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アンダウン Vol.63

INTERVIEW 伊藤銀次 【中編】 取材:鈴木大介


僕は大瀧さんや山下くんは、
王(貞治)であり
長嶋(茂雄)だと思ってる。
僕は原(辰徳)監督ですね。



さて、伊藤銀次インタビューの中盤突入、である。昨年10月の新宿ロフトに続いて、1/31新宿リキッドルームの本誌主催イベントでは堂島孝平と客演(俺的にも大好きな「雨のステラ」、これを聴いてリバプール・サウンドのレコードを探しまくり、オーギュメントなコード進行の魅力に取り付かれたのです)、プロデューサーとしてではなく、アーティスト伊藤銀次としての活動が更に活発化しそうな気配がモロに感じられる俺ですが、少しでもこの記事を読んで気になったりしている人とかいるわけで、そういう話を聞くと俺も嬉しいンだが、とりあえず気にしているだけじゃ駄目。まずは行動ですよ。ホント読者のみんなには銀次さんのベスト盤でも何でもいいから聴いて欲しい。そうやってポップスって楽しんでいくもんなんだからさ。ポップミュージックのDNAを絶やさない為にもね。まずはこのインタビュー読んで、速攻でタワーでもHMVでもいいから走りなさい。そして音源に触れて欲しい。そうすりゃ何で俺がこのインタビューに、大量のページを割いているかって事が理解できるはずだ。

●今までは70年代、80年代のお話を聞かせて頂いたのですが、銀次さんにとっての90年代はどんな時代だったのでしょう?ウルフルズを手掛けてという事も大きいと思いますが。
「東芝で何作かやった時に、自分自身でアーティスト像について考えて、まず年齢を意識して、それで所属事務所のトラブルがあって・・・。それで実際に事務所がなくなった時に、1枚『LOVE PARADE』を作ったんだけど、その時点では僕は岐路に立ってたんですね。『LOVE PARADE』が出たときに42歳ですからね。僕は岐路に立つと、この先をどうやって歩いていくかを考えちゃう人なんですよ。今までプロデュース生活とアーティスト生活の二足の草履でやってきて、事務所がなくなったしライブをやっていくのは難しい。実は「イカ天」をやってた時から、僕は事務所にアレンジだけの仕事はもうやりたくないと言ってたんです。アレンジというのはベルトコンベアーで流れてきたものにアレンジだけして渡しちゃうでしょ、そうすると後で出来上がってきた時に"何だこの歌詞は"と思って、こんなアレンジにするんじゃなかったって思う事があって嫌だったんです。キャリアも随分積んでたし、中には銀次さんに全部任せますというのもいくつかやらしてもらいました。曲集めから歌詞の選択、歌も録ってたから。そういう経験もあったので、プロデュースするものをやらせて欲しいと前から思っていたんです。そしたら仕事がガタ減りしたんですよね。それでやる事がなくなってた時に、ちょうどそこで「イカ天」の話があって。その時に僕は「FM NIGHT STREET」という深夜番組をやってて、インディーズにすごい興味があったの。それで月4回あるメニューの1回を使って、そこでどんどんインディーズの音楽を紹介してたんですよ」
●ちょうど"ネオGS"という言葉が出てきた頃ですよね。
「そうそう。ファントム・ギフトがあったり、エジソンなんかで女子高生が出入りしてたりとか、Xが出てきたりとか。それがきっかけで聴き始めると非常に面白いものがいっぱいあったので、濃いドロドロしたものからポップなものまで、かけてたんです。自分が触れたこともないような世界があって、自分とは違う音楽だけど自由を感じたの。売れるとは思わなかったけど、僕のアーティスト心をくすぐるもので、こういう世界があるんだって。そんな事があって、『イカ天』の話が来た時に、そういうインディーズのバンドが生で見られてお金がもらえるんだったらやりたいって言って始めたんです。でもまさかあんなに人気番組になるとは思ってなかった。そういう経験があって、『イカ天』の終了から少ししてウルフルズの話が来たんです。」
