<プラウダ批判>再考

西川研究会(06/04/25) 4年 関水和則

0.

1.スターリン体制と芸術活動

2.ソビエト社会と音楽家−<プラウダ批判>以前

3.<プラウダ批判>

4.ソビエト社会と音楽家−<プラウダ批判>以後

5.考察

6.今後の展望


0.発表者は前年度の研究会において、20世紀ロシアの作曲家ショスタコーヴィチShostakovich,Dmitry Dmitriyevich(1906-1975)の交響曲第4op.43(以下第4番とも表記)及び交響曲第5op.47(以下第5番とも表記)を卒業論文研究において扱うとした。

本発表では、交響曲第4番の作曲活動中に起こった<プラウダ批判>と当時のソビエト社会における芸術活動の歴史を検証し、研究作品に対して更に理解を深めることを目標としたい。


1.スターリン体制と芸術活動

「粛清」という言葉がある。

【粛清】〔名詞〕・・・厳しく取り締まって不正な者を排除すること。独裁政党などで、内部の反対派を追放すること。//岩波国語辞典第二版

1922年、スターリンが共産党書記長に就任し、事実上の「独裁体制」となってから1953年彼が没するまでの30年間、ソビエトでは政治、文学、芸術、様々な職業の人々が「反革命」のレッテルを貼られ不幸な運命を歩んだ。特に1930年代の後半、共産党中央委員会によって大量の人々が不当な裁判で「人民の敵」とされその大部分が処刑、投獄されたという悲劇的な歴史がある。世に言う「大粛清」の時代である。

「粛清」の理由は様々である。

スターリン率いる「全体主義」の社会において国民は政治文化あらゆる領域において党が定める思想に賛同する必要があった。異を唱える政治家、スターリンを告発しようと試みる過激な作家、芸術家は皆当局に補足され、上記の運命を辿った。

もっと単純な事例もある。時の権力者スターリンは、自らが出向いた音楽会や目にした文章ひとつにおいて、少しでも気に障ることがあれば即刻秘密警察を出動させ、「人民の敵」を葬りさることが可能であった。スターリンだけではなく、共産党幹部など同等の権力を持つ者も同様である。

この時代「粛清」を受けた人々の多くは革命意識を持った過激派ではなく、こうした他国からみればごくごく一般の市民だったのである。

こうした体制を一早く察した人々はソビエトを見限り早期に国外へと逃亡する。作曲家ではS・プロコフィエフやI・ストラヴィンスキーらを挙げることが出来る。

ショスタコーヴィチは自分の近辺の人間が次々に「粛清」を受けていた状況であったにも関わらず、決して自らの意思で国外へ行くことはなかった。今日では激動のソビエトを生き抜いた一人として、芸術界以外でもこの面が評価されている。


2.ソビエト社会と音楽家−<プラウダ批判>以前

・プロレタリア文化

・LASM・ASMの発足

・RAPMの発足と解体


革命以前、ロシアでは貧富の差が非常に大きかった。貴族階級の人々と労働者階級(プロレタリアート)の人々との生活差は革命と後の共産主義社会につながることとなる。

19世紀後半のロシアではこうしたプロレトリクトの人々によって芸術は邁進された。ゴーゴリィの小説や、ムソルグスキィのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》に見られるような帝政批判を例に挙げることが出来る。彼らはロシアの民謡や大衆歌などを作品に取り込み、「より民衆に近い芸術」を目指し、国民の大きな支持を得た。

革命で帝政が倒れ、共産主義が立ち上がると、自分達の個性を表に出した新しい芸術の創造活動に取り組むことができるようになる。多くの作曲家が西洋のアヴァンギャルドな精神を取り込み自国で新しい芸術を生み出すことに意欲を燃やしていた。1922年ザルツブルグにIGNM(国際現代音楽協会)が発足すると、それに呼応するように翌年1923年モスクワにASM(現代音楽協会)、24年首都レニングラードにLASM(レニングラード現代音楽協会)も発足する。この時アサフィエフは自分達の創作活動における技法や芸術論は民衆との間に差を作っていることを警鐘していた。また、同時に民衆に近い大衆歌や民謡などを単に作曲し、演奏するだけの行為も創作意識を堕落させるものだ、と発言している。このアサフィエフの発言はその後のソヴィエト音楽界の対立構図を早くも予想しているものであり、非常に興味深い。

