「邦楽ジャーナル」2000年1月号掲載

異国見聞尺八余話 (4)

<尺八異人伝>
デビッド・ソーヤーの巻

倉 橋 義 雄


デビッド氏(左)と洋子さん

 アメリカのコロラド州というと、ロッキー山脈を思い浮かべ る。しかし、地図をよく見ると、州の西半分だけが山岳地帯で、 東半分は、山ひとつない大平原地帯に属していることが分る。 州都デンバー郊外のボルダーの、そのまた郊外のルイスビルは、 果てしない大平原の中の小さな町である。その町で、つつまし く、しかし豊かに暮しているのが、今回ご紹介するデビッド・ ソーヤー氏。豊かというのは、モノが豊かなのではなく、ココ ロが豊かなこと。
 このデビッド氏は、実はイギリス人で、1951年、フラン スのパリで生まれたという。多感な青春時代は、陽光あふれる 南フランスで過ごした。
 成長してからはイギリスへ移り、ロンドンの大学で理論物理 学を学んだ。しかし、さすがは南仏育ち、求めるのもここにあ らずと悟った彼は、卒業後ただちに画家になった。
 そして、どうしてもアメリカの美術学校で勉強したくなった。 心当りの学校に入学願書を出してみたが、アメリカ本国の学校 からは入学許可されず、何とジャマイカの学校から許可された。 カリブ海に浮かぶレゲエの島での勉学の日々、まったくうらや ましい話である。
 美術学校卒業後は、ロンドンに戻り、商業画家になった。商 品宣伝のための作品を描く日々。生活のためのその仕事を、いま も彼は嫌悪しているが、そのときの作品は大切に保存している。 「私のプロとしての力量の成果です」と彼は言う。
 同業者の女性と結婚し、彼女の仕事の関係で、アメリカ・ニ ューメキシコ州の田舎町へ移住することになった。砂漠とサボ テンと先住民族が見えるニューメキシコの風景は、彼に衝撃的 なカルチャーショックを与えた。
 その後、離婚したが、ニューメキシコから離れられず、一人 娘とともに古都サンタフェで暮すことにした。
 サンタフェで彼は、本当の画家になった。生活のためでなく、 心から描きたい絵だけを描く画家になった。作品が売れても、 売れなくても、そんなことは、もはや問題ではなくなった。
 そして、彼は尺八の音に出会った。横山勝也氏のCDを耳に したのだ。それは、彼の心が求め続けていた音だった。その音 は、彼の創作活動に決定的な影響を与えた、と彼は言う。
 尺八を演奏する人たちにも出会った。サンタフェには尺八の 指導者がいないから、みんな独学の初心者ばかりだったが、彼 も仲間入りし、見よう見まねで尺八を吹き始めた。
 2人の仲間が、日本へ渡り、京都で倉橋義雄のレッスンを受 けてきた。たった1回のレッスンだったけれど、そのときの録 音テープが、サンタフェでは貴重な教材になった。
 あるとき、隣州コロラドのボルダーに、その倉橋義雄がやっ て来るという情報を耳にした。ボルダー在住の箏曲家・平岡洋 子さんの家でレッスンがあるという。さっそく、胸おどらせて、 高速道路を7時間もぶっ飛ばし、ボルダーへ向った。
 そして、ボルダーで、彼の人生は変った。倉橋と出会って尺 八に深入りしていったこともさることながら、平岡洋子さんと の運命的な出会いが待っていたのだ。
 洋子さんは、尺八の音と同じように、彼の心が求めて続けて いた女性だった。洋子さんも、さまざまな問題で苦しんでいた 時期、彼との出会いは大きな光明だった。
 ちょうど「ボルダー国際尺八音楽祭98」が開かれたとき、 彼は住み慣れたニューメキシコを離れた。ボルダー郊外のルイ スビルで、洋子さんとともに理想的な生活を送ることを決心し たのだ。音楽祭にも、地元スタッフの一人として、積極的に協 力した。
 いま彼と洋子さんは、徐々に生活を簡素化し、できるだけ支 出を少くしようと工夫している。そうすれば、カネのために働く 時間は少なくなり、心のために使える心地よい時間が増える。 合せて4人の子供を育てながらの生活簡素化は、容易なことで はないが、2人は楽しみながら、見事に実行している。
 私も、ルイスビルの新居の裏庭に腰おろし、2人と肩を並べ て、見渡すかぎりの大平原をボーッと眺めてみた。心地よい無 為の時間だった。
 「この家で、やっと心が落ち着きました」と言う洋子さん。
 無為のとき、白くなった私の心に、デビッド氏の尺八の音が、 心地よくこだました。何という曲を吹いていたのか、そんなこ とはどうでも良かった。

(第4話終)