●そうなんですか。
「最初に彼らの作品を聴かせてもらった時は、あまりよく分からなかったんですよ。それでライブを見に行ったらヴォーカルがいいなって。それでちょっとやろうと思って。ただし、僕が考えている事はすごく時間がかかりそうだから、そこで条件を出したんです。全部やらせて下さいって。曲が既にあって、これをアレンジするとかそういう事ではなくて、アーティストと一緒に今どんな曲が彼らに合うとかいう事を、詞から曲から全部、そしてマスタリングまで、そしてライブもリハーサルから付き合って、一緒にやっていきたいんですって言ったら、是非お願いしますという話になりました。それをやった時に、僕は現役を退こうと思ったの。それは、先程も言ったように僕自身が好きな音楽が、大人の音楽じゃないから。東芝の頃にやって難しいなと思ったのは、自分がやりたいネオサイケとかは、若作りして『イカ天』出てるようなバンドの気持ちでやってたんですよ。でも何か無理があるなって。『BABY BLUE』をやった時はすごくナチュラルなアルバムになったんだけど、何か嫌な感じでね。しかもその次が見つからない。『LOVE PARADE』である程度きっかけは出来てたんだけど、僕も自分なりに納得のいく方向が見えない。僕がただ歌を楽しく歌えるだけのシンガーだったらいいんだけど、厄介な事に僕の中にプロデューサーがいるんだよね(笑)。僕は何をやるにしても、自分で納得がいかないとダメだから。この前のココナッツ・バンクもそうだし、伊藤銀次を封印する気はない。ただ、今の時代に52歳の人が歌ってリアリティのあるものがあるかという。例えば僕と同年代の人が、相変わらずやってるじゃないですか。そいういうの話を聞いた時に、そこまでして歌いたいのかなって。そうまでして歌ってくれても、あなたの声が聴ければそれでいいっていうファンの人達に支えられて歌ってる事に気が付かないのかなって」
●そうじゃなんですよね。
「それでも、喜んでくれる人達がいるからいいですよ。だけどアーティストだろって思うの。ファンの人達が支えてくれる気持ちは嬉しいけど、支えてくれる人達に自信を持って、今の52歳の伊藤銀次っていいと思うでしょ?って聴かせられるかという事なんです。僕はずっとクラプトンを追い続けて、『アンプラグド〜アコースティック・クラプトン』を聴いた時は涙が出る程嬉しかった。ずっとクラプトンは重圧と戦いながら生きてきたよね。彼だって老いに対する恐怖とか、いつまでやれるんだろうとか頭にあったと思うけど、あれはプロデューサーが言ったんじゃないかな。例えばここでクラプトンがギターを弾いているだけでもいいんじゃないかって。それは何十年もやってきたから自然な味じゃないですか?それをそのまま録ろうよって事でしょ。あれ以降、クラプトンは変わったもん。ライブも肩に全然力が入ってなくて。実はこの前のライブも、僕はクラプトンに感謝した。若い時は、絶対にキメてやるとか、自分の120%を出してやると思って背伸びして失敗してたから。でも僕の持っている60%でもいいと。僕が家でやってるようなライブをやれたら、若い子達がやってるものをは違うものになれるかなって。やっとこの境地に辿り着いてきたのかな」
●そういのって、今の人達と銀次さんが並んだ時に、違和感なくあるんでしょうね。そこで思ったのはやっぱり間違ってなかったなって。当日あのイベントには21〜22歳ぐらいの子とかもいて、"伊藤銀次さんは名前は聞いた事があるだけで良く知らないんですけど、すごく良かったです"って言ってくれたんです。ということはアリなんですね。
「アリですよ。とかく世代の格差というか、父親と子供の断絶みたいなものってあるじゃないですか。それは断絶じゃないと思うんですよね。」
●それを繋げるきっかけがないというのもあると思うんです。
