Buzzcocks Story vol.1

ピーター・マックニシュが初めてギターを手にしたのは1970年1月4日、彼が15歳の時。その日は雨が降っていて、とても暇だったので弟(Gary)が誕生日のプレゼントに父親から買ってもらったギターを取り上げ練習を始めた。すぐに彼は「ビートルズ・ソングブック」を買い込みビートルズやマーク・ボランなどをコピーしていたがすぐに完璧なラブソングを自ら書く様になる。16歳になったマックニシュは初めての曲「Yesterday Night」を完成させている。

マックニシュの初めてのバンド「KOGG」は1971年結成。ミック・リー(vo.)、ピーター・マックニシュ(guitar)、キース・ワイルド(bass)、トニー・ウォール(guitar)、固定したドラマーはおらず、その時々で変わっていた様だ。「KOGG」は主に学校のホールでライブを行ない、ディープ・パープルやジミ・ヘンドリックスなどのコピーを演奏していた。

その頃16歳になったスティーブ・ディグルはスペイン製のギターを£6で手に入れ、練習を始めている。ジョン・レノンのファンだった彼はwhoのピート・タウンゼントに震え、その後すぐにベースとアンプも購入している。

この年の11月28日、当時13歳のスティーブ・ガーベイは初めてレコードを買っている。それはT-Rexの「Jeepster」であり、その週のチャートで第2位の曲であった。彼にとってのヒーローはマーク・ボランであり、学校のマーク・ボラン似の友達ジェフ・フォスターとガーベイの親友マーティン・ブラマー、トニー・フリール一緒に「The Outsiders」というバンドを結成。(後に「The Fall」となる)

1972年、マックニシュはとうとう念願の自分のギターを手に入れる。2年間も弟のギターを取り上げたままだなんて、なんてひどい兄なんだ・・・。
彼のギターは地元の楽器屋にて購入。「Starway」というギターで£18だった。すぐに彼はアンプも購入している。

その頃、ハワード・トラフォードはボルトン工科大学にて科学技術と人文学を専攻しいてる。17歳になったスティーブ・ディグルはブラッドフォードにあるマウントフォーズ鋳鉄所で仕事を始めている。彼にとって大事なのは「音楽」であったが、その「音楽」の為に仕事をしてお金を稼ぐのは日本でも同じだろう。

そして3月17日、ついに念願のギター「Antoria」というレスポールのコピーを手に入れる事が出来たのだった。そのギターで「I Might Need You」という曲を書いている。ちなみに彼はオールドハム・テクニカル・カレッジで社会学と国文学について学んでいる。

一方、スティーブ・ガーベイはバンドをスリーピースに変更。彼はボーカルとベース、ジェフ・フォスターがギター、ポール・アダムスがドラムであった。彼らの初ライブはマンチェスターのプレストウィッチで、たった3曲クリームのカバー(「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」と「ホワイト・ルーム」)とオリジナル1曲だった。1973年、マックニシュはユース・ホステルで知り合った女の子に曲を書いている。その曲は後の「Maxine」であった。

この年の5月マックニシュは「KOGG」のギタリストのトニー・ウォールと共に「THE JETS OF AIR」を結成。ここには、後にバズコックスのメンバーとなるガース・ディビス(bass)が在籍していた。

「THE JETS OF AIR」のデビュー・ギグはオール・セインツ・チャーチ・ホール。この時彼らはデビッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、ベルベット・アンダーグラウンドのカバーと共に、後にバズコックスの曲となるマックニシュのオリジナル曲を演奏している。

余談だが、この年マックニシュは車の免許取得に失敗している。彼が免許を取れたのはずっと後、1996年になってからだった。イギリスの免許試験は世界的に見ても難しいらしく(一番簡単なのはアメリカ)27年間もかかって取得した主婦もいるらしい。イギリスでは子供が学校から帰る時、必ず親が迎えに行かないといけないらしいので、彼の愛息アレックスの為の免許取得となったのかもしれない。

1975年、3月23日「Jets Of Air」解散ライブ

Love You More/Homosapien/I Don't KnowWhat It Is/Just One Of Those Affairs/Telephone Operator/Nostalgia/Sixteen Again

1974年、マックニシュは彼の部屋で初めてのレコーディングを行なう。この時レコーディングされたのは後に自らのレーベル「Groovy Records」から1980年に「Sky Yen」としてリリースされている。そしてこのテープが友人達の手で「友達の友達」に渡る事となり、ハワード・ディボートの手にも渡る事となる。

この年に彼は、「Pusher Man」「Just One Of Those Affairs」「Keat's song」「Yesterday's Not Here」を書く。これらの曲は7年後にリリースされる彼のソロ・アルバム「Homosapien」に収録されている。

その頃ベルベット・アンダーグラウンドにハマったハワード・トラフォードは中古レコード屋でレコードをしこたま買い込んでいる。

4月、独りになってしまったマックニシュは「Love You More」を書いている。

Wanted

people to form a group to do a version of Sister Ray

9月ボルトン工科大学の掲示板でのメンバー募集である。

ピーター・マックニシュとハワード・トラフォードはついに出会ってしまったのだ。

彼らはまずストゥージーズのカバーを始めた。名曲「Your pretty Face Has Gone To Hell」や「The True Wheel」などをセッションした彼らはまだ名前の無いバンドを結成させたのだった。

10月7日、ハワード・トラフォードはパーティーで後のバズコックス初のマネージャーであり、協力者となるリチャード・ブーンにピーター・マックニシュを紹介している。ブーンは当時を振り返ってこう言うのだった。「彼は、たくさんのブレスレットと、とてもたくさんのマスカラを付けていた・・・」

1976年2月12日、ロンドンのマーキークラブではセックス・ピストルズのライブが行なわれていた。

そのライブ・レビューをNMEで読んだマンチェスターの若者2人は今ロンドンで何が起きているのか自らの目で確認する為ロンドンに出向き、何日間かの滞在をするのだった。ロンドンで彼らが見たものは、まさに今始まろうとしている新しい何か、「パンク」だった。何度かピストルズのライブを見て触発された彼らは地元マンチェスターにも「パンク」の波を起こそうと決意する。そしてマンチェスターに帰る列車の中でハワード・トラフォードはハワード・ディボートに、そしてピーター・マックニシュはピート・シェリーになるのであった。
バズコックスという名前はハワードが雑誌「タイムアウト」を読んでいて、当時のテレビシリーズ「Rock Follies」のレビューの見出し部分
「It's the buzz,cock!」を見て、これは自分たちのバンド名にぴったりだ!!と考えついたのだった。

2月29日マンチェスターに戻った彼らとガース・ディビスは、さっそく大学のホールでデビューライブを行なっている。

時は1976年3月、ロンドン・パンク・シーンに華々しく第一期バズコックスは登場する。

ボーカルはハワード・ディボート、ギターがピート・シェリー、ベースがガース・ディビスである。この時のドラマーは1カ月も経たずに脱退。そして5月には当時若干16歳であったジョン・メイヤーが雑誌メロディー・メイカーのドラマー募集で参加、現在はギタリストであるスティーブ・ディグルがピストルズの悪名高きマネージャー、マルコム・マクラーレンの紹介でベースとして参加している。

5月4日、彼らは雑誌「ニュー・マンチェスター・レビュー」に広告を出す。それはマンチェスターにセックス・ピストルズを呼ぼう!!という計画であった。それはすぐに現実化した。彼らは自らの手でライブを計画・実行したのだ。そしてそのライブのサポートバンドとしてライブを行なっている。ピート・シェリーはこのライブでドアマンまで務めている。「退屈な街」に新しい波を起こしたのはピストルズではなく、ピストルズをこの街に呼んでしまった彼らだった。この時集まった観客はたったの100人程度であったが後に伝説となったこのライブは確実に閉ざされた街・マンチェスターに突破口を開ける事となったのだ。9月、ロンドンの100クラブで行なわれた2日間のパンク・フェスは有名過ぎるフェスだが、まんまとバズコックスもこのフェスに参加している。ピストルズ、ダムド、クラッシュ、スティンキートイズらが出演・・・と、このフェスについては説明し尽くされているので割愛する。その後のアナーキー・ツアーにはダムドに替わって同行する事になった。

