ZEPの聖地を旅する
ウェールズ・バーミンガム編
-2002年7月-
イーリングでみつけた花屋さん
序章
1年前・・・・・・
ZEPの旅の日程も無事終え、もうすぐお別れという時でした。
ミジーさんが突然、「ゆうさん!オリンピック・スタジオに行くのを忘れてました。」
私は即、返事をしました。「次回行きましょう。」
2001年冬、横浜港沖でのゴジラと地球防衛軍との戦いは熾烈なものとなり
ついにゴジラは海の藻屑と消えたのでした。
・・・しかし
ラストシーンではゴジラの心臓が動き出すのです。
「けっ、次回作があるんだな」と思ってしまいましたが、
それと同じように今回は約束されたかのような旅でした。
7月24日 くもり
昨年は早朝の福岡空港を出て、その日のうちにBAに乗りましたが、今年は成田で前泊しました。
羽田空港に着くと成田までリムジンバスで行けるようです。
成田空港にはホテルバスが来てくれるようになっています。
「リムジンバス?」
それは空港のどこかで乗れるのだろか?
西鉄バスみたいに停留所が近づくと「ピンポーン」と知らせるボタンを押したらいいのだろうか?
降りる時にお金を払うのだろうか?しかし小銭で済むような距離ではなかったぞ。
と、私と同じ不安を感じた地方の方がいらっしゃいましたら、ご安心くださいませ。
羽田空港のロビーですぐに切符売り場をみつけることができます。
お姉さんが乗り場を教えてくださいましたし、乗り場に行けばお兄さん方が荷物を預かってくださいました。
無事にリムジンバスに乗り、揺られる事1時間。
成田空港に着きました。
そこからホテルバスでホテルに到着。
先にホテルに着いていたせりちさんに会いました。
せりちさんと夕食を取り、閉店時間までお話してその日は終わりました。
7月25日 成田くもり ロンドンくもり
ホテルを出て、送迎バスで成田空港まで行きました。
BAのカウンターでチェックインを済ませ、カバンを預けていると、目の前の係員が妙に慌てていました。
下を見ると足に荷札が貼られていました。
「おお、荷物になってしまっている」
ヒースローの荷物受け取り場で私がくるくる回っているから、ちゃんと回収するように伝えていたら
係員が荷札をはがしてしまいました。
やはり客室で行く事になりました。
軽い食事を取っていると、すぐに搭乗時間です。
1年ぶりのBAですが、1年前と全く変わらないタダ酒を喜んでいる自分がいました。
2度の機内食の後、いよいよヒースロー空港へ。
そして1番の難関の入管です。今年はちゃんと受け答えするぞ。と、はりきっていました。
最初は滞在期間を聞かれたので「about 7 days」。
昨年と違って7daysの前にaboutを付けたのが私の英語力の上がったところです。
次の質問です。
「sightseeing?」
「え?」
君、それはルール違反だ。普通こういう場合、どの本も
「What purpose of your visit to the (国名)」と書いてあるじゃないか。
そして聞かれた私は「for sightseeing」と答え、
sightseeingの前にforを付けたのが私の英語力の上がったところだと自己満足に浸るはずだったじゃないか。
最初から答えを出してどうするんだ。
しかもこの係官は、さらに私の感情を逆撫でするようなことを言いました。
「sightseeing?カンコウ?」
これ以上こいつには逆らうまいと「sightseeing」と答えると
彼はポンとパスポートにハンコを押して、私は通過する事になりました。
一番構えていた入管だったので、やや拍子抜けでした。
あの懐かしいロンドンの街並みはもうすぐ。
空港にはMOJOさんが迎えにきてくださいました。
MOJOさんが手配したタクシー(はじめて乗りました)でホテルに到着。
その上MOJOさんはチェックインの手続きまでテキパキとしてくださいました。
そして部屋に荷物を置いた後、MOJOさん・ミジーさんのお宅に招待してくださいました。
1年ぶりのミジーさん、大きくなった息子さんに会えました。
何とミジーさん手作りの夕食でもてなして下さり、大感激でした。
旅行の打ち合わせをしながら、MOJOさんやミジーさんのギターの演奏を聴かせていただいたり
幸せなロンドンの夜でした。
26日 はれ