「日本だと"銀次さん"じゃないですか。外国人と仕事すると"銀次"なんですよ。僕より遥かに若い30代の人とか20代のミキサーやエンジニアと仕事をする時に、最初に彼が僕に聞くんですよ"ミスターを付けた方がいいか?"と。それで"Call Me Ginji"と言うとニコッと笑うんです。それだけで彼は仕事がし易いよね。僕はこう思ってるんです。年齢的にすごくキャリアを積んだ人は、そのキャリアを積んだという所がその人のプロジェクトに対する力になる訳じゃないですか。それが若くてフレッシュだという事が力になりますよね。そしたら"Ginji〜"とやる合える訳ですよ。でも日本には昔から儒教に近いような目上を立てるというのがあるので、言葉遣いもそうなってますよね。敬語を使わないといけないという。外国には敬語がないと言いますけど、それは嘘です。"Ginjiが僕の意見を聞いて気を悪くしないで欲しいんだけど"とか"Ginjiが気に入らなかったらダメと言ってくれていいから"という理を付けてから"実はこいういうのが出来たんだけど聴いてくれないか"と言ってくるんですよ。それはお互いに尊重し合いながら、はっきりとものが言える。日本人はNOと言えないと、向こうの人はNOとは言うけどただ不器用にNOと言う訳じゃないんですよ。やっぱり若い連中はこのおっさんはキャリアがあるんだなtっていう事で接してくれるんですよね。逆に僕は接している彼に、頭から押さえつけるんぢゃなくて、ある所を僕はチェックしてるから君の好きなようにやってくれよと。そういう意味で君とやってるんだという会話をすると、老若が一緒にやれるんだと思うんです。そこが大事なはずなんですよね。"俺みたいになれ"って上の人は言っちゃいけないんです。親の背中を見て子は育つって言うじゃないですか。だったら背中を見せないといけない。僕がウルフルズのレコーディングで『あの娘に会いたい』という曲をやる時に、僕はローリング・ストーンズの『TELL ME』みたいにしたかったんですよ。12弦ギターでアルペジオを弾いてもらいたかったんだけど、彼は12弦ギターを弾いた事がなかったの(笑)。だから僕が弾く事になったんだけど、その時に思った事は、それまで彼らのダビングやリズム録りにものすごく厳しかったけど、僕はプレイしないよね。そこで初めて彼らの前でプレイする事になった訳ですよ。その時彼らは絶対思ってるよね。"あれだけ俺達にうるさく言って、こいつはどんなプレイをするんだ"って。その時に僕がいい加減だったら、もうそれから絶対に僕の事を尊敬してくれない。だからその重圧に耐えて・・・心の中では"これはちゃんとしたプレイをしないといけないな"と思いつつ、こんな事は日常茶飯事だぐらいの顔をして弾く時の気持ちってなかったですね。そこで彼らは僕の背中を見る訳ですから、そこであっという間にギターを弾き終われば"俺達がなんでこんなに時間がかかってるんだろう。銀次さんはこういう事を言っているんだ。"って思いますよね。だから尊敬されるようにしないといけないと思うんですよ。そして、"ああいう大人にならないといけないな、俺達も"って。それと、音楽を信じてちゃんとやっていったら、きっとそういう人達になれるんだなっていうのを作ってあげないとダメだと思う。そういう事が出来る大人がいないんだよね」
●僕が切実に思うのは、今のミュージシャンがバブルガム・ポップをやるのを聴いてみたいです。それは、この前のイベントを見て改めて思いました。銀次さんの90年代は、ウルフルズのプロデューサーやユースケ・サンタマリアをやったりという、銀次さんらしい動きは感じてたんです。『ガッツだぜ!』があって・・・。
「大瀧さんが得意だったものの継承者ですからね、僕は」
●『ガッツだぜ!』があって、それに対してユースケ・サンタマリアで敢えて『お世話になります』をやる、あのセンス。
「あれは僕の中ではトータス松本は堺正章だったんです。それでユースケは井上順。井上順のシングル・ヒットと言えば『お世話になりました』でしょ?」
●僕は植木等と谷啓だと思ってました。
