「邦楽ジャーナル」1999年11月号掲載

異国見聞尺八余話 (2)

<尺八異人伝>
デビッド・ダンカベッチの巻

倉 橋 義 雄


ダンカベッチ氏(右端)と筆者 (ボストン郊外にて)

 名人ばかりが偉大ではなく、有名人ばかりが人間ではない。 人間はすべて偉大であり、みんな真摯に生きている。非名人・ 非有名人の旗手たる私は、ここに偉大な非名人・非有名人たる 尺八演奏家を紹介し、尺八とは何たるかを考察してみることに した。
 今回ご紹介するのは、偉大なデビッド・ダンカベッチ氏。1953 年アメリカ合衆国ペンシルバニア生まれ。
 彼の偉大さはまず、世界最強アメリカ陸軍の士官学校ウェス トポイントを卒業したこと。さすが軍人らしいクマのような体 躯の持主である。さらに偉大なのは、そのウェストポイントで 「人を殺すのはイヤだ」と宣言したこと。卒業後は、泣く子も 黙る最精鋭部隊グリーンベレーに所属したが、信念は変らず、 ぜったい武器は持たなかったという。信念を貫き通した彼は、 とうとう軍を去り、キリスト教の修道僧となって、コロラド州 ロッキー山中の修道院に籠った。
 この辺の事情を彼は確と語らないが、察するに、まだベトナ ム戦争の悪夢がアメリカの青年の心を傷つけていた時代、戦争 に行かなかった者ですら、深く考え込まざるをえなかったのだ ろう。戦場では、人が次々と死んでいく。まったくの不条理。 心にポカリと虚無の空洞が出現する。
 彼は5年間、瞑想と晴耕雨読の修道院生活を送る。
 ある日、修道院の隣に住む日系人夫婦が遊びに来て、持参し た録音テープを鳴らした。聞こえてきたのは、日本の尺八とい う楽器の音。その音は彼の心にピリピリ響いたという。そして、 その音は、たちまち彼の人生を変えてしまった。
 彼は自ら尺八を吹く決心をした。カリフォルニアにモンティ ・レベンソンという尺八製作者がいることを知り、さっそく楽 器とテキストを取り寄せ、独学で尺八の勉強を開始した。彼の 尺八人生の中で、このときが至福のときではなかったかと、私 は推察する。
 修道僧としての年限が満了したあと、しばらくニューヨーク でラニー・セルディン氏の手ほどきを受けたが、それも束の間、 たちまち矢のような勢いで太平洋を越えた。めざしたのは日本 の京都。ラニー氏が紹介した若き演奏家・倉橋義雄のもとにか けつけ、いよいよ待望していた本格的尺八修行を開始した。
 かたわら、英会話学校の講師や立命館大学アメフト部のコー チなどをして、生活費をかせいだ。そして、英会話学校で日本 語講師をしていた和世さんという女性に一目ぼれし、純情可憐 かつモーレツな求愛の末、とうとう結婚してしまった。彼の日 本滞在は、思いがけずも長期化することになった。
 彼にとっての尺八とは、心の空洞にピリピリ響くもの、具体 的には古典本曲でしかなかった。古典本曲のみの修行を望んでい た彼だったから、ガンコな倉橋義雄に三曲合奏曲の練習を強い られたのは、まったく不本意だったらしい。三曲は、彼にとっ てはあまりにも日本的すぎて、普遍的な音楽とは言えないもの だった。
 しかるに、日本女性との結婚、そして長期滞在という環境の変 化は、彼に日本的なものへの興味をもたらし、箏や三絃との合 奏にも意欲を示し始めた。また尺八製作にも興味を持ち、見よ う見まねで尺八作りを開始した。
 5年にわたる京都滞在ののち、彼は和世さんと2人の子供を伴 って帰国、ハーバード大学の博士課程でキリスト教神学の研究 に打ち込むこととし、ボストンに住んだ。
 生活費は、尺八でかせいだ。ボストンの人々に尺八を教え、 かつ楽器を作って売った。CDも製作した。こうして、プロで ないプロという、不思議な尺八吹きが出現した。
 尺八無人地帯だったボストンは、やがてアメリカにおける尺 八のひとつの拠点になった。奇妙なのは、こうした功績がある にもかかわらず、彼にプロ意識がないこと。ハーバードに見切 りをつけたとき、さっさとボストンを去って、テキサスのヒュ ーストンに移り、NASAのコンピューター技師になった。ち ょっと私にはマネできない変身の妙と言うべきか。
 やがて再び彼はボストンに戻るが、コンピューターの専門家 として、超多忙の日々を送ることになる。しかし、偉大な彼は、 何があろうと尺八だけは片時も離さない。そして、折をみて、 せっせと製作もし、ちゃんと販売している。雲山銘尺八という。 彼がいる限り、ボストンの尺八界は健在である。

(第2話終)