1978年、初夏。ピート・シェリーは彼自身の中で「パンクは死んだ」と思っていた。セックス・ピストルズがアメリカで解散、イギリスに戻った彼はパブリック・イメージ・リミテッドを結成。彼は言った。「パンクは死んだ」と。
クラッシュはセカンド・アルバムを発表。ダムドは再結成し、マシンガン・エチケットを発売。次々とパンクからその形を変貌させて行く中でバズコックスはまだその形を留めていた。
ジョニー・ロットンがこの言葉を吐く以前から「パンクは死んだ」、そう思い続けていたピート・シェリーにとってのパンクとは何だったのだろう。苦悩と憂鬱、その中で生まれたシングル「Everybody's Happy Nowadays」もその意味とは違う方向に向い、家を離れ淡々と続く過密スケジュールのツアーの中のバズコックスの1979年前半を見て行こう。
1979年1月
1月1日、元旦からバズコックスはストック・ポートにあるストロベリー・スタジオに入り、マーティン・ラシェントと共に次のシングル「Everybody's Happy Nowadays」のデモ・レコーディングに入った。
1月11日、マンチェスターのポリテクニックにてチャリティー・ライブを行う。この時のサポートはティアドロップス。この日バズコックスは500ポンドを寄付している。翌日ティアドロップスは同じマンチェスターのラッセル・クラブにてライブを行っている。このティアドロップスとはバズコックスのベーシスト、スティーブ・ガーベイと元・ザ・フォールのメンバーで構成されている。
さて、1月も後半20日にはスティーブ・ディグルとジョン・メイヤーはT.Jにてリハーサルを行う。途中からスティーブ・ガーベイも加わってカーゴ・スタジオに場所を移してデモ録音を開始している。同じこの日はBBCラジオのマイク・リード・ショーにゲスト出演をしている。
25日、26日とT.Jにてリハーサルを行ったバズコックスは、27日にはマーティン・ラシェントと共にストロベリー・スタジオに戻り「Everybody's Happy Nowadays」の本格的なレコーディングをしている。
1979年2月
10日に発売されたメロディー・メイカー誌の見出しはこうだ。
「バズコックスは解散しない!!これは単なるソロ活動だ!!」
インタビューを受けたスティーブ・ディグルは「これはソロ活動であって、僕達は解散なんかしないよ。ただ僕等のマネージャーは二重に忙しくなって来たからね、彼の髪は薄くなりつつあるよ(笑)」と話している。
16日、ピート・シェリーはそれまでの名前「ピーター・キャンベル・マックニシュ」から正式にピート・シェリーに名前変更手続きを取った。日本とは違い、名前の付け方が異なるイギリスではあまり重大な事では無いのかもしれない。日本ではある程度なら勝手に考えついた新しい、珍しい名前でもOKだが、海の向こうではもともとある名前の中から付けなくてはならないのでスティーブやらジョンやらマイクなんて1クラスに何人もいる様な状態で、だから愛称と呼ばれるものがたくさん作られてそれで個人を区別しているのだろう。
ところでその彼は24日のサウンド誌によるとアルバトロス・Y・ロスト・トリオスのアルバムのプロデュースを行ったと伝えている。
翌日の25日はマンチェスターのピカデリー・ラジオにピート・シェリーが一人ゲスト出演。この日はソロという事でアコースティック・ギター1本で「Maxine」「I Don't Know What It Is」「Homosapien」を披露している。
28日、バズコックスはマンチェスターよりロンドンに。午後にはトップ・オブ・ザ・ポップスの録画の為、エデン・スタジオに直行。「Everybody's Happy Nowadays」を録画している。夜はドイツ、スウェーデンのテレビの取材も受け、ホテルに戻ればファンと飲み明かすという「売れているバンド」の象徴の様な日々を送る。
1979年3月
3月1日、午前11時50分、バズコックスはブリュッセルに着いた。バズコックスのヨーロッパ・ツアーの幕は切って落とされたのだ。
