スティーブ・ガーベイのその後・・・ 


 ガス欠なんてまったくの予定外。
かつてのパンク・スター、スティーブ・ガーベイのインタビューに向かう途中、彼と連絡を取るために公衆電話を探して田舎道を走った。
セントラル・バックスのぐねぐねと続く丘で道に迷ってしまった上にガス欠になったことを伝えた時、彼はマンチェスターなまりで
「それでレスキュー隊がいる?」と聞いてきた。まもなくしてガソリンを持って現れた彼・・本当にやさしい紳士だと思った。
ガーベイはガソリンを入れながら笑った。
「初めて働いたのはガソリンスタンドだったんだ」。
彼のより有名な職業は偉大なるパンクバンド、バズコックスのベースプレーヤーだ。
'What do I get'をレコーディングする前の 'Orgasm Addict'までベースを担当していたガース・ディビスに代わり、
デビューアルバム'Another Music in a Different Kitchen'で初めてメンバーとしてプレーした。
1989年の再結成ツアー(バンドは1981年に解散した)でバンドに参加したこともあり、元メンバーとして人々の記憶に残っている。
彼に会えてうれしいというのは、我々の車がトラブルにあったからというわけではないのだ。
とにかくガーベイの車に乗り込みブースターコードを取りに彼の家に行くことになった。
(エンジンをスタートさせようとして何度も試みのだが、バッテリーが上がってしまった。)
ガーベイは現在38歳、2人の息子と奥さんのバーバラと共にバッキンガムという英国風の名前の街でこじんまりとした家に住んでいた。
「ここにはたくさんイギリス人が住んでいるんだ」運転しながらそう言ってSandy's store を指さした。スコットランド人が経営していて、
彼の好きなプディングパイが買える店だという。現在ではガーベイは大工としてバックスカウンティで働いていた。
「もうすっかり田舎の暮らしになじんでしまったよ」やや薄くなったグレーの髪をしたガーベイはそう言った。
キングスロードというよりもJ.クルーといったいでたちで、細いタイに格子縞のジャケットは黒のリーバイスとデニムシャツに変わった。
それでパンクロッカーの隣人達は彼のことをどう思っているんだろうか?
「近所の人たちにどんな音楽をやっていたのかって尋ねられると、グリーン・デイみたいなやつさって答えてるんだ」。
パンチの利いたエネルギッシュなリフ、キャッチーなメロディにウィットにとんだ破壊的な詞で知られるバズコックスが道を開き、
グリーン・デイやランシドのようなフォロアーバンドが生まれたのだ。
「グリーンデイみたいなバンドが気に入っているかって?いや、バズコックスがやっていた事をわかりやすくやっているバンドだと思うけど」。
ガーベイはバズコックスにいた時の派手な生活を振り返った。
一人づつモエエシャンドンのボトルを与えられるまでその場から動くことを拒否したり、ライブがはねた後楽屋で、マリワナパーティをした事もあった。
「王様のような生活をし、豚のように食ったね」と言って彼は笑った。
「いや、王様のように扱われて豚のように暮らしていたんだ!」
およそ5年前バンドが再結成した後に、彼は健康上の理由でバズコックスをやめた。
理由の一つは頬に癌性の腫瘍を発見したことだ。
「その前も病気がちだったし、もう続けられないと思ったんだ。あんまりお金ももうからないし、家に何カ月も帰れないという時もあったしね」。
彼の息子がバックシートから「もうお父さんは元気だよ」と言った。
病気になるまではニューヨークに住んでフィラデルフィアのバンド、ブラザーアイをマネージングしていた。
そのバンドのメンバーはバックスカウンティに住んでおり練習もそこで行っていた。
その土地の美しさを見て子供が成長するにはいい場所だと思ったという。
 我々の車のエンジンがやっとかかり、ガーベイの後をついて行って彼の家に到着。
居間でブラザーアイのCD、'Soapdish Antennae'をかけてくれた。
あんまり売れなかったけれど、バズコックスでやっていたことと同じくらいこのアルバムには誇りをもっているという。
「このバンドと一緒に仕事するのはとても楽しかったんだ。これは誰も聴いたことがないようないいアルバムだよ」。
