奴隷
かくも忌まわしき人間虐待



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海外の場合
日本の場合
朝鮮の場合

中国の場合

奴隷とは人としての権利、自由を認められず、他人の全面的支配に服し、
労働を強制され、譲渡、売買の対象とされる人のことです

[1:旧約聖書の時代]

洋の東西を問わず奴隷は古くから存在していましたが、旧約聖書の出(しゅつ)エジプト記によれば、
エジプトで奴隷となって苦しみ虐げられていたユダヤ人が、モーセ(モーゼ)に率いられて、
神が民族の父祖であるアブラハムとイサクとヤコブに約束したカナンの地(現在の、パレスチナ)へ向けて、
エジプトから脱出しました。その際に逃げ出した奴隷たちを連れ戻すべく王の軍が追いかけてきましたが、
奇跡が起こって海が割れ、モーセとその一行は無事に向こう岸へたどり着きました。

[2:古代ギリシャとローマ]

ギリシャの古代都市国家(ポリス)のアテネでは、
市民十五万人の生活を支えるのに、十万人の奴隷がいたといわれています。
奴隷の多くは戦争の結果征服された国から連行されてきた捕虜達であり、それに加えて
奴隷の身分に落とされた自国の犯罪者、破産者、貧乏な親達によって売られた子供などでした。
イソップ物語で有名な紀元前六世紀頃の寓話作家のイソップ(ギリシャ語名、
アイソポス)も、奴隷の身分だったといわれています。

アテネは ギリシャ のペロポネソス半島にある都市国家の スパルタと覇権を争い、
ペロポネソス戦争( BC431〜BC 404年)を戦いましたが、その際のアテネの指導者で、
紀元前421年に スパルタとの和解条約である「ニキアスの和約」を成立させた
ニキアスは、ラウリオンにあった銀鉱山のひとつを経営していて、
千人もの奴隷
を所有していました。
アテネが戦いに敗れた原因のひとつは、戦費捻出のために厳しい労働を強いられていた
ラウリオン銀鉱山の奴隷達が大量に逃亡したため、銀の生産量が激減し
アテネの財政を窮乏させたことにあったといわれています。
古代 ギリシャや ローマでは男性は労働を卑しみ女性や奴隷に任せていましたが、
その国が繁栄したのは彼ら自身の労働生産によってではなく、
奴隷労働と帝国の絶えざる拡大主義と、それに基づく侵略と略奪によってでした。

古代ローマ市民にとって剣闘士( Gladiator )による戦いは、
現代のボクシングの試合に相当する娯楽性の高い見せ物として好まれましたが、
剣闘士として闘ったのは主に奴隷や戦争で捕獲した捕虜達でしたので、
剣の奴隷、即ち剣奴とも呼ばれました。
剣闘士による文字通りの死闘、「殺し合い」は通常一対一で行われましたが、
時には複数の剣闘士がコンビを組んで戦い、あるいは猛獣のライオンと闘わされることもありました。
剣闘士は死ぬまで一生戦わされたということではなく、何度かの戦いに勝ち、生き残った剣闘士は引退が許されて、
奴隷の身分から解放されましたが、
それまでの戦いに生き残ることができた剣闘士は僅かでした。

[5:奴隷貿易の先駆者、イスラム教徒]

イスラム教では奴隷の存在を認めていたので、アラビアの奴隷商人達はアフリカにおける部族間抗争により
捕虜にされた者や、奴隷捕獲人により捕らえられたアフリカ先住民を奴隷として売買するなど、
アフリカ大陸における奴隷貿易の初期の時代から、黒人奴隷や白人奴隷の売買に従事しました。
過去千四百年の間に、二千八百万人のアフリカ人がイスラム教徒により奴隷にされたといわれますが、
サハラ砂漠を越えてアフリカ北部の地中海沿岸へ、また紅海、インド洋を横断する
イスラム教徒によって広くおこなわれた奴隷貿易は、
殆ど西洋の歴史家の注意を引きませんでした。