初日のこの日はLiegeのCentre Culturel de Cheneeでライブ。サポートはギャング・オブ・フォー。
2日はアムステルダムのParadiso Clubにてライブ。この日のライブはヴァラ・ラジオの手によって録音されている。この番組ではアムステルダム・クレスト・ホテルでのメンバー・インタビューも行っている。
この日は「Everybody's Happy Nowadays」の発売日であり、メロディー・メイカー誌は「これは本当にばかばかしい程、覚えやすい曲だが実は巧妙に作られた皮肉を歌ったものだ」と報じたが、バンドがいろんな方面から操られている事に対してのピート・シェリーのストレスと憂鬱を歌った歌だった。
3日はRotterdamのExit Clubにてライブをこなし、たった1日の休暇を取った翌5日にはRTBFスタジオに入り、午後1時半から6時までリハーサル。これはベルギーのテレビ番組「Follies」の収録の為で、ザ・ジャムも同じ番組に出演していた。「Follies」の本収録は翌6日に行われ、約30分で終了。この日はクィーン・アン・ホテルに泊まり、ベルギーの有名音楽雑誌の取材を受ける。
翌日いつもの様に早朝にホテルを発ったバズコックスは12時半にはパリに到着。
すぐさま雑誌のインタビューと掲載写真の撮影が行われる。
さて、翌8日からライブの予定だったがチューリッヒ、Volkshausでのライブは何故かキャンセルになっている。その日の午後ドイツの音楽番組「ロック・ポップ」では「Everybody's Happy Nowadays」が放送された。同じ日、イギリスでも2月28日にすでに収録済みであった同曲が「トップ・オブ・ザ・ポップス」で放送された。この時の模様はセル・ビデオにも収録されているので見た事のある人は多いだろうが、ピート・シェリーは美川憲一ばりのラメ入りのジャケットでギターも持たずにふらふらと登場し、その胸ポケットには合計8ポンドの紙幣が刺さっていた。後に彼はこの時の事を聞かれると「お金ってのはファッションのアクセサリーに過ぎないんだ。」と語ったが、それは奇怪な酔っ払いのパフォーマンスの様に見えた。
「私も初めてアレを見た時はびっくりして体が固まってしまいました。」とUFO目撃の人のインタビューみたいな事を言ってしまう程、珍しい光景でした。
10日、ベルリンのKant kinoにてライブ。翌11日にはハンブルグのマーケットホールにてライブ。同日BBCラジオのポール・バーネット・ショーにゲスト出演。12日から16日と、19日から23日まで「Everybody's Happy Nowadays」は放送されていた。
13日、クラブ7でのライブの前にZhivagoのレストランでプレス・コンファレンスが行われた。ほんの一時の休息を取ると次のライブが待っていた。
14日はGothenburgのクラブ14にてライブだったが、このクラブは4Fにあり、機材を搬入するにはトラックから4Fまで担いで登らなければならず、ヘルプの2人の若者だけではどうにもならず仕方なくライブはキャンセルとなった。
15日、ストックホルムのドミノ・クラブでライブ、1日の休暇兼移動で17日にはVaxjoのバーバレラでライブを行っている。この日、故郷の方ではレコード・ミラー誌の表紙を飾り、ロング・インタビューも掲載された号が発売されている。
このあたりになるとメンバーの疲労も相当のものであったに違いない。ツアーはバンド生命を短くするというのは確かなのかもしれない。
18日、バズコックスはやっと故郷マンチェスターに帰って来る。しかしピート・シェリーにはまたしても苦悩が待っていた。彼の部屋に空き巣が侵入、彼の持っていたレコードが根こそぎやられていたのだ。しかし、何故か「Time's Up」のブートレグ盤は残っていたという。これは何を意味するのか、私はコメントは控えさせて頂きます。
19日、この日予定されていたヘルシンキでのライブはキャンセルになっている。
