀さんとそのチェンバロに教えられ、引っ張られ、支えられ、ここまできたのだと思います。この出会いに感謝しつつ、ここまで来ちゃった堀さんとの遠慮のないお付き合いを末永く続けさせて下さい。
曽禰寛純
チェンバロに出会えて、堀さんに出会えて、堀さんの楽器を弾けて、私は本当に幸せです。ワインの保管場所に困ったら、いつでも呼んで下さい。
脇田美佳
堀さんに初めてお会いしたのは19か20才の頃でしたね。その後永い年月が経ちました。当時、バロック好きで血気盛んだった若者達も(多少ハメを外すこともありましたね)それなりに分別ある中年になりました(心はまだ少年のままかな)。彼らと堀さんとは男同士の暖かい友情に包まれていて、その仲間に入れない私はとてもうらやましく思ったものでした。
堀さんのように楽器作りを一生の仕事にするのはなんとすばらしい事でしょう!本当はアントニオ・ストラディヴァリのように100才近くなるまで名器を世に送り出して戴きたかったです。
さぁて、これから少しは暇になりますね。私とデートでもいかが?
河合順子
私が通っていた大学は、御茶ノ水にあった頃の中央大学で、2年生の頃から慶応バロック・アンサンブルに参加していました。そのため、堀さんとは直接お目にかかったことは少ないのですが、学生のころからお顔と作られた楽器のことはよく知っていました。
定期演奏会で使わせてもらった黄緑色の2段鍵盤のチェンバロは、コレギウム・アウレウムの初来日の時、有田正広さんのトラヴェルソ、ボブ・ヴァン・アスペレンのチェンバロという顔ぶれでも使われていたように記憶していますし、グスタフ・レオンハルトが来日した折に使われたあの黒いフレンチの2段鍵盤の楽器も強烈な印象で、特にファゴットの音のように持続するあの低音の響きの豊かさには圧倒されました。
私は今フルートの製造販売をする村松楽器に勤めており、その当初は古楽器部があって、チェンバロも扱っていました。また、フルーティストの演奏会のゲネ・プロで楽器のバランスを聴く時、その仕事の中でも堀さんの楽器のイメージが良い楽器の基準になっていたような気がします。学生の頃から、有形無形の形で、そして様々な場面でお世話になってきました。ありがとうございます。
小川恒行
1998年の春、長年の夢だった堀さんのチェンバロが我が家にやって来ました。明るい若草色のマーブル模様で、今までの堀さんの楽器のイメージを変えた装飾です。リビングルームに人が集うようになり、アンサンブルを家で楽しむ機会が増えました。調律が日常的となり、朝な夕なに昔から弾いてみたかったチェンバロソロの曲をさらったり、爪を調整したり・・・音楽が自宅に定着しました。それと同時に、地域活動の一環として、教会を借りて「駒込ウィークエンドコンサート」を企画、自分たちの演奏も含めて様々なコンサートを行ったり、また、蓼科、新潟などへもチェンバロ持参でコンサートを行うなど、社会的活動も行うようになり、交友関係も広がりました。
こうして、堀さんのチェンバロのおかげで、趣味と社会的活動がつながりました。
中村栄一、中村洋子
1974年ごろ札幌の教育大学(特音)に堀チェンバロ(だったとおもうのですが)が入ることになったと分かり、当時学生だった私はワクワク興奮して到着の日を心待ちにしていたことを思い出します。それは私がはじめて見るチェンバロでした。まるで宝石のようにまばゆい存在でした。現在のように世の中に古楽が当たり前に楽しめるようになるとは、想像もしませんでした。古楽の今日のように拡がりも、堀栄蔵氏あらばこそ と、心から感謝いたしております。個人的には数年前に一度カメムジのメンバー数人と工房に伺いバーベキューをご一緒させていただきました。工房で、白木で作成途中のチェンバロを見せていただいたことの思い出は私にとっての宝ものです。
久津見悦子
堀栄蔵氏は2005年6月9日に逝去しました。「堀栄蔵氏を悼む」のページをご覧ください。