アサフィエフが警告したとおり、当時の労働者達にはオペラや交響曲の価値を評価することはできなかった。こうした民衆と音楽家の格差を埋めるために発足したのがRAPM(ロシア・プロレタリア音楽同盟)であった。RAPMはその多くがアマチュアの音楽家から構成された組織であり、ASMが芸術音楽によって民衆の「上から」新しい音楽を目指すのに対し、RAPMは「下から」の活動を基本とする団体であった。

こうした音楽活動は過去のロシア音楽界の伝統を踏襲し、尚且つ「プロレタリアと連帯した最初の音楽活動」であるとして、民衆から絶大な支持を浴びた。

しかし多くの団員がアマチュアからなっているこの組織に確固たる芸術理念や目標などは存在しなかった。次第に党の方向性は、「西洋に毒されたブルジョア派の音楽家は一切認めない」「労働者と活発に議論を重ねたうえで得られるものから音楽の基本理論を作り上げるべきだ」などの「排他的」な集団と化していく。(カバレフスキィの様な音楽家も所属していたが、彼らは党内で「ブルジョワ」と呼ばれる作曲家からの教示も得ていた。)

RPAMは1930年代に入ると「敵か見方か」という過激なスローガンを掲げショスタコーヴィチやプロコフィエフなどの作曲家を「敵のイデオロギーを持つ作曲家グループ」とし糾弾し始めた。

多くの芸術家はRAPMを相手にしなかったが彼らにとって不幸だったのは、党がその活動を指示していたという事実である。党と民衆の支持を得て活気を増したRAPMに悲観し、祖国を後にした作曲家は多い。

しかし1932年、スターリンの指示によってすべての文化組織が解散させられ、RAPMもその中に含まれていたのである。文化的管理はすべて党が行うことになった。こうして発足した作曲家同盟の大部分は元来党の政策に忠実な凡庸な作曲家、つまりは元RAPMの会員で構成されていたのである。

RAPMの解体から5年以上が経ち、ソビエト音楽のモダニズムに対する高まりが頂点に達した際、<プラウダ批判>は起こった。


3.<プラウダ批判>

1936128日、(ショスタコーヴィチが交響曲第4番の作曲活動に邁進している最中、)共産党中央委員会機関紙『プラウダ』の社説において、次のような文章が発表された。


「(前略)...歌劇においてはことさら調子はずれの、訳のわからぬ音の流れが、最初の瞬間から聴衆を茫然自失せしめる。旋律の断片、楽句の萌芽は、轟きや、軋りや、金切声の中に沈み、とび出し、また消えていく。この『音楽』についていくことは困難でありそれを記憶することは不可能である。

ほとんど歌劇全体にわたってそうである。舞台の上では歌は叫び声によっておきかえられている。作曲家がたまたま平明な、そして解かり易い旋律の小道に踏み込んだと思うと、彼は、まるでこのような厄災に愕然としたかのように、ただちに音楽的荒唐無稽の密林の中へ逃げこみ、この荒唐無稽は時には音調不具(カコフオニヤ)に転化する。聴衆の要求する表現の豊かさは気違いじみたリズムによておきかえられている。音楽的騒音が情熱を表現すべきであるというわけである。

これらすべてのことは作曲家の非才からくるのではない。彼が音楽によって平明で力強い感情を表現する能力を持っていないことから来るのではない。これは古典的な歌劇音楽の何物をも思い起させないように、故意に『アベコベ』に作られた音楽である。この音楽は極左的芸術が一般に演劇において平明さ、リアリズム、形象の解りやすさ、言葉の自然な響きを否定すると同じような、歌劇否定の原則の上に構成されたものである。...(中略)

ソヴェト音楽におけるこのような傾向の危険性は明瞭である。歌劇における極左的畸形は絵画、詩、文学、教育学、科学における極左的畸形と同じ源から育つものである。小ブルジョア的『革新』は真の芸術、真の科学、真の文学からの分離へと導くのである。