昔ほど外出することは少なくなったが、今でも地元の音楽シーンはチェックしているという。
「僕にとって音楽はとても大事。なんだか死が近いみたいな言い方だけど、僕がいなくなってもそれはここに残るからね。」
キッチンテーブルで奥さんのバーバラが我々のために作ってくれたチョコチップ・クッキーをいただいた。スティーブはミルクを入れてくれた。
彼とバーバラとの出会いはスティングのパーティだった。
「スティングとは彼がこんなに売れてイヤな奴になる前から知っていたんだ」と言って彼は笑った。
「いや、もういい奴に戻っているかもしれないけど、昔は本当にうぬぼれてたな。自分じゃない人間を装っていた。
ニューキャッスルから出てきたただのガキだったんだけど、億万長者になってしまうとはね」。
ガーベイはのんびりしたライフスタイルや、きっちりとした就業時間に満足していた。
健康を損なう事が無く子供と遊ぶ時間がとれるというのが何より大事だからだ。
家族が彼にとってどれほど大切なものであるかがよくわかる。
「昇進を言われた事もあったけど、受けてしまえばもっと働かないといけない。お金はもっと入ってくるけど、お金のことなんてどうだっていい」。
とは言っても、バズコックスに入る印税を自分に払ってもらわなくて結構という意味ではない。
かっこいいボックス仕様になった'Product'から'Singles Going Steady'を取り出してきたガーベイ。
バズコックスの究極のヒットパレード集である。「10万枚も売れたけど、それでお金は入らなかったよ」と言った。
彼は2階のスタジオからフェンダーベースを持ってきた。「安物のフェンダーさ。
よくギターをぶっ壊していたからこれがちょうど良かったんだ。今じゃ壊すためによく安いギターを好んで使うだろうけど、
その当時でそんなことをやってたのはバズコックスの他にザ・フーだけだった」。
1976年、ピート・シェリー、ハワード・ディボートがセックス・ピストルズのショーにインスパイアされたというのは有名な話。
しかしガーベイがインスパイアされたのはクラッシュだったという。
「クラッシュの解散は腑に落ちなかった。短命なバンドだったけれど、彼らはピストルズよりも重要なバンドだった。
僕とスティーブ・ディグルはクラッシュの大ファンだったよ。ローリングストーンズみたいな存在だった」。
ガーベイは自分の気に入ったアーティストがあれば徐々にプロデュースやマネージング業に戻っていきたいと思っている。
それまでは日々の仕事をこなし、サッカーをしたり、釣りを楽しみたいと言っていた。
(前日の朝もマスを5匹釣ったが、大物には逃げられてしまったという。)彼はいろんな事に器用なようだ。
「そうだね、これをしようと決めたらそれが得意になってるし。とことん熱中してしまうから、あれこれ手を広げたくないんだ。
自分は突っ走る事はしないし、老荘哲学を信じているタイプだね。起こってしまった事は仕方がない…ってね」。
ガス欠になったときにも当てはまる考え方だ! 
「もう男前じゃなくなってしまったよ」
このインタビューを行ったマーギットのこのコメントは当たっている。
スティーブ・ガーベイは本当にジェントルマンである。
数年前、彼をバックスカウンティに訪問しに行ったことがあるが、家族で暖かく迎えてくれた思い出がある。
スティーブの奥さんが写真を撮ってくれたり、二人でいろんな話をした。
バズコックスが再結成してワールドツアーをしていた時の辛さ、アメリカへ引っ越してきた事、ニューヨークを離れた事、
ちょうど手かげている住宅開発が一息ついた話などを聞かせてくれた。
わたしはこらえ切れずにそばにあったヤマハのアコースティックギターを手に取り、
スティーブのフェンダーベースに合わせて古いバズコックスの曲を数々と演奏した。
スティーブは楽しそうに久しぶりに弾いたよと言っていた。
彼自身は元気そうだったが、ただ腫瘍を取り除いた手術の小さな跡が頬に残っていた。
曰く、「もう男前じゃなくなってしまったよ」。
故郷である大都市での生活とはかけはなれているが、現在の暮らしが気にいっているようだった。
自分のプライオリティーを見直し、今は奥さんと子供と家で過ごすことが大切だと決めたようだ。


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