左の絵はアラビア人の奴隷捕獲人により捕らえられ、
二本の木で作られた「首カセ」をはめられて移動中の奴隷達です。
奴隷についてはアフリカの黒人に限らず白人も奴隷にされましたが、
トルコ人、スラブ人、ギリシャ人、クルド人、
バルト諸国人などの白人も奴隷として売買され、その数は百万人に及ぶといわれました。
黒人奴隷は主にスーダン、エチオピア、ヌビアなどでしたが、これらの奴隷は奴隷商人の手を経て
バグダッド、ダマスカス、カイロ、コルドバ(スペイン南部、アンダルシア州の都市)などの大都市へ
運ばれ、奴隷市場で売却されましたが、
若い白人女性は黒人の二倍の高値で取引されたといわれています。



若い白人女性は黒人の二倍の高値



奴隷市場

[6:征服者による奴隷化、虐殺]

ヨーロッパで最初に奴隷貿易を手がけたのは、ポルトガル人でした。
喜望峰( 発見当時に付けられた名前は「嵐の岬」でしたが、
国王のジョアン二世により改名 )回りの航路の開拓に努力し、
国家を海外発展に導いた エンリケ( Henrique )航海王子(1394〜1460年)が、
1430年代にアフリカ西海岸に派遣した探検隊が、ボハード岬(現、モーリタニア)の海岸から、
十数人のアフリカの黒人を捕らえて帰国しました。
当時のポルトガルでは労働力が不足していたので、奴隷への関心が大いに高まり、
これを機にアフリカにおける奴隷狩りが始まりました。
ポルトガルへ連行された奴隷は1447年までに九百二十七人
十五世紀末までには二万〜三万人にも上りました。

スペインの支援を受けたコロンブスが新大陸(西インド諸島)を発見して帰国した際には、
六人のインディオを手土産として伴いましたが、スペインは以後積極的に海外へ進出し、
先住民であるインディオが住む西インド諸島や南米大陸の多くを自国の領土にしましたが、
そこで彼等がおこなったことは、インディオに対する虐待と虐殺でした。



黒人の奴隷

新大陸最大の銀山であるポトシ銀山(南米ボリビア南部)が1545年に発見されると、
スペイン人は先住民のインディオに対する強制労働により、銀の採掘をおこないました。
その結果、1545年から1660年までの115年間に、ヨーロッパの銀保有量の約三倍に当たる
一万六千トンの銀と、百八十五トンの金を産出して

スペインに運び込みましたが、ポトシ鉱山はスペイン帝国を支える宝の山になりました。
その繁栄を陰で支えたのは富士山よりも高い、標高四千百メートルの高地におけるインディオ達の悲惨な採掘労働で、
十七世紀末までに七百万人に及ぶインディオ人口の激減を招きました。
銀を掘り尽くしたポトシは、今では南米でも貧しい国ボリビアの中でも、最も貧しい都市になりました。

インディオに対する虐待はボリビアだけにとどまらず、
カリブ海にあるキューバや、ジャマイカ、ハイチなどの西インド諸島のインディオも、
虐殺と苛酷な奴隷労働、
それと白人がもたらした天然痘、チフスなどの伝染病により全滅しましたが、
その他の地域でもインディオの人口は激減しました。

スペインの伝道師 ラス・カサス(1474〜1566年)が、スペイン国王カルロス五世に宛てて1552年に送った
「インディアス(新大陸)の破壊についての簡潔な報告」
という有名な報告書がありますが、これは当時スペインと対立関係にあったオランダ、イギリス、フランスでも翻訳されて、
インディオに対するスペインの非人道的取り扱いや、残虐行為、虐殺を立証する為の政治的道具として使用されました。
それによると、

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*(引用開始)
スペインの征服者達はその地域に住むインディオの領主や貴族に出頭を命じた。
そして彼等が出頭すると捕らえて、彼等に荷担ぎ人足として五千〜六千のインディオを集めることを要求した。
やがて命令どおりインディオ達がやってくると、スペイン人達は全員を庭に閉じ込めた。
インディオ達は革で恥部を覆い隠しているだけの裸同然の姿で、おとなしい子羊のようにじっと屈(しゃが)んでいた。
監視役のスペイン人が武装して入り口に立つと、突然スペイン人達は各自手に剣を構えて子羊たちに
襲いかかり剣や槍で彼等を突き殺したが、この虐殺から逃げのびた者はひとりもいなかった。(中略)