1977年、バズコックスは今まで例を見ない初めての自主制作盤「スパイラル・スクラッチ」を自らのレーベル「New Hormones」からリリースする。(最終ページにディスコグラフィーを掲載しています)これはメンバー自身が金策に走り、ジャケット封入まで自らの手で行なった、まさに「手作り」のレコードだった。

レコードはメジャーからと考えられていたこの当時にはとても珍しかったに違いない。しかし、この後にぞくぞくと出てくるインディーズ・バンドにとってはとても心強い事だっただろう。

そしてこのシングルはなんと総計16000枚以上を売上げたのだった。「スパイラル・スクラッチ」発売日の1月29日、バズコックスのメンバーたちは、安っぽいスペイン産のワイン2本とトーストでお祝いをしている。

そして努力の甲斐あってマンチェスターのバージンレコードでは4日で1000枚を売りつくし、6月までに600枚の追加プレスを行なっている。ラジオ、雑誌等で絶賛されたこのシングルはその後も再発を望む声が多かった。

しかし「スパイラル・スクラッチ」リリース直後にハワード・ディボートが大学に戻るために脱退する。が、その甲斐無く落第決定。4月にマガジンを結成。一般には脱退理由は「騒音に疲れた、息切れがする。」という事になっているが、騒音に疲れたのであれば、こんなにすぐにバンドを結成する訳がない。

しかし、そのマガジンも1981年5月に解散。マンチェスターの詩人は静かに幕を閉じた。彼はたったの11回、バズコックスとしてライブを行なっただけであった。

彼をバズコックスを代表する一人として認識する人は多いが実質バズコックスをここまで引っぱって来たのはピート・シェリーである。それを忘れないでもらいたい。

しかし、この頃のバズコックスにとってはハワード・ディボート脱退は痛手であったに違いないが、奇妙な声のボーカル・ピートをフロントに置く事とスティーブ・ディグルがギターに転身する事で回避したのだった。

さて、パンク・バンドにしては珍しくアイドル並のお揃いの衣裳を持つ彼らだが、この頃のバズコックスの衣裳はマネージャー、リチャード・ブーンの大学の友人、ジャニー・コリンズが担当していた。一番有名な緑×黄緑のツートンの'What Do I Get?'のシャツはシルクスクリーン・プリントによる彼女の作品である。この衣裳で撮影されたユナイテッド・アーティストのアーティスト写真はポスト・カードになっているので見た事がある人も多いのではないだろうか。

4月7日、バズコックス・TVデビューを飾る。グラナダTVの「What' On」(司会・トニー・ウィルソン)で彼らは「Boredom」のスタジオ・ライブを行なっている。その後バズコックスはクラッシュと共にツアーに出る。有名な「White Riot Tour」である。

5月29日、エレクトリック・サーカスでのライブを行なう。この日のサポートはペネトレーションとウォーソー。このウォーソーというバンド名は実はピート・シェリーが付けてあげた名前であった。驚くべき事に彼らは後の「Joy Division」である。

この日のライブにはロンドンの大手レコード会社・ユナイテッド・アーティストから視察が来ていた。興奮した彼はその日のうちに連絡を取る事になる。

そして8月16日、エルビス・プレスリーが死亡したこの日、バズコックスは大手ユナイテッド・アーティストと契約する。メジャー・バンド・バズコックスの誕生である。

ユナイテッド・アーティスト契約後バズコックスはシングル「Orgasm Addict」を発表した。

しかし、このシングル発売直後、ベースのガースが脱退。10月25日、新たにスティーブ・ガーベイがベースで参加している。

個人的な事を言わせてもらえばこの時のメンバーが私にとってのゴールデン・メンバーである。バズコックスと言えばこの時期のメンバーを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。たぶんもうこのメンバーで「バズコックス」を名乗る事は無いのだろうが……… 

Buzzcocks Story vol.1End


注意・このストーリーを転記する場合は必ず確認を取ってからにして下さい。
Kartz

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