10時ごろホテルをチェックアウトし、その時間にMOJOさんが迎えに来て下さいました。
ミジーさんの家に旅行に不要な荷物を置かせてもらい、ミジーさんが運転席に座ると出発です。
まずはジミーちゃんの家だったタワーハウスに行きました。
タワーハウス 門は意外と質素です
窓という窓にステンドグラスが
私は昨年行っているので、今回は全体像よりもステンドグラスの窓を写真に撮ったりしました。
それからテムズ河を渡り、オリンピック・スタジオへ。
ZEPはここでファースト・アルバムを制作しました。
ロンドンの他のスタジオに比べたら立派な建物ではないかと思いました。
オリンピックスタジオ
ここでロンドンを離れ、ウェールズに向けて出発しました。
高速道路に入ってすぐお昼の時間になったのでサービスエリアで食事を取りました。
サービスエリアは日本と同じく、売店やゲームコーナーがあり楽しめるところです。
私はここで娘と学童保育へのお土産に子ども向けの本を買いました。
日本と違うところは、トラベルロッジといって宿泊できる施設があることです。
今回ウェールズは泊まるところは行き当たりばったりで決めていたので
場合によってはここに泊まるつもりでいましたが、残念ながらその機会はありませんでした。
今回の旅行はミジーさんがドライバーで、私がナヴィゲーターをしました。
ミジーさんにはいろいろと混乱させる指示を出しました。
私「次のサービスまで20メートルです」
ミジーさん「・・・20マイルですね」
ロンドンは昨年に比べて高いビルが増えたなあと思いましたが、ヒースローを通過したあたりから
全く変わらない牧場風景が広がっています。
そしてこれがウェールズまで延々と続きました。
至る所で見られた景色
港町ブリストル市から白い橋を渡って、いよいよ憧れのウェールズに入りました。
そしてすぐに高速を降り、クリアウェル城を目指しました。
途中、山の中を迷ったりしながら(ヒースが群生して花が咲いてるのを見る事が出来ました!)
城を探しました。クリアウェルという集落があり、その奥にクリアウェル城がありました。
クリアウェル城の入り口
ここでZEPのメンバーはインスルージアウトドアの前にミーティングを行ないました。
城に入るには予約がいるらしいので、建物には入らずに、敷地内から写真を撮ろうと思い
ウロウロ写真を撮っていたら、中から職員が出てきました。
ミジーさんによると今日は中で結婚式をやっているのだから
写真を撮ったら出て行ってくれ、ということでした。
写真を撮るとスゴスゴと出て行きました。
結婚式もOK。クリアウェル城
それからモンマスに行き、モンマスの町外れにあるロックフィールドに行きました。
ここにはスタジオがあり、王子はソロのファーストとセカンドをここで制作したそうです。
スタジオは昨年行ったヘッドレイ・グランジのように普通の農家となんら変わりはありませんでした。
「セキュリティーが厳しいぞ」と警告している看板を横目にミジーさんがピュ−と敷地内に車を進めました。
ロックフィールド・スタジオの入り口
・・・やっぱり普通の農家でした。ここがスタジオかな?と見当をつけて写真を撮りました。
ここがスタジオと思われました
そしてモンマスからラグランへ
もう夕方になっていたからラグラン村で泊まる事にしました。
高速道路で移動しながら、そろそろラグランだなあと思っていたら
「あれ?」
安直にラグラン城が見えました。
「ラグラン城って高速道路沿いにあるのか・・・・」
ラグラン村はラグラン城への観光を旗印に発展した感じの村でした。
ホテルも何軒もありました。最初に行った「Beaufort Arms Hotel」に決まりました。
部屋に入る前に、ラグランの村を散策しました。
ホテルの前の通りにマップが・・・
何の変哲もないFordの販売店を見つけても「あ、ラグラン・フォードだ」とパチリ。
ラグラン・フォード
いかにラグランで舞い上がっていたかが分かります。
散策の結果、ZEPの痕跡はみつかりませんでした。
以前私が福岡県の秋月に行った時「フーテンの寅さん」撮影の場所として、
その時の写真や渥美清のサインが飾られていましたが、ここではそういうことはしないようです。
ホテルに戻って2階の部屋に荷物を運んでいて驚いたのですが
階段の踊り場から部屋にかけての光景を、私は以前夢で見た事がありました。