コロンブスがエスパニョール島(スペインの島、現在の ハイチと、ドミニカ 共和国) と名付けた島について、
この島には三百万人のインディオが住んでいたが、コロンブスが来てから五十年後の1542年には、
生き残ったインディオは僅か二百人にすぎなかった

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*(引用終了)

と記されていました。

メキシコやペルーにおいてもスペイン人はインディオ(先住民)に対して残虐の限りを尽くし、
アステカ や インカ の黄金を奪いましたが、
悪名高い エルナン・コルテス や フランシスコ・ピサロ などの
コンキスタドール
、( Conquistador 、
征服者)や植民地経営者により、多くの インデオ が犠牲になりました。

[7:新世界が奴隷を必要とした理由]

その理由は前述した インディオ に対する圧政が人口激減を招き、
植民地経営に必要な農業労働者が不足した為でした。
どの程度減少したかといえば、コロンブスが西インド諸島に到達した1492年当時、
メキシコ、中米、南米大陸、カリブ海地域に住む インディオ の推定人口は、四千万人でした。
ところが、メキシコの アステカ王国が1521年に滅亡し、インカ帝国が完全に滅亡した1570年頃になると、
前述の理由から人口は一千万人に激減してしまいました

十六世紀以後、アメリカ大陸や西インド諸島などへのヨーロッパ人の移住が始まると、スペイン や ポルトガル は
新大陸やカリブ海の島々で不足した労働力を補うために、
アフリカ西海岸から黒人を奴隷として連れて来ることを計画
しましたが、
それが奴隷貿易( Slave Trade )の始まりでした。
ヨーロッパからの移住者がこの新しい世界でタバコ、綿花、コーヒー、カカオ(ココア)を栽培しましたが、
コーヒーや、ココアを美味しく飲む為に必要な砂糖キビの栽培も始まりました。
当時のヨーロッパ社会では砂糖は白い黄金と呼ばれるほどの貴重品でしたが、
西インド諸島や新大陸で砂糖キビのプランテーション(作付け農場)を拡大するにつれて、
労働力の需要は急速に増大し奴隷の需要が更に高まりました。

奴隷貿易は当時世界一の海軍力を持つスペインが積極的におこない、
その後フランス、オランダ、イギリスが続きました。
しかし十八世紀以後になるとイギリスが最大の奴隷貿易国になりました。
イギリスは1673年に王立アフリカ会社を設立し奴隷貿易を始めましたが、
その年から十年間に八万九千人の奴隷を輸送しました。
十八世紀になるとロンドン、ブリストル、リバプールの三つが奴隷船の母港となり、
最盛期の1730年代には八十四隻の奴隷船が出航し、
一年間に二十五万人の奴隷を北アメリカに運びました。

[8:奴隷の三角貿易]

西アフリカにはその当時、黒人の王国であった ダホメー王国や、ベニン王国が存在していましたが、
その王国は奴隷貿易でボロ儲けをしました。 黒人が黒人の奴隷狩りをしては捕らえた奴隷をヨーロッパの奴隷商人に売り、
その代金で西洋人から鉄砲を買い、それを使って次々と他の部族を攻撃しては捕虜にして、
奴隷として売り飛ばし、あるいは部落を襲い住民を拉致して奴隷商人に売り渡す行為を繰り返しました。

奴隷貿易はいわゆる三角貿易でイギリスの奴隷商人は、
酒類、銃、綿製品、粗悪な装身具
などを積んでイギリスの港を出港し、
アフリカの奴隷海岸( Slave Coast )
へ向かいました。
奴隷海岸とはアフリカ西部にある ギニア( Guinea )湾のうち、
ボルタ川河口からニジェール川河口に至る北岸一帯をいい、
ここは十六世紀から十九世紀にかけて奴隷貿易の中心地でした。
ここで積荷を奴隷と交換した後に、今度は奴隷を乗せて一路、西インド諸島や新大陸に向かい、
イギリスの植民地や更に広大で裕福なスペインの植民地へ奴隷を供給しました。
積んできた奴隷と新世界(植民地)の産物との交易により
砂糖、綿花、タバコ、コーヒー、ココア などを手に入れ、それらの商品を積んで、
西ヨーロッパの母港にもどるという形をとったため、三角貿易と呼ばれました。