「あっ!同じですよ。その面も考えたんです。あの2人は全く個性が違うんですよ。トータスが植木等でユースケが谷啓という。スパイダースに置き換えると、マチャアキと井上順。その展開で組み立てたんですけどね。」
●そういう動きもあって、それなりに満足もするんですけど、やっぱり銀次さんの曲が聴きたいなっていう。
「プロデュースすると、ピッチだとか歌い方とかも自分なりに思うものがありますよね。僕は大瀧さんや山下くんは、王(貞治)であり長嶋(茂雄)だと思ってる。僕は原(辰徳)監督ですね。自分自身が何で歌に対してコンプレックスを持ってるかというと、あまりにもすごい歌手と一緒にやってたから、自分のヴォーカルに自信が持てなかったんだよね。それが段々癒えてきたのは、佐野元春などに出会ったからだと思う。僕はずっと自信がなかったの。だからすぐに好色系に走ったりしてたし。ユーミンからヒントを得たしね。色んなプロデュースをやってみて、自分で歌ってみたら前より音程良くなってて、ちょっとびっくりした。それもあって、まだやってみようかなって思ったの。」
●あの場にいた、堂島孝平のマネージャーさんやデイジーのディレクターとかは、当然リアルタイムで銀次さんの音を聴いていて、今回久々だから絶対に緊張してるんだろうな"とか、見る前はそれぞれ言ってたんですけど、見終わってみると"あれだけ現役感のある歌が歌えるんだったらやったほうがいい"って。
「自分でもびっくりしてるんだよね(笑)。僕は1年ぐらい前から裏方の仕事が増えて、コンピューターの前にいることが多くて。僕は子供の頃から代謝がいい人で、常に体温が高くて、どれだけ食べても太らなかったのが、最近衰えてきたんです。自分自身も50歳過ぎたという気持ちがあったでしょ?何かだるくてね。それで日に当たりに行こうと思って、たまたま天気のいい日に駒沢公園まで歩いて行ったんですよ。そしたら、おじいさんから若い女の子が歩いたり走ったりしているのを見たんです。僕は昔中学・高校とずっとバスケットボールをやってたから、実は体育系なんですよ。それでその日はウォーキングだけでしたんですけど、走りたくなったの。それで翌日、短パンとTシャツに着替えて走ったら100メートルも走れなくて(笑)。でも気持ちよかったのね。それから歩きと走りを混ぜてやってて、今現在も続いてるんですけど、1週間ぐらい前に30キロぐらい走った。」
●すごいですね。
「走れたんですよ。そうこうしてると、そこで走ってる常連の人と知り合いになって、その人が人間の体と走ることについて研究してたんです。それで僕がいい気になってとばして走ってたから、そういう運動の仕方をすると体に悪いから、ゆっくり走った方がいいって。そうやって走ったら20キロぐらい走れたんです。それで全然楽なんですよ。そしたら体温も高くなって体がすごく活性化したんです。それで発声練習をしたら高い声も出るようになったし・・・。僕自身も自分に負けていた所があったから、このまま老人になっていくんだろうなっていうのがあって、ファンの人には申し訳ないけど、俺はこれからはプロデューサーで行こうって。でも、この前のライブに出た時はそういう事を考えずに楽しめたし、全然無理もしなかった」
●こんな事を僕が言うのも何なんですが、ウルフルズ、ユースケ・サンタマリア、コレクターズを通して現役のお客さんを相手にしてたわけじゃないですか?
「ひょっとしたらあの時点では、メンバーより僕の方がお客さんの事を考えていたかもしれないね」
●という事は、銀次さんがやるという事がアリなんですよ。乱暴な言い方ですけど(笑)。
「小室くんが作ったJ-POPの津波のようなウェーブに、僕は対抗しきれなかったんだろうね。あまりにも大きなウェーブだったから、自分の持っているメロディの感じとかがウケないんじゃないかと思った。その間もずっと考えていたけどね。そして片や麻波25とかが出てきて・・・。僕の最近のお気に入りはクレイジーケンバンド。今年の夏は「GT」をよく聴いてましたね。それで実際ライブを見に行ったのね。素晴らしかった。」
●それはいつのライブに行かれたんですか?
