「邦楽ジャーナル」2002年3月号掲載

<続>異国見聞尺八余話 (10)

アメリカ恐いゾー

倉 橋 義 雄


三重奏団WYT(左よりウーマン、A・トス、筆者)シカゴにて

 あのテロ事件以後、ニューヨークでの犯罪発生件数が減った そうだけれど、相変わらず「アメリカは治安が悪いんでしょ?」 とか「ニューヨークは恐いの?」とか、よく聞かれる質問である。
 二十数年前、私が初めてアメリカへ行ったときは、確かに恐 くてビビってしまった。
 ロサンゼルスの下町を歩いていたら、ウィスキーのビンを振 り回して大声でわめいているオッサンに遭遇し、あわてて喫茶 店に逃げ込んだ。「あ、英語でわめいてる」と妙なことに感心 したりもしたけれど。
 初めてニューヨークの地下鉄に乗ったとき、駅のホームに怪 しいシミがあった。友人に「このシミ何?」と聞いたら、その 友人、何でもないような顔をして「血のあとだよ。昨夜ここで 1人殺されてね」・・・・。やがて入ってきたのが、いまは伝説と なった例の落書きだらけの凄い電車、おまけに車内灯が停電し ているという信じられないシロモノ。停車中は駅の光で車内も ボンヤリ明るかったけれど、動き出したら真の暗闇。その闇の 中で誰かがバタバタ走り回る足音や、ブルンブルンガチャーン という金属音、ギャーという悲鳴等々が聞こえて、恐ろしいの 何の、生きた心地がしなかったネー。やっとの思いで下車し、 地上に出てホッとしたら、人相の悪いのが寄ってきて「スモー ク、スモーク」とささやく。スモークだからタバコかなと思っ たら、マリファナだって。いやー恐ろしい。
 でも、アメリカって、本当に恐いの?
 確かに二十数年前のアメリカは、いまより治安は悪かったと 思うけれど、行く前から「恐いゾー」と思い込んでいたから、 必要以上にビビっていたのかもしれない。だから本当はどの程 度にブッソウだったのか、いまとなれば分からない。
 ニューヨーク日系人会の会長さんから「ニューヨークには悪 い人が多いから、気をつけてくださいヨー」と注意されたこと がある。そのとき気になったのは、そんなに簡単に「善人」と 「悪人」が区別できるものなのかな?ということ。『蜘蛛の糸』 のカンダタではないが、悪人にも良心はある。またその逆もあ るではないか。と思っていたら、最近になって、アメリカには本 当に「悪人」が存在していることを知った。
 ある夏の日、早朝まだ暗いとき、ニューヨークのブルックリ ンを散歩していたら、1人の若い男が、いきなり背後からドー ンとぶつかってきた。そして、よろめく私の前に立ちふさがり、 私をにらみつけて、こう言った。「オレは悪いぞ」。私は思わず 吹き出してしまった。自分で悪いと言っているのだから、こい つぁまちがいなく悪人だ。でもネー、何か変だよナー。「悪い の?」「そうだオレは悪いぞ」「カネ欲しいの?」「そうだカ ネ出せ」「カネないよ」「うーん」「タバコはあるよ」「タバ コは健康に悪い」「じゃ何もない」「うーん、では、良い一日 を。ハヴァナイスデイ!」
 シカゴで三重奏の演奏会を計画していたとき、そこに住む魅 力的な黒人の女性作曲家が、すすんで世話役を引き受けてくれ た。そして彼女の肝いりで、シカゴの下町にある立派なYMC Aホールが確保できたのは、ありがたい話だった。当日そこへ 行ってみたら、ステージ全体にまるで『キャッツ』みたいな見 事なセットが組んであったので、びっくり。聞くと、近所の子供 達が私達のために数日かけて作ってくれたという。こんなに嬉 しい話はなかった。演奏会の雰囲気は最高。近所の人達がひん ぱんに楽屋に出入りして、食物や飲物を差し入れてくれた。温 かい人ばかりだったので感動した。でも観客は少なくて、空席 が目立ったのは残念だった。
 1週間後、カナダの日本大使館を訪問したとき、ある書記官 にその話をしたら、その人あきれ顔で「そんな場所で演奏会を 開いたら、白人が聞きに行くわけがないですよ。日本人だって 行きません。シカゴでいちばん恐いところですよ」
 うーん、確かにあそこは黒人街だった。だからもし私が白人 だったら、恐いところだったかもしれないナー。でも私は白人 じゃないよ。アジア人だ。書記官だってアジア人じゃないの?
 でも書記官の言うことも分かるような気がした。なぜ?うー ん、知らず知らず、私も白人の目でものを見ていたのかな。白 人が恐がるから、私も恐がっていた ・・・・。黒人の目でものを見 たら、ひょっとしたら「善」と「悪」が、まったく逆さまにな って見えるかもしれないネー。

(第10話終)