十七世紀にはスペイン・ポルトガルの国力が衰え、それに代わって、
イギリスとフランスが西インド諸島に植民地を築き、
十八世紀からはイギリスが、海上覇権をオランダから奪い、イギリスの主導のもとで大西洋間の奴隷貿易は頂点を迎えました。
特にイギリスでは リバプールの造船業が奴隷船の建造によって急速に成長し、
マンチェスターの綿業も奴隷と交換するための綿製品の製造により発展しましたが、
それで得た資金により産業革命をおこないました。
さらにアメリカも奴隷労働により綿花、砂糖キビ、
小麦などの農業生産を拡大し、世界に輸出するようになりました。

奴隷貿易によってどれほど多くの黒人が奴隷にされて、新大陸などに送られたのでしょうか?。
デュ・ボイスが編纂した「アフリカ百科事典」によれば、その数は

十六世紀には、九十万人。

十七世紀には、二百七十五万人。

十八世紀には、七百万人でした。

このうなぎのぼりの数字は、スペイン、ポルトガルに代わって、
イギリス、フランスが西インド諸島や北米南部で本格的な植民地経営に乗り出した時期と一致します。
この数字にそれ以前の奴隷の数を加えると、千五百万人になりますが、この数字は新大陸に
生きたままで到着した黒人奴隷の数
であり、
後述する航海中に死亡したり、海に投げ込まれたりした奴隷の数も加えなければなりません。
再度「アフリカ百科事典」を引用しますと、

一人の黒人奴隷を新大陸に生きたまま運ぶまでに、五人が途中で死んだ。
とありました。死亡率にすると八十パーセントという恐るべき数字であり、
これから逆算すると三百年間に七千五百万人のアフリカ人が自由を奪われ、
その内の六千万人が途中で死亡したことになります。
生きたまま新大陸にたどりついた奴隷たちの労働期間はふつう六〜七年で、
あとは使いものにならなくなり、アフリカから来たばかりの新たな奴隷を仕入れました。
その後の奴隷の運命は悲惨なものでした。
上の絵は奴隷船に積み込む際の様子ですが、船内での反乱を防ぐ為に
奴隷を二人組にして、足を鎖でつなぐ作業をしていました。

[9:ブランド]

この言葉を聞けば ルイ・ヴィトン、グッチ、プラダ、アルマーニ などのいわゆるブランド( Brand )ものを連想しますが、
英語の辞書を引いてみて下さい。古期英語で「炎、火」の意味から、家畜などに押す焼き印の意味もあります。

アフリカの奥地から奴隷捕獲人によって捕獲され、前述の奴隷海岸と呼ばれた奴隷積み出し地域に集められた黒人達は
、船便を待つ間に積荷として奴隷貯蔵庫に押し込められましたが、
その際に所有権を示す為に背中や肩、腹などに焼き印を押されました
写真の左側は焼き印用の コテ(焼きごて)ですが、これを火で高温に熱して彼等の肌に「焼き印」を押しましたが、
人間に対してこのようなひどいことを、よくも平気でできたものです。

アフリカからの奴隷貿易は十九世紀まで続きましたが、イギリスで奴隷貿易禁止令が出たのが1808年、
イギリスでの奴隷制度の廃止は1830年代、アメリカ合衆国では1863年、ブラジルでは1888年でした。 
奴隷貿易にはヨーロッパのいわゆる文明国のほとんどが手を染めていましたが、
そのほとんどがキリスト教徒であり、神に敬虔な祈りを捧げながら、
その一方で非人間的行為を繰り返していました