「ハプニングスフォーが再結成するというので、SHIBUYA-AXに見に行ったんですよ。そしたら前座で出ててラッキーな事に見られたんですよ。もうずっと見たくて・・・一級のエンターテイメントでしたね。僕なんかが好きなユーモアの要素があったし、でも泣ける曲もあるし。それで即CD買いに行きました」
●僕が言うのも何ですけど、ワンマン・ライブを見るのは本当に体力使いますよ。3時間ノンストップですから(笑)。
「普通前座って30分ぐらいじゃないですか。1時間20分ぐらいやってましたよ。(笑)。それでハプニングスフォーの出番が押して、終わったの12時近くて、主催者は延滞料金とか払ってるんじゃないですか(笑)。」
●クレイジーケンバンドのメンバーってみんな40歳超えてるじゃないですか?でも40超えてるなり演奏のタフさや知識もあって・・。
「やってる音楽も、色んなものがミクスチャーされて醸成されてるよね。単なる思い付きじゃなくて、何層にもなってる。僕はクレイジーケンバンドが出てきた事にもすごく励まされた。」
●感覚はティーンネイジャーですよ。
「そうなの。まさに15歳の気持ち」
●だからライブに着てるお客さんも若い。という事は、やっぱりアリなんだなって。
「お会い出来たタイミングが良かったんだと思う。小室哲哉が出て来た事によって、マニアックな事をやってちゃダメなんだ、ビジネスとしてやらなきゃいけないと思い過ぎたんだろうね。職業としてやるって決めつけちゃって。」
●確かにそれでいいと思ってたんです。僕はコレクターズというバンドも大好きで、ネオGSもリアルタイムだったので、伊藤銀次さんが手掛けたアルバムもすごくいいアルバムだと思ってました。
「あれは実は不本意だったんだよね。制作時間がなかったから。最初に曲をもらった時は、僕が思うコレクターズっぽいものじゃなかったんですよ。こういうのを今更やらなくてもいいんじゃないかって。しかもあの時、ファッションでもモッズが流行って行ったの。彼らもそれを知ってたのね。向こうではスモール・フェイセズとかが神格化されてるんだって。そしたらやろうよって。今モッズやらないとあと何年やれるかわかんないじゃんって。しかもコレクターズが堂々とモッズやって文句言う人は誰もいないよね」
●いないですよ。
「それで途中から修正したの。それから『涙のレインボー・アイズ』とかを提案したの。『涙のレインボー・アイズ』はジェリーフィッシュの『裸の王様』みたいなリズムでやろうって。だけど時間がなくてね。前から書いてたのと合わせて半々で入っちゃったんですよ。それでちょっと焦点が分かりにくいものになったかな。」
●あの時期は、吉田仁あsんとコレクターズは長くやってて、僕はリスナーとして聴いていたんですけど、すごく色んなものを詰め込みすぎてたと思ったんです。曲によっては邪魔に聴こえるというか・・。
「あれは仁さんじゃなくて、加藤(ひさし)くんのアイディア。僕も何年もキャリアがあるから分かるんだけど、10年過ぎると自分に飽きてくるんだよね。そうるすと、加藤くんは元々THE WHOだとかモッズで始めたでしょ。モッズを入口にして、ピンク・フロイドとか色々聴くようになると、ある種ポップ・マニアな所を持ってるんだよね。例えば僕が『ドリーム・アラベスク』とかあの辺でサイケをやりたがるのと同じなんですよ。色んな事がやりたいんだと。それをコレクターズというブランドの中でやっていくという。プロデュースを手掛ける時に、いくつかコレクターズというブランドでやらない方がいい曲も加藤くんは書いてきたんだけど、僕はこう言ったんですよ。"桑田佳祐とサザンオールスターズみたいなのしない?って。コレクターズでやらなくてもいいようなビート・ポップの曲を加藤くんは書けるんだから、それを加藤ひさしのソロ・アルバムでやろうって。それをコータローくんに言ったら"加藤ひさしの『LONG VACATION』みたいなアルバムいいんぢゃない"って(笑)。実は僕と(古市)コータローくんとでジャケットのアイディアも出してたの。加藤くんが短パンにTシャツでヒゲぼーぼーで、サーフボードを持って、ウエストコーストとかハワイじゃなくて、ドーバー沖の海岸に立ってるという。冷たい風を受けながらさ、寒そうにしてるというジャケットで加藤ひさしの『LONG VACATION』。その中にはロイ・ウッドの『I WISH CHRISTMAS』とか、すごいポッピーな曲を並べて、それが僕の計算だったの。ソングライターとしての加藤ひさしは、こんなにいい曲を書くんだという横への広がりを持たせたいって。それと加藤ひさしは詩人じゃないですか。ピーター・マックスみたいなポップ・アートみたいなものを付けた絵本、それと加藤ひさしの詞が出ているような高い装丁の本を出すという。例えば青山ブックセンターでしか売らないような本を作って、それと加藤ひさしのソロとコレクターズという風に、彼の才能の出口を分けて出せば絶対に成功するって、彼に言ったの。そしたら彼は"俺はそんな文化人みたいな事はやりたくない。俺はただの1バンドマンでいたい"って言って終わっちゃったの(笑)。」