これをDeja Vuというのでしょう。
この場合「見たような気がする」のではなくて、はっきりと夢の光景として記憶にありました。
きっと私がラグランの地を訪れることは運命づけられたことなのでしょう。
驚きはしましたが感慨深いものがありました。
部屋に荷物を置くとホテルのパブに行きました。
私は久々にフィッシュ&チップスを食べました。そしてビール。
フィッシュ&チップスとビール
ビールの銘柄をあまり知らないので「ウェールズの地ビールだ」喜んでいたら
「これはオランダのビールだ」と指摘を受けました。
フィッシュ&チップスは店によって当たり外れがありますが、ここのパブのは美味しかったです。
ホテルのパブ
ホテルの方のお話だと、以前日本人が泊まった事があるそうです。
それはきっとZEPファンにちがいない。
それにしても、この村では日本人は珍しいのでしょう。
ロンドンと違ってやたらと視線を感じました。
昼間は暑い日でしたが、夜になると(といっても10時くらいまで明るい)外にいるのがつらいほど寒くなりました。
27日くもり
「イギリスでよい食事をしようと思うなら、朝食を3度とればいい」モーム。
昨年はロンドンの同じホテルで、朝食はコンチネンタル・ブレックファストという質素なものでした。
今回の旅行はイングリッシュ・ブレックファストをよく食べる事が出来て、ようやくイギリスの朝食らしい朝食が取れました。
このホテルの朝食は私が食べた中で最高のイギリス料理でした。
映画の撮影期間、王子はきっとここのパブで過ごしたにちがいない。
素敵なホテルでした。
皆さんラグラン村にお越しの際は「Beaufort Arms Hotel」に泊まりましょう。
ホテルを出ると、いよいよラグラン城に行きました。
壮麗なラグラン城
ウェールズの旗が風になびく
駐車場で車を降りると「あ、鳥だ」
ラグラン城を守っていたのは鷹ならぬ鶏でした。
城を守る鶏
ラグラン城には大きな猫もいました。
これにまたがって、城に乗り込む案があったのですが、犬からちょっかい出されて背中の毛を激しく逆立てて怒るなど、
気が短そうな猫だったので断念しました。
城を守る猫
チケットを購入して、入場するとチケット売り場の奥にある売店に行きました。
何と木製ではありますが剣が売っているではないですか!
昔の衣装(Damsel Tunicと書いてあります)とともに、即購入しました。
お店の人が「戻ってくるまで預かりましょうか?」と親切に言ってくださったのですが
「I'd like to take a photogragh」と理由を説明して断りました。
城内に入るや否や衣装を着て、剣を持ちました。
衣装は私のために作られていたかのように、ぴったりでした。
衣装が妙にピッタリ
ひょっとしたらイギリスの子ども向けに作っているのかなあとも思いましたが・・・
神秘的な城の中を歩き回ると・・・あったあった。
王子が悪いヤツと戦った場所。
いざ戦わん
悪いヤツを落とした堀。
城の堀
王子がたいまつを掲げて上っていった階段。
王子が上った階段
お姫様を助けた暖炉のある部屋。
この部屋で姫を助けます
そこで映画のシーンを再現する写真を撮りました。
たいまつがないのが悔やまれました。
たいまつを持って姫を助けに
イギリスではホームセンターでたいまつが普通に売られているそうですので
もし行かれる方は、あらかじめ用意しておいた方がよさそうです。
この日は城のお祭りが開催されるそうで、既に民族衣装を着た村の人が準備をしていました。
バイオリンとパーカッションで演奏のリハーサルをしていましたが、
今まで聞いてきたケルト音楽に通じる曲で、王子も好きなんじゃないかなと思いました。
城祭りのリハーサル
ラグラン城を出るとAberystwythを目指しました。
ウェールズではウェールズ語で地名になっている所が多くナヴィをしながら地名を読むのに
非常に困りました。
Aberytwythは「ア・ベ・リー・ツ・ウィー・ス」
(点が入るのはたどたどしい読み方をしていたと思ってください)と読んでました。
ミジーさんは、私の読む地名を聞いて目的地に車を進めるのが大変だったと思います。
私がナヴィするために読まざるを得なかった町の名前を書きます。皆さん読んでください。
1、Abergavenny/Y/Fenni