これを読む人の中にキリスト教の信者がもしいたら、その感想をぜひ聞きたいものです。

[10:奴隷船

奴隷達を運んだのは奴隷船でしたが、これらの奴隷船( Slave Ship )はせいぜい二百〜三百トンの小型船で、
奴隷は家畜同様に、身動きもできない「すし詰め」状態に積み込まれ、反乱や自殺を防ぐ為に船内でも鎖でつながれていました。
食物も飲み水も不足し衛生状態も劣悪な為に、伝染病、脱水、自殺、虐殺などにより、数多くの奴隷が航海中に死亡し、
あるいは海に投げ込まれて殺害されたといわれています。
以下はあるイギリス人が1829年に奴隷船上で見た状況の報告です。

この貨物船は、五百五人の男女の奴隷を乗せていた。乗組員達は 十七日間の航海中に、
そのうちの五十五人を海中に投げ込み、残りは上甲板と中間板の間で、格子付きの昇降口の下に閉じ込められていた。
彼らはお互いの両脚の間に座っていて、夜も昼も手足を伸ばすこともできないほど、詰め込まれていたが、
それでもこの船は奴隷船としてはましな方だと思われた。
奴隷船では普通は(天井の)高さが一メートル足らずの場所に、
場合によってはその半分しかない所に押し込められていた。
奴隷の足と首に鎖が付けてあることもしばしばあった。

[11:奴隷船を巡る裁判]

イギリス人船長のルーク・コリンウッドが指揮を取り十七人の船員で運航され、
四百四十人の奴隷を積んだ奴隷船 ゾング 号は、1781年9月6日、
西アフリカのサント−メ島からジャマイカに向けて出航しましたが、
乗組員が通常の方法(超過密状態)で奴隷たちを船に搭載した結果、衛生状態の悪化から病気になり、
それと共に栄養不良から11月29日までに、六十名の奴隷が航海中に死亡しました。
「英国における黒人奴隷」という本の記述を引用しますと、
棺桶よりも狭いスペースに 二人の奴隷が左足と相手の右足を、左手と相手の右手を鎖で繋がれた状態でいた。
1781年11月29日に船長のルーク・コリンウッドは、乗組員と残りの積荷である奴隷を飲料水不足から守る為と称して、
病気の奴隷を全て海中に投棄することを決心しました。
彼は乗組員を集めてこう説明しました。

船の安全を守る為に生きている奴隷を海中に投棄すれば、
海上保険業者が保険金を支払い損害を補償してくれるが、船上で奴隷達が病死をすれば、
乗組員の責任になり保険金は支払われない。
しかし暴動に加わった奴隷が殺されるか鎮圧のために海に投げ込まれた場合には、
保険業者は(船主に)保険金を支払わなければならない

いずれにしても病気の奴隷を、全員海に投げ込むことにする。

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*

注:)
当時のヨーロッパの法律によれば、保険業者は奴隷の喪失、捕獲、死亡、あるいは不可避な事故に対しては保険金を支払いましたが、
病気による自然死は常に予想されるものであり、従って保険金は支払われませんでした
自然死は病死だけでなく、しばしば起こることですが、監禁状態にある奴隷が絶望のあまり自殺した場合にも、
自然死とみなされ保険金は支払われませんでした。

この船はジェームス・グレグソンと、英国の港町、リバプールにいる多数の奴隷商人との共有財産でしたが、
船長のコリンウッドは劣悪な環境から病気になった奴隷たちを病死(自然死)にはさせずに、
水不足を理由にして生きたままで海中に投棄することにより、
保険金の支払いを受けて、彼と船主達の利益を最大限に守ることを決心しました。

そこで彼は11月29日に五十四人、12月1日に四十二人、その後三十六人と、
三日間で合計、百三十二名の奴隷を生きたまま海に投げ込みました

投げ込む為に最後に残った十名の奴隷たちは死刑執行人の手を無視して、自らの勇気を持って海へ飛び込みました。
ところでサメの多い海域では船から奴隷の投げ込みが始まると、餌を求めるサメが集まってきて、
船のまわりを泳ぎまわっていたとのことでしたが、
奴隷たちの運命は溺死するのが先か、サメに喰われるのが先か、のいずれかでした。

1783年には ゾング 号に関する裁判が イギリス本国で開かれましたが、そこで審理の対象になったことは
百三十二名の奴隷を、生きたまま海に投げ込んだ殺人行為に関してではなく
奴隷を失ったことによる経済的損失を保険業者と船主側との間で、どちらが負担するかということでした。
当時の帆船では風が弱いと船が進まずに、しかも積荷の馬が貴重な水を大量に消費するので、
やむなく馬を海中に投棄する場合がありましたが、
裁判長は積荷である奴隷は馬と同じであると判断して、
保険業者に対して保険金の支払いを命じました。

皆さんはアメイジング・グレイス( Amazing Grace )という歌をご存知ですか?。
音楽に趣味がない私でも聞いたことのある良い曲ですが、実はこれは賛美歌(第2編167番)なのだそうです。

聞きたい人はここをクリック

この作詞者のジョン・ニュートンは18世紀にイギリスで奴隷商人をしていた男でした
彼は荒くれ者であり、奴隷に対しても冷酷な男でした。
しかしある日奴隷船に乗り大きな嵐に遭遇し、死に直面したとき、初めて「神様、助けてください。」と叫びました。
幸い命は助かりましたが、その後に彼が七才のときに亡くなった母が残してくれた聖書を読みはじめ、
自分が犯した多くの罪を悔い改めてクリスチャンになり、後に牧師になりました。

ところで学生時代に航海科の授業で、 ホース・ラチチュード( Horse Latitude、馬の緯度 )
という言葉を習った記憶がありました。
大航海時代に、南北の緯度二十度から三十度にかけて横たわる
中緯度高圧帯の凪ぎ(ナギ、無風状態)の中で帆船がいっこうに進まず、
しかも積み込んだ馬が毎日水を三十リットルも必要とするため、やむなく馬を海中に投棄したことから、
この緯度を馬の緯度とも呼ぶようになりましたが、その当時の「経緯」を今に伝えたものでした。
更に付け加えると、無風地帯から脱出するために船から手漕ぎのボートを下ろして漕ぎ、
帆船をボートで曳航することもありました。

参考までに冬など成田空港からグアムに向けて離陸すると、
関東周辺の海は北西の季節風により一面に白波が立っていても、
一時間十分ほど南下して小笠原列島の父島(北緯27.1度、東経142.3度)、母島付近まで来ると海面が平穏になり、
火山列島(南北硫黄島)や、マリアナ諸島の最北端にある
ファラロン・デ・パハロス( Farallon de Pajaros 、日本名ウラカス)島(北緯20.5度、東経144.9度)に近づくと
無風状態となり、鏡の如き海面を機上から見ることができました。

[13:異教徒の虐殺は正義なり。虐殺と奴隷化の容認]

一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教などはいずれも排他的、独善的宗教であり、
たとえばイスラム教では毎日五回の祈りの際には、「アラー(アッラー)は偉大なり、アラー(アッラー)の他に神なし」と唱えています。
そして右手には剣、左手にはコーラン(聖書)といわれるように、
いざとなれば異教を信じる異教徒や、正統な信仰から外れた異端者は殺すのが当然のこととされました。

十字軍の創始者であるローマ教皇のウルバヌス二世(1042頃〜1099年)は、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であるエルサレムから、異教徒を根絶やしにすることが、
神の意志にかなうことであり、その為の戦いを聖なる戦いとして聖戦と称しました。
神の代理人であるローマ教皇の命令は絶対であり、
異教徒、異民族は殺すべしとされましたが、そうすることが神の御心(みこころ)に沿うこととされました。

その結果十字軍により神の敵であるユダヤ人に対する虐殺、シナゴーグ(ユダヤ教の宗教施設)の破壊がおこなわれ、
何千人ものユダヤ人が殺されました。
特に1099年のエルサレム攻略では、七万人の異教徒が虐殺されましたが、
この思想は彼が初めて述べたものではなく、旧約聖書の時代からありました。