●その話を加藤さんと話した事があったんですよ。それは僕の中での長年の謎だったんです。銀次さんとコレクターズがやるというのは、僕の中ではすごく歴史的な出来事だったんです。ただ、それが1作だけで終わってる。これは一体何なのだろうって思ってて。それで初めてコレクターズにインタビューした時に、オフレコでもいいので教えて下さいって。そしたら加藤さんが一言。"どうしても俺っていう人間は、根っからひねくれてる。タイミング的に銀次さんの言う通りにしてたら多分売れてた。それも分かってるんだけど、出来ないことだってあるんだ"って。
「そうなんだよね。加藤くんともよく話したの。僕のポップ・マニア度はよく分からないけど、ネタにするものとして、イギリスで1度リリースされて売れてなかったものをやる時は気を付けた方がいいよって。自分は好きなんだけど何でこの曲が売れなかったのかという所を注意していれば、そういうものが売れる。でも加藤くんは、売れなかった部分も入れてきちゃう。だって売れなかった所が好きなんだもん」
●加藤さんもコータローさんも銀次さんの事をすごく尊敬してるし、絶対好きなはずなんですよ。
「だから僕は、1作で終わったから悲しいとは思ってなくて、その次に彼らがセルフで出した時に、やっぱりあれを通った何かがあったもん」
●だから、すごく銀次さんの動向を気にしてる時期がありました。
「実はものすごい運命があったんですよ。ロンドンのメゾンルージュというスタジオで、ウルフルズのミックスで行ったら、ちょうど僕らの前にコレクターズが入ってて、加藤くんたちが帰り支度してたの。東京でも会わないのに、ロンドンでばったり会って。それでウルフルズのミックスで来てる事を話したんだけど、その時に加藤くんの頭の中にウルフルズの名前が入ったんだろうね。そしたらウルフルズが売れちゃったじゃないですか。それで加藤くんも、後から出て来たTHE YELLOW MONKEYやMICHELLE GUN ELEPHANTが売れてきて、自分たちもそろそろ・・と思ったんじゃないかな。その時に売りたいし、自分達の事を理解してくれる人と組みたいと。それでコレクターズをデビュー当時から気に入ってくれて、自分のライブに呼んでくれたり、番組に呼んでくれたというのもあったから僕の名前を挙げてくれたんじゃないかと。僕は逆に近過ぎるから最初断ったの。ファンだけど、やるとなるとファンの気持ちではやれないからね。コレクターズの本質は壊さないけど、ある所はデフォルメしていかないといけないから、僕はあまりやりたくない仕事だったの。でも加藤くんから直々に話があって、どうしてもやって欲しいと」
●僕はもう一度やらないのかなって、単純に思ってるんですけど。
「結局同じなんですよね。何で加藤くんの事が分かるかというと僕も同じなんですよ。自分の中に作り手とやり手があるって事で。皆さんが好きなのは作り手じゃないでしょ。作り手とやり手を持ってる人は、どっちかがもたげるんだけど、コレクターズの初期は作り手とやり手が一致してた。それが段々活動が長くなってくると、作り手の方が大きくなってくる。僕がコレクターズをやる時にエクスキューズしたのは、やり手としてやりましょうよって事。その為には痩せてくれと。君の作る音楽は素晴らしいけど、その中には聴く人にとっていらないものもある。もう1回原点に戻ってコレクターズに何が求められているのかを考えて欲しいわけ。その時に彼はへそを曲げたポップ・マニア、ロイ・ウッドみたいなものをやりたがるんだよね。あくまでパフォーマーとしてやりたかったのね。でも彼はパフォーマーとしての部分と、頑固なポップ・マニアの部分があって、それを短期間で理解してもらうのは難しかったよね。『涙のレインボー・アイズ』のカップリングの『Sha-la-la-la-lee』は僕が提案したんですよ。"ネオ・モッズ宣言"をするつもりでいきたいから、モッズのカヴァーをやって欲しいと僕が提案したんです。それで僕はてっきりTHE WHOがくると思ったの。そしたら加藤くんが"ネオ・モッズはTHE WHOじゃないんだ。スモール・フェイセズなんだ"って言って、それで色々曲を挙げていく中で『Sha-la-la-la-lee』がいいんじゃないかと。それで英語でやるんじゃなくて、日本語でやってみようという事でやってみたら良かったんですよ。ライブでもウケたみたいだしね。だから何故好きなモッズ一筋でいかないのかなって。モッズ以外のやりたい事がやりたければ、別ユニットでやればいいじゃないですか」
●そうