「邦楽ジャーナル」2000年8月号掲載

異国見聞尺八余話 (11)

<尺八異人伝>
アレン・スタイアーの巻

倉 橋 義 雄

 まず上の写真を見ていただきたい。シカゴのギャングではな い。これがニューヨークの尺八吹きなのである。この人、スキ がない。キマっている。顔だけではなく、仕草から話し方まで、 とにかくキマりすぎていて、見ていると、ときどき腹が立つ。
 名はアレン・スタイアー。1941年、NY生まれ。
 マリーさんという美しい奥さんがいる。美しいはず、彼女は 舞台女優なのだ。ちなみに娘さんも、往年のナタリー・ウッド そっくり。ああ、アレンは恵まれすぎている。腹が立つ。
 マリーさんは、大の日本びいき、日本のことなら何でも興味 があって、自分のことを「マリコ」と呼ぶくらいの入れ込みよ うなのだ。だから、日本関係のイベントがあると聞くと、どこ にでも飛んで行く。
 アレンはと言うと、日本に興味があったわけではない。でも、 なにせマリコさんにベタボレだから、彼女の行くところ、どこ にでもくっついて行った。
 そして1990年春、ブルックリン植物園の「桜まつり」を 見に行ったのが、アレンの転機になった。
 そこで日本の尺八という楽器の音を初めて耳にしたのだ。N Yの演奏家ラニー・セルディン氏が吹いていた。と言っても、 クールなアレンは、驚きもせず感動もせず、「べつに何も・・・・」 という程度の印象だったというから、腹立たしい。しかし、美 しいマリコさんが大はしゃぎ、「尺八って、ワンダフル!」
 ふと、アレンは考えた。「もし、このオレが尺八を吹いたら、 きっとマリコは大喜びするだろう」・・・・不純な動機である。さ らに不純なことに、彼はこうも考えた。「あんなの、見るから に簡単そうな楽器だ。このオレなら、すぐマスターできる」
 その翌日、彼はラニーの弟子になった。まさに即決速攻、さ すがではあるが、実は、彼のこの決心には「裏」があった。
 彼の本職は音楽教師。専門はジャズ。長年にわたりNYの公 立中学校で、いろんな肌の色をした子供たちに、本物のジャズ を教えてきた。彼の授業風景をビデオで見たが、子供たちが徹 底的に本気で勉強していたので、びっくりした。日本の音楽教育 の現場とは、あまりにも違っていた。
 文句なし、彼は尊敬すべき音楽教師であり、同時に優れたジ ャズサックス奏者である。優秀な音楽教師として表彰されたり、 教え子の中から少なからぬプロのジャズ奏者を出していること も、うなずける話なのである。
 ところが、そんな彼に大きな不満があった。それは、音楽教 師としてがんばればがんばるほど、プロの音楽家としては有名 になれない、と言うことだった。定年が近づくにつれ「有名にな りたい」という単純明快な欲求が、やみがたく募ってきた。
 彼が尺八に目をつけた裏の理由は、そこにあった。ジャズの 素養を身につけた尺八奏者として売り出せば、きっと有名にな れるぞ・・・・いやはや、これまた不純きわまりない。
 そのとき、すでに49歳、日本なら何とかの手習いと陰口 たたかれそうな年齢だったが、そこはNY、20歳のベテラン もいれば60歳の新人も登場する町だから、年齢なんかおかま いなし、さっそく彼は尺八の猛練習を開始した。
 練習時間は、平日で最低5時間、休日は10時間、それでいて 本職のほうにも相当のエネルギーを注いできたのだから、恐れ 入る。10年後の今日もなお、休みない猛練習は続いている。そ れを応援しているマリコさんにも、恐れ入る。
 練習開始から1年後には、あの桜まつりにみずから出演し、 3年後には「六段」から「八重衣」まで古曲・本曲のレパート リーをすべて暗記し、5年後にはカセットとCDを制作した。
 本格的に取り組んでみて分かったことは、尺八が予想よりも はるかに難しい楽器であったことと、その音楽が予想よりもは るかに豊かで面白いものであったことだ、と彼は言う。もうす っかり尺八にはまり込み、定年後はサックスを棄て、尺八専門 になるはずである。
 いま彼は、マリコさんの詩の朗読にあわせて自作曲を吹奏し、 尺八の新しい表現法を模索している。まだ模索中だから、彼の 表情はウソみたいに若い。
 定年まであと5年。「第二の人生」なんて野暮なことは決し て言わない。彼の正念場はこれからなのであり、5年後にはき っと有名になっていると思う。
 こんな不純な生き方ができるNYが、つくづくうらやましい。 腹立つけれど、がんばれ。

(第11話終)