2、Brecon/Aberhondou
3、Llandovery/Llanymddyfri(ここでは昼食を取りました。私はチキンとキノコのパイを食べました)
4、Aberaeron
ちなみに私は
1、ア・バー・ガ・ヴェニイ・イ・フェニー
2、ブレコン・ア・バー・ホ・ン・ド・ウ
3、ル・ラン・ド・バ・リー・ル・ラ・ニー・ム・ド・ディ・フ・リ
4、ア・ベ・ラ・エ・ロン
と、読んでました。正解は分からぬまま帰国しました。
*ウェールズ語についてはここをご覧ください。
王子とジミーちゃんがBron−Y−Aurにこもって曲作りをしていたころ、
時々夜、Aberytwyth町におりてきて、海沿いの廃墟Aberytwyth城にお酒や食べ物を持ち込んでは
ギターを弾いたりしていたそうです。
1973年1月16日、ZEPはこの町のキングス・ホールでライヴをやっています。
そしてこの海辺で映画の王子が舟で上陸するシーンや剣を授かるシーンが撮られました。
Aberytwyth城に行きました。
Aberytwyth城
皆で一生懸命酒盛りの痕跡を探しました。
それから波打ち際に下りて、砂に剣を刺すシーンなど撮影しました。
剣を砂に刺す
ここはリゾート地で土曜日と重なったため、観光客がたくさん来ていました。
さすがに恥ずかしゅうございました。
映画ではラグラン城の周辺に森があり、それほど遠くないところに海がありというイメージがありますが
実際かなり離れたところで撮影されたことが分かりました。森が特定できなかったのが残念です。
王子が馬で疾走した場所と森はみつかりませんでした
リゾート地らしく、海沿いにホテルはけっこうありましたが、
土曜日だったので、なかなか泊まれる場所がみつかりませんでした。
結局中心地から少し外れたところに、最近建った感じのきれいなホテル
「Aberytwyth Park Lodge Hotel」に泊まる事が出来ました。
食事は美味しかったし、セキュリティ等もしっかりしているようですし、ホテルの人は親切でしたし、
ウェールズはロンドンよりも安くて良いホテルに泊まれます。
ウェールズの人たちも暖かく、すっかりこの地が好きになりました。
王子の気持ちがよく分かりました。
部屋に戻ると、ゆうこさんがイタリアから電話をくれました。
「ラグラン城の売店のお姉さんから衣装が似合うとほめられちゃいましたよ。へへー。」
28日 はれ
朝から「タイムレンジャー」のアメリカ版放送していました。
その後はアニメ「スパイダーマン」で、
どうやら日曜朝の子どものゴールデンタイムは日本もイギリスも同じのようです。
ハードスケジュールの日であるためAberytwythを早めに出ました。
まずはマハンスレスに行く途中にある王子の農場を探しました。
映画で王子とご家族が川遊びをして、少年が一生懸命自転車をこいで手紙を届けてくれた、あの美しい農場です。
山の中を奥に車を進めると、思ったよりも早くみつかりました。
映画の農場
あの映画の時と変わっていない景色でした。
うぅ、あのシーンが今目の前に・・・
映画では農場はとても広い感じがしましたが、実際はイメージより狭い場所でした。
あの木の門は映画と比べると、さすがに30年近く経過しているなと思われました。
農場の周辺には綺麗な野生の花が咲いていました。ここを見てください。
「Follow The Legend」の著者が王子の農場の場所を村の人に尋ねると、村の人は口が重かったそうです。
それは王子のプライヴァシーを守ってあげようという優しさからだそうです。
さすが、ウェールズの人たちは人間が出来ている!
それからMachynlleth(マハンスレス)へ
Machynlleth(マハンスレス)の町に入るとケルト文化に関するものを取り扱ったお店がありました。
私はそこでウェールズの景色の写真集を買いました。
いよいよBron−Y−Aurです。
ここはハイキングコースになっていて、出発口に車を停めると歩いて登りました。
けっこう急な登り道で、フンを踏みそうになりながら、わんわん飛んでる蝿にたかられながら
日頃の運動不足のため、ヒーヒー、ゼーゼー、ヘロヘロになって登りました。
30分も歩いたでしょうか、「Bron−Y−Aur」という小さな看板がありました。
そこを曲がってさらにしばらく歩くと・・・あのコテージではないか!
あのコテージ・・・
今はお子さんがいる家族がお住まいのようです。その時は不在でした。
それをいいことにコテージをバックに写真を撮りました。
そして魅入られたように景色を眺めていました。
コテージからの眺め
思いは二人が曲作りをした日々へ・・・
・・・再び蝿にたかられながら山を下りました。
Machynlleth(マハンスレス)を出るとバーミンガム方面に向けて出発しました。
途中 New Town/Y/Trallwng「ニュータウン・イ・トゥ・レ・ル・ウ・ン・グ」
に立ち寄り、パブで食事を取りました。ラムチョップが美味しかったです。
そしてお店で花束とお酒を買いました。
ボンゾのお墓に供えるためです。
New Town(以下略)を出てしばらく走ると、車はウェールズからイングランドに入りました。
さよならウェールズ。
ウェールズはこの世で一番美しい国です。
できることなら再び訪れたい。
ラショックはキダーミンスターの南にあり小さくて静かな村でした。
教会は小高い場所にあり、墓地を歩くとボンゾの墓はすぐにみつかりました。
ラショック教区教会の門と建物
とうとう念願かなってボンゾのお墓参りが出来ました。
ドラムのスティックが何本も供えていました。
「CHERISHED MEMORY OF A LOVING HUSBAND AND FATHER JOHN HENRY BONHAM WHO DIED SEPT. 25th, 1980 AGED 32 YEARS He will always be remembered in our hearts. Goodnight my Love, God Bless 」(懐かしき思い出親愛なる夫であり父であったジョン・ヘンリー・ボーナム。1980年9月25日没 享年32歳。彼はいつまでも私達の心の中で生き続ける。おやすみ、愛しき人、神のみ恵みの有らん事を)
ボンゾのお墓
お花とお酒を供えて、天国のボンゾに祈りました。
お酒が足りないって、怒るかなあ・・・
それから王子が少年時代を過ごしたキダーミンスターに行きました。
キダーミンスターの街並み
王子もきっと利用したに違いないキダーミンスター駅に行きました。
キダーミンスター駅
その後、王子の農場を探そうとしましたが
時間が押しつまってきていたので中止してバーミンガムへ。
バーミンガムに入ると、王子が家出する前にちょっと通っていた会計士の学校に行きました。
会計士の学校
家出するためにここをよじ登ったかも・・
そして、少年時代、父親からよく連れて行ってもらったという「セヴンスターズクラブ」に行きました。
セヴンスターズクラブ
バーミンガムの駅裏(この一帯はちょっと物騒な感じがしました)にある「Holiday Inn」に宿泊することになりました。
荷物を置いた後、すぐ出かけました。
この日はバーミンガムのウォルソーで「Fred Zeppelin」のライヴがあるという情報があったのでした。
しかし、ライヴ会場に連絡が取れず、とりあえずウォルソーに向かいました。現地に行けば何とかなるかと思ったのです。
しかし、思ったよりもウォルソーは広かった。イングランド第2の都市はやはり広い。
会場の公園(野外だったのです。電話ができないはずでした)を見つけた時はライヴは終わったあとでした。
大変残念でした。
ところでウォルソーといえば、家出した王子が転がり込んだモーリーンの家があるところ・・・あの地区の
どこかに王子を魅了した暖かい大家族のおうちがあったのですね。
最もハードな日程の日は、こうして終わりました。
29日 くもり
「Holiday Inn」はチェックアウトは12時です。
そこでミジーさん達にホテルで休んでもらい、せりちさんと私は「トラム」という電車に乗り、
ウエスト・ブロムウィッチに行くことになりました。
出かける前にテレビを見ていたら急に「メッセージがある」と画面に現れました。
メッセージの意味がよく分かりませんでしたが「alarm」とか「9:00」とかありました。
「もう出かけるから関係ないや」とテレビを切りました。
ホテルを出るとスノウ・ヒル駅まで歩いていき、2両編成の電車に乗り込みました。
この電車はバスと同じで中に車掌さんがいて切符を買うようになっていました。
ウエストブロムウィッチまで往復で£2.5でした。最近出来た路線らしくきれいな電車でした。
ウエストブロムウィッチは駅の周辺が商店街になっていて賑やかな街でした。
そこを外れると住宅街でインド系の人たちがたくさん住んでいました。
商店街のすぐ近くにウエストブロムウィッチ・ハイストリートがありました。
賑やかな通り、ウエストブロムウィッチ・ハイストリート
そう、無名時代の王子が生活のため道路工夫になり舗装した道です。
周囲には立派な建物があり何かのモニュメントや綺麗な花壇、と華やかな場所でした。
ところが、ウェストブロムウィッチにはもう一つハイストリートがあるというのです。
それはインド系の人たちの生活圏にありました。
もう一つのウエストブロムウィッチ・ハイストリート
王子はスターを夢見ながらもここで現実と戦っていたのだなあ・・・
車道の隅っこでアスファルトに触れてみました。
王子の汗がしみこんでいる・・・
通りの向こうにはカシミール・ビデオというお店がありました。
王子はここの店でビデオを借りながら、未だ見ぬカシミールに思いを馳せていたに違いない。(?)
今は人々が争う舞台となっているカシミール。
早く平和が訪れる事をお祈りします。
赤い矢印がカシミールビデオ、この車がクラクションを・・・
そのカシミール・ビデオを写真に撮っているときです。
信号待ちをしていた車が私に向かってクラクションを鳴らしました。
見るとインド系の男性でしたが、身振り手振り笑顔で「俺を撮っているのかい?」と。
こちらも「そうだよー」と身振り手振りで返事をして手を振って別れました。
・・・そのころ、「Holiday Inn」では、
9:00になったとたん部屋という部屋でalarmが鳴りまくり
ミジーさん達は、ゆっくり休む事が出来なかったのでした。
私は戻ってその話を聞いて、ようやくメッセージの意味を理解したのでした。
王子の生家はそのウエストブロムウィッチ・ハイストリートの近くにありました。
王子の生家(白い家です)
生家から駅に向かって歩きながら、王子のお母さんも赤ちゃんの王子を抱いてこの道を歩いたりしたのだろうなあ・・・と
思いを巡らせました。
王子が生まれた後、一家はキダーミンスターに引っ越します。
しかし音楽をするため家出をした王子は再びバーミンガムに住みつきます。
お金がなくて、行き場がなかっただろうとは想像できますが、それにしても、なぜバーミンガムなのか・・・。
この地には王子を引き寄せる何かがあるのかもしれません。
バーミンガムは古いものと新しいもの、そして様々な人種が混在している街です。
ロンドンとはまた違う雰囲気を持っていました。
そんな街にヒッピー姿の王子とモーリーンのツーショットはよく似合います。
だからこそ、王子が幼い頃訪れたウェールズに思いを寄せるのも分かる気がしました。
再びトラムに乗り、ホテルに戻りました。
そして街に出て昼食を取りました。
やっぱり食事もウェールズの方が美味しい・・・・。
そして出発。王子が愛読したトルーキンの住んだ家を探しました。
トルーキンは王子の詞作や思想に多大なる影響を与えました。
ZEPの曲の中にはトルーキンの作品の一場面を歌にしたものがあります。
映画の王子のイメージシーンにもトルーキンの影響を感じます。
「Follow The Legend」により探し当てたトルーキンの家はごく普通の住宅でした。
彼の家であったことを特定できるのは住宅の番号だけ。
どうしてバーミンガムの人たちは「指輪物語」の大ヒットに便乗して町おこしをしないのでしょうか?