苦悩続きのバズコックスだが、22日のトップ40には「Everybody's Happy Nowadays」が29位にエントリーされた。「トップ・オブ・ザ・ポップス」では以前放送したバージョンと違うバージョンを放送した。
23日、ピート・シェリーは事務所ニュー・ホルモンにいた。そこでは彼の大好きなファン・レターを読みあさっていた。後から来たスティーブ・ガーベイもこれに加わり、束の間ほっとしたに違いない。その後、他のメンバーと合流してマンチェスターのベル・ヴューで行われるライブのサウンド・チェックを行う。これはここから始まる「UK・ミニ・ツアー」のオープニングである。サポート・バンドはバズコックスのビジュアル・コラボレイターであるリンダが参加するバンドLudusであった。
翌24日はカーリスルのマーケット・ホールでライブ、そして翌26日はブラックバーンのキング・ジョージズ・ホールでライブ。この時バズコックスは暴れまくる観客をステージから睨みつける様にライブを行った。
26日はWirrana Stadiamでライブ。イギリスは暴動を起こす危険なファシストを追放、それに焦点を合わせたパンク・ギグ、バズコックス・ファンはこれを一目見ようとイギリス中からどっと押し寄せた。
27日コベントリーのニュー・シアター、28日AylesburyのFriarsでライブ。
2日の休みを取り、「UK・ミニ・ツアー」の最終日はハマースミス・オデオンだった。
1979年4月
4月に入るとライブの予定は無いので、ロード・クルーとバンドのPAシステムはザ・アンダートーンズのイギリス・ツアーへと貸し出されて行った。
2日からはラジオ1のデイブ・リー・トラビス・ショーではバズコックスのプレ・レコーディング・セッションが2週間に渡って放送され、そのテープはシモン・ビートス・ショーに引き継がれて放送された。
7日のサウンド誌はピート・シェリーのインタビューが2ページに渡って掲載された。
17日にはそのピート・シェリーのバースディ・パーティがマンチェスターのラッセル・クラブで行われ、ザ・ギャング・オブ・フォー、デルタ5などマンチェスターではよく知れた顔ぶれが集まって深夜まで大騒ぎした。
28日に発売されたNME誌の表紙にはピート・シェリーが登場。インタビューも掲載された。
1979年5月
1ヵ月の休息を取ったバズコックスは1日、T.Jに集まって来た。ここで久しぶりにリハーサルを行う為であった。同日に発売されたジグ・ザグ・マガジン誌にはスティーブ・ディグルの3ページに渡るインタビューが掲載された。
10日から11日はマンチェスター、ジェームス・ストリートにあるセントラル・サウンドでリハーサルを行っている。
14日、ラッセル・クラブでグラナダTVのトニー・ウィルソンの番組の為、ライブ収録を行っている。観客を入れずに9曲の収録を行っている。
19日からバズコックスは次のシングルのレコーディングの為にロンドンのエデン・スタジオに入った。彼等の次のシングルはスティーブ・ディグル作の「Harmony In My Head」とピート・シェリー作の「Something's Gone Wrong Again」に決定した。
翌20日、エデン・スタジオでのレコーディング2日目。スタジオで長い長いセッションを行った後、メンバーとスタッフでライシアムで行われていたザ・アンダートーンズのライブに出かけて行った。
21日は同月28日に放送するBBCラジオのジョン・ピール・ショーの為の収録を行っている。曲目は「I Don't Know What To Do With My Life」「Mad Mad Judy」「Hollow Inside」「ESP」の4曲であった。
27日、スコットランドにあるキャメロン・ベアー・パークで行われたLoch Lomond Festivalに参加した。
1979年6月
今月もバズコックスには特にライブなどは行っていない。
2日に発売されたメロディー・メイカー誌ではLoch Lomond Festivalの模様を掲載した。