キリスト教徒だけでなく、ユダヤ教徒も同じでした。試しに旧約聖書のヨシュア記、第八章〜第十三章を読んでごらんなさい。
神と十戒を契約したモーセ(モーゼ)の後継者でユダヤ人の指導者 ヨシュアとその軍勢が
異教徒を如何に虐殺したかが詳細に記されていました。
( 8章−25節 )には男女あわせて一万二千人を殺したと書いてありました。
「大人も子供も老人も一人残さず殺した」、「すべての人を撃ちほろぼした」、
( 10章−40節 )には一人も残さず、すべて息のあるものは、ことごとく滅ぼした、
( 11章−11節 )には彼等はつるぎをもって、その中のすべての人を撃ち、ことごとくそれを滅ぼし、
息のあるものは、ひとりも残さなかった、などなど、殺すということがこれでもか、
これでもかと、繰り返して出てきます。
彼等が滅ぼした都市、国家は、エリコ、アイ、エルサレム、ヘブロン、ヤルムテ、ラキシ、エグロン、ゲザル、デビル、
などなど合計二十以上の町や都市に及び、その王を殺し、
住民を一人残らず殺しにしましたが、ヨシュア記は神の「しもべ」に手向かう者を皆殺しにした記録でした。

キリスト教徒が西インド諸島や新大陸(南米)のメキシコ、ペルーにおいても先住民のインディオに対して虐殺に次ぐ虐殺をしましたが、
それが神の命令に従うことであり、宗教の名の下に虐殺を行うことに、良心が痛むはずがありませんでした
オーム真理教の教祖浅原に帰依した信者と同じで、敬虔な信者であればあるほど、
異教徒をポア(殺す)することに何の後ろめたさを感じなかったからです。

キリスト教徒にとって異教徒を大量虐殺することも、奴隷にして売買することも神の意志に叶った正当な行為とみなされました。
十五世紀から十七世紀前半にかけて、ポルトガル、スペインなどのヨーロッパ諸国が、
航海、探検により海外進出をおこなった大航海時代には、航海者や宣教師からローマ教皇宛てに、

「異教徒は人間でありましょうか?。」
との問い合わせが頻繁に寄せられましたが、その答えは、
「人間ではないので、殺すも奴隷にするのも自由である」
と答えていました。汝、殺すなかれ という新約聖書の
マタイによる福音書
、「 19章−18節 」の戒律は、キリスト教徒に対してだけ適用されました。
つまりキリスト教は布教の際には隣人への博愛を説きながら、その一方でキリスト教の神を信じない異教徒はもはや人間ではなく、
それらに対する虐殺に次ぐ虐殺を二千年以上前から続けてきましたが、それが キリスト教の本質でした。

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[14:アメリカの奴隷市場]

ハリエット・ストウ夫人(1811〜1896年)が書いた名作、「アンクル・トムの小屋」及び「アンクル・トムの小屋への鍵、
A key to Uncle Tom's Cabin 」
がありますが、以下の文章は後者の中に収められている一節です。
奴隷売買の実態を目撃した人の気持ち、売られる人(奴隷)の気持ちが伝わってきます。
当時奴隷は動産として取り扱われたので、所有者の意志によって、勝手に売買されました。
そのため南部の大きな町には必ず奴隷市場( Slave Market )があり、
夫婦や親子、兄弟姉妹が、事前の予告もなしに突然 バラバラに売られました。
黒人奴隷たちにとって、家族はいつも崩壊の危機に直面していたのでした。
*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*(引用開始)

少年が セリ(競売)に掛けられた時、母親が叫び声を上げながら建物から走り出してきた。
彼女は悲しみで気も狂わんばかりだった。
「私の息子なのよ。お願いだから、連れていかないで−−−。」
そこで母親の声は聞こえなくなった。
乱暴に引き戻され、ドアが閉められたからだった。
この間も奴隷の売買は少しも中断することなく続けられ、
集まった人々はこのような場面を当たり前だと思っているようだった。
哀れな少年は、自分になんら同情や哀れみの気持ちを持たない大勢の人の前で、
声を上げて泣いても無駄だと思ったのだろうか、震えながら頬に伝わる泪を服の袖で拭いていた。
この子は 二百五十ドル ほどで売られていった。

「セり」の進行中、広場は叫び声や嘆き悲しむ声に包まれ、私の心は痛んだ。
次に一人の女の名が呼ばれた。
彼女は幼児を老女に託す前にぎゅっと抱き締めると
、機械的な足取りで進んだ。
だが立ち止まると両腕を高く差し上げ、悲鳴をあげたかと思うと、そのまま動けなくなってしまった。
連れの一人が、私の肩をたたいて言った。
「もう、行こう。これ以上耐えられない。」

私たちはその場を離れた。ピーターズバーグから馬車に乗ったが、
黒人の御者(ぎょしゃ)には農場で働く小さな息子が二人いるそうだ。
その子達は売らない、と農場主が約束してくれたという。
子供はその二人だけかと、聞いてみた。
「八人いましたが、今は二人だけです」、
「三人は南部に売られ、彼らの消息はこれからも一切分からないだろう」
と、
御者はつぶやいた。

*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*−*(引用終了)

植民地における農場主達は奴隷の労働力を生産に利用するだけでなく、
あたかも家畜を繁殖させて売るように、奴隷の夫婦が産み育てた多くの子供達や、
時には夫や妻までも別々に売り払い、金儲けをしていましたが、
これが僅か一世紀半前の、アメリカ社会の姿でした

この絵の奴隷夫婦もセリ(競売)に掛けられていますが、もし別々の買い主に買われたならば、
その瞬間に夫婦が引き裂かれることになります。

アメリカでは五十年前まで、米国の憲法で保障された自由と平等は、白人についてのみ適用され、
奴隷の子孫であった黒人に対しては認められませんでした。
黒人指導者のマーチン・ルーサー・キング牧師(1968年に暗殺)による、仕事と自由、そして公民権を獲得する為に、
二十五万人が参加したワシントン大行進などの黒人による大衆行動の結果、
昭和39年(1964年)に初めて公民権法が成立し、公共の場所や公立学校における人種差別は
一応法律で禁止されましたが、1992年に死者五十四人、負傷者二千三百八十三人を出したロサンゼルスの大暴動や、
フランスにおける昨年の人種暴動に象徴される様に、アメリカやヨーロッパの社会には現在も白人による、
人種差別、偏見が厳然として存在していますし、
有色人種である日本人も差別対象の例外ではありません

欧米のキリスト教国は三百年続いた奴隷貿易により大いに儲けましたが、奴隷貿易の根底にあったものは
白人以外の人種に対する蔑視、人間性の否定でした。 ーーーーーーーーーーーーーー
の意見
だいぶ同じ意見が並んでしまい申し訳ない。

諸兄 今までの話は遠い過去の話として考えておられぬか?


違います。現実の話です。
例えば ソ連は 日本が敗戦必死となったたった1週間前に参戦し
数十万の日本兵士を拉致し シベリアの極地で強制労働をさせた。
かの地で栄養失調 餓死 病死 虐待死をされた方は 何人おられるか?

その意向を受けた北朝鮮の金日成は朝鮮戦争において 韓国軍兵士 連合軍兵士を拉致し、虐待 殺したのです。
これは まぎれも無く人権無視 ジュネーブ協定違反である。

なお そのせがれの金正日は今も日本人 朝鮮人 外国人を拉致し、虐待をして返さないでいる。
地上の楽園、北朝鮮への帰国などと騙した北送事業なども
巧妙な金日成と朝鮮総連の大量拉致事件です。
参照
もちろん よこためぐみさんなども不当に拉致され 人権無視 虐待されています。
自国民でさえ 体制批判をすると収容所で奴隷以下の虐待をしている。
かっての奴隷商人より 悪質ではあるまいか?

従軍慰安婦問題などと屁理屈はやめよ。
少なくとも彼女らは自分の意思で高級を得て稼いだ軍人相手の売春婦である。
鎖で手足を縛られたり 栄養失調で餓死した者はいない。
日本を侮辱する1部の不逞な輩のため言葉である。

この事実を声を大きくして叫び 抗議して何が悪いか?
それを不快に思うのは北朝鮮とその代理店の朝鮮総連 その支持者である。

私は朝鮮総連関係者から恫喝されているが 負けはしない。
決して我が同胞が無事 解放され悪党どもが謝罪し日本から退去するまで主張を繰り返します。

これが私を産み 育み 生かしてくれた日本への恩返しであります。
もう人生は半分以上無事 過ごせました、不満はありません。
残りの時間は反朝鮮で戦うつもりです。



明智大五郎