町の入り口に「ようこそトルーキンのふるさとへ」と看板を立て、トルーキンの家の前ではお土産屋さんをつくり、
トルーキン饅頭を売り出せば、英国中いえ世界中から観光客が殺到するにちがいありません。
そこをしないところがイギリス人なんだなあ、と妙に納得してしまいました。
トルーキンが住んでた家
そして車はバーミンガムを出て一路ロンドンへ。
ミジーさんのお宅に無事到着しました。
MOJOさんが出迎えてくれました。
「ラグラン城の剣を、息子さんに授けます。」と伝えると大変感激・・・は、してくれませんでした。
きっとその日4回も洗濯機を回して、疲れ果てていたのでしょう。
ラグラン城の剣
MOJOさんは私達がミジーさんを連れ出したため、その間息子さんとお留守番で
MOJOさんのお力がなければ私達はウェールズに行けませんでした。
本当にお世話になりました。
奥様の検閲にめげずに、また原稿送ってください。
それからホテルにチェックインするとミジーさんがMOJOさんおすすめのイタリア料理店に連れて行ってくださいました。
旅を振り返りながら楽しく過ごしました。
ミジーさんには何から何までお世話になりました。
おかげさまで、素晴らしい旅行ができました。
本当にありがとうございました。
30日 くもり
昨年のロンドンでは一度も「暑い」と言った事がありませんでしたが
今年は異常気象なのでしょうか。妙に暑い日々でした。
イギリスの建物は高い気温には対応できないようです。
そとはけっこう涼しくても、窓を開けても風は入ってこないし、建物の中に熱がこもっています。
エアコンがないのが普通なので部屋の中は暑くてたまりませんでした。
ホテルが暑いので早めにチェックアウトして地下鉄に乗りました。
ピカデリーラインでピカデリーサーカス駅まで、1年ぶりの地下鉄で、ワクワクしました。
まずは早い時間から開いているタワーレコードへ。
それからヴィンテージブックスというあやしげな店に行きました。
そこでポストカード(ZEPの写真、ロンドンの街の写真)を買いました。
それからロックサーカスに行くつもりでいましたが、何とロックサーカスは閉鎖されていました。
王子の蝋人形が見れると楽しみにしていただけに残念。
時間が余ったので、ピカデリーサーカス付近をブラブラしました。
結局行ったところはHMVやヴァージンレコードです。
ヴァージンレコード
HMVではZEPのジャケットのCDが王子の顔が可愛いので買いました。
「MAXIMUM LED ZEPPELIN」というタイトルです。
中身は女性の声でZEPのバイオグラフィーを語るというものだそうです。がっかり。
12時にエロスの像で集合。再び地下鉄でホテルに戻りました。荷物を受け取るとタクシーで空港に。
ヒースローではチェックインに長蛇の列が出来て時間がかかりました。
BAに乗る人も多いようです。イギリスではW杯で日本の評価がとても上がったため
遊びに行く人が増えたのでしょうか?
予定していたチェックイン後の食事が出来ずにBAに乗り込みました。
31日 はれ
BA機は無事成田に着きました。
ここで旅の仲間は解散です。
たくさんの思い出をありがとうございました。
・・・しかしロンドンを暑い暑い言っていましたが
日本はやっぱり、とんでもなく暑い国です。
やっぱりイギリスがいいなあ・・・
おつきあいくださいましてありがとうございました。
[資料]・・・間違いがあったら教えてくださいね
ラグラン城
サー・ウィリアム・アプトーマスは戦争のためフランスに遠征し、その経験から、1435年フランスのスタイルである、ラグラン城の築城を始めました。1492年彼の息子により、ラグラン城は現在の形となりました。清教徒革命戦争末期の1646年、城は議会の軍隊に包囲され破壊されました。
クリアウェル城
クリアウェル城は
ウィンダム家のために1727年にチューダー大邸宅を基盤として造られました。、そしてゴシック様式の素晴らしい建築です。
それはUKにおける最初のゴシック様式
の大邸宅でした、しかし1929年に不幸にも全焼して、そして1953年までに再建されました。
Aberystwyth城
イングランドの王、エドワードはウェールズ征服を完全なものとするため兵を進めていました。Aberystwythの町でも町の人には「自治権を認める」からと言いくるめ、船で物資の供給ができるように海のそばの小山に1277年、城を建て始めました。
1289年ごろ城は完成しています。
しかし、その後エドワードは城を守っている人たちを食事に招待すると称して呼び出したあげく殺害。城を占領し、多くの市民が虐殺されました。
*「プリンス・オブ・ウェールズ」
エドワードには身重の妻がいましたが、妻を放ったまま戦争に明け暮れていました。妻はウェールズで出産し、ウェールズ征服を成し遂げたエドワードは「この子は『プリンス・オブ・ウェールズ』である」と宣言。これはイングランドがウェールズを征服したという宣言であり、ウェールズの人たちにとって屈辱的な称号です。そしてそれ以来イングランドでは皇太子に対して「プリンス・オブ・ウェールズ」という称号が使われるようになりました。