『ムツェンスクのマクベス夫人』の作者は自己の主人公に『情熱』を附与するために、ジャズからその気違いじみた、痙攣的な、発作的な音楽を借用しなければならなかった。

...(中略)わが国の批評家たち−音楽批評家をも含んで−が社会主義リアリズムの何かけて誓いを立てている時、舞台はわれわれの前にショスタコーヴィチの創造の中で粗野きわまりなき自然主義を提供しているのである...(中略)

そしてそれらすべてが粗野で原始的で、卑俗である...(中略)。できるだけ自然に近くラヴシーンを現すために音楽は喉をならし、吐息をつき、息をはずませ、喘いでいる。そして『恋愛』は歌劇全体にわたって最も卑俗な形で塗りたくられている。...(中略)

恐らく作曲家はソヴェトの聴衆が音楽から何を期待し、何を求めているかということに耳を傾けようとしなかったのであろう。彼の音楽が健康な趣味を失った『唯美主義者・形式主義者』にだけ理解されるように、彼は自己の音楽を故意に暗号化し、その中のすべての音楽を目茶苦茶にしたかのようである。」*1


また同年26日には”バレエのうそ”という題目で作曲家のバレエ音楽、《明るい小川》op.39に対する批判が行われた。


当時はまさに「大粛清」が始まろうとする時代であった。これはショスタコーヴィチ以外の作曲家にとっても、衝撃的な事件であった。

<プラウダ批判>とはこうした一連の批判活動を指す。


4.ソビエト社会と音楽家−<プラウダ批判>以後


<プラウダ批判>後、危険を顧みず自らの意志を貫き続けた正直な人々はどうなったか。上記の通りである。劇場経営者のメイエルホルドを始めとする人々である。

多くの才能ある音楽家はこの時期に海外へ逃亡した。そして残る人々は作曲家同盟の定める「社会主義リアリズム」に乗っ取った作曲を余儀なくされた。時には自らの保身のために同僚の前衛音楽(的要素)に対してバッシングを行った。非難を受けた作曲家は「自己批判」の名目で自らの過ちを認め後の作曲活動では注意を払わねばならなかった。

こうした環境下で新しい音楽理論や作曲様式の誕生・発展を待つことはできたであろうか。1953年、「雪解け」と言われる年まで表面的なロシア音楽の進化は止まっていたといっても過言ではないだろう。

1953年、フレンニコフによって厳しい規制を緩和する「雪解け」が始まると、A・シュニトケやA・ハチャトゥリャンを始めとした人々が次々に新しい音楽の在り方について議論を始めた。(この時ショスタコーヴィチは47歳。交響曲第10番から、新たな創作活動の時期へと入っていくのである。)


5.考察−<プラウダ批判>再考


交響曲第4番・第5番と<プラウダ批判>については現在以下のような考察が主流となっている。


@ ショスタコーヴィチは交響曲第4番を<プラウダ批判>による一連の批判から、「粛清」を恐れ初演を撤回した。

A ショスタコーヴィチは交響曲第5番を「粛清」を逃れるために作曲した。

B @、Aよりショスタコーヴィチの作曲様式は第4番と第5番の間で激変する。第4番は前衛的な手法をためらわず使用した作品だが、第5番はより民衆に分かりやすい内容になっており、技術的には「後退」している(後退させた)。いわば交響曲第4番は玄人向け、第5番は素人向けという評価がなされている。


まず発表者は@に対しては以下のような観点から否定的である。

<プラウダ批判>を受けて交響曲第4番の初演を退けた、というのは有名な定説ではあるが、作曲家は1936426日にこの曲を完成させ、初演のリハーサルまで行っている。しかも、このリハーサルは同年の1210日、なんと初演予定日の前日まで行われているのである。

身に迫る危険を感じながらの準備期間としては些か長すぎる期間ではないだろうか。第5番はこの撤回からわずか4ヶ月後の1937418日に着手され、3ヶ月で完成している。

定説として言われている<プラウダ批判>を受けた際の作曲家の反応と不自然に長い期間は奇妙な食い違いが存在する。即ち、『プラウダ』紙の指摘を受けた際に上記の様な反応があったのであれば、その時点で第4番は破棄すればよい。そうでなくとも、リハーサルを行う必要までは感じない。

(図ー1)をご覧にいただければお分かりの通り、<プラウダ>批判の始まる1936年の1月〜12月までに身辺の人間が逮捕されたりした経緯はない。ソビエト音楽史とショスタコーヴィチにおいて、<プラウダ批判>は一つの転換点として捉えられているがこの批判と、世に言う「大粛清」との間には僅かではあるが若干のタイムラグが存在する。

また労働者階級の世論やプロレタリア楽派からショスタコーヴィチらの作品が完全に受容されていないという状況は<プラウダ批判>に始まったことではない。前述の通りRAPMが積極的に活動を続けている時代より、ショスタコーヴィチやプロコフィエフなどの前衛的作曲家はこうした攻撃を既に受け続けてきたのである。

多くの文献でもショスタコーヴィチが<プラウダ批判>を受けた後の衝撃については何の猜疑もなく肯定している。しかし、『プラウダ』の文章を注意深く読むと、その批判の対象はショスタコーヴィチ個人に向けたものではなく、同時代のソビエト音楽界の傾向に対しての警告のように受け取ることが出来るのではないだろうか。(今回参照したプラウダは1952年に井上頼豊氏によって邦訳された者である。それ以降の邦訳主に『証言』以後のものに関しては、「これらすべてのことは作曲家の非才からくるのではない。」という文脈がすっぽり抜け落ちているものがほとんどである。つまり《プラウダ》によってあたかもショスタコーヴィチ一人が攻撃されているような観点から翻訳されている。)

こうした一連の批判活動から第4番を撤回する理由は見当たらないにも関わらず、ショスタコーヴィチは第4番の初演を撤回する。こうした考察を考えると、ショスタコーヴィチや後に第4番を初演するコンドラシンの「当時の指揮者シュティードリーが音楽を理解しなかったため、逆に大衆に悪影響を与えかねなかった」「楽曲がフィナーレに進むと楽団員はあからさまに交響曲に対して嫌悪を感を示した」などの「リハーサル失敗説」が信憑性を帯びてくる。民衆だけでなく楽団員や指揮者らのプロフェッショナルの人々と自分の間にも、大きな音楽的な溝を作ってしまったことを作曲家は自覚したのではないだろうか。


Aの交響曲第5番と「粛清」の関連性に関してはある程度の裏づけは既になされている。

一般に、<プラウダ批判>を受けたショスタコーヴィチは公的に「人民の敵」とされ討論会だけでなく市民からも蔑まれたと言われている。こうした世論を交響曲第5番の演奏によって一転させ、名誉回復に至ったという英雄的エピソードは有名である。

ソロモン・ヴォルコフの『証言』での「ショスタコーヴィチ」は大成功を収めた第5番について不満を述べている。第5番には「強制された歓喜」があり、それを手放しに賞賛する聴衆は愚かである、という過激な内容である。

また一方でローレル・E・ファーイの『ショスタコーヴィチ』では、こうした二重言語的エピソードではなく、家族や友人、そして自身の将来に対しての恐怖と戦った作曲活動と、その成功による勝利、安堵が描かれている。

(図ー1)をご覧頂きたい。<プラウダ批判>前後に作曲家と親密な関係にあったトゥハチェンスキィ元帥は1937年に捉えられ、翌年1月に処刑されている。まさに第5番作曲のさなかの出来事である。トゥハチェンスキィは<プラウダ批判>後もショスタコーヴィチを賞賛し続け、スターリンに対してショスタコーヴィチの地位を確保するための嘆願書も書いている。彼の逮捕は1937年の6月であり、第5番の構想に何らかの形で関わる可能性はあるといえるだろう。

しかしここでもひとつの奇妙な点が存在する。「何故交響曲なのか?」ということである。前述のようなプロレタリア的な観点に立てば、党や民衆から絶大な支持を得ることができるのは交響曲ではなく、革命をテーマにした大衆歌や民謡を用いた巨大なオラトリオのような作品ではないだろうか。(事実後年の<ジダーノフ批判>の際には作曲家はオラトリオ《森の歌》op.81による弁明を行っている。)

発表者による前回の考察でも述べたとおり、フォークロアからの引用は第4番から第5番の間で消えた技法のひとつである。結果的に第5番のもつ内的標題に感化され、圧倒的な賞賛をショスタコーヴィチは得たとはいえ、このような「博打」を打つ必要が本当にあったのだろうか?


前回の発表でも述べたとおり、ショスタコーヴィチの第4番と第5番は第一印象では全く異なる曲と捉えられるものの、内的な構造の一致や主題の共用など、多くの類似点を見ることが出来る。

Bで言われるほどの急激な変化は第4番と第5番の間には存在しない。



発表者は上記の3点に対する批判的考察から、ショスタコーヴィチの交響曲の第5番の作曲活動は、”時代を追うにつれて深まっていく民衆と自身の音楽とを埋めようとする、「実験的試み」の性質があったのではないか”と推測する。作曲家は、聴衆への受容と自身の音楽性の主張、という両面性をもった交響曲を強制的にではなく、自らの意思で行ったのではないだろうか。


6.今後の展望

<プラウダ批判>と当時のソビエト芸術に対する研究を行ったことにより、1936年のショスタコーヴィチの活動に対する「定説」に、批判を投じることに成功した。今後は当項目に関する更なる文献研究を行い、発表者の意見の補強としたい。


*1 井上頼豊『ソヴィエト音楽の三十年』pp31-32文中略は翻訳者による。

EX-1.第4番2楽章より)


EX-2.5番1楽章より)



EX-3.52楽章より)


( EX-4.53楽章より)


(EX-5.構造形式上の共通点)



EX-6.4番1楽章より)











参考文献.

総合研究

Fanning,David ed. Shostakovich Studies ,Cambridge University Press,1995

・伊東一郎他『ショスタコーヴィチ大研究』 春秋社 1994

・千葉潤『作曲家 人と作品シリーズ−ショスタコーヴィチ』 音楽之友社 2005

評伝

・ソロモン・ヴォルコフ編 『ショスタコーヴィチの証言』 水野忠雄訳 中央公論新社 1980

D・ソレルチンスキイ 『ショスタコーヴィチの生涯』 若林健吉訳 新潮代社 1984

・ローレル・E・ファーイ 『ショスタコーヴィチ−ある生涯』 藤岡啓介・佐々木千恵訳 アルファベータ

・ソーフィヤ・ヘーントヴァ 『驚くべきショスタコーヴィチ』 亀山郁夫訳 筑摩書房 1997年 

・ショスタコーヴィチ・ガリーナ、ショスタコーヴィチ、マクシム 語り アールドフ・ミハイル編 『わが父ショスタコーヴィチ−初めて語られる大作曲家の素顔』 カスチョールの会訳 田中泰子監修 音楽之友社 2003年 2002

ソヴィエト史研究

・伊東恵子『革命と音楽−ロシア・ソヴィエト音楽文化史』音楽之友社 2002年 

・井上頼豊『ソヴィエト音楽の三十年』 筑間書房 1952

・梅津紀雄『ロシア音楽再考の中のショスタコーヴィチ』『思想』第952pp107~121 岩波書店 2003

<プラウダ批判>研究

・安原雅人『1936年《プラウダ》批判とショスタコーヴィチ』『転換期の音楽−新世紀の音楽学フォーラム』pp326~332 音楽之友社 2002

辞典

・『ニューグローヴ世界音楽大辞典』 講談社 199395

Sadie,Stanly. ed. The New Grove Dictionary of Music and Musicians.29 vols.2nd ed. London:Macmillan,2001

楽譜出展.

"D.Shosrakovich collected works in forty two volume 2" 

"D.Shosrakovich collected works in forty two volume 3" 

ИздательствоМузыка,1982,Собрание,сочинений

『ショスタコーヴィチ交響曲第4番』 

『ショスタコーヴィチ交響曲第5番』 

全音楽譜出版 1991年 寺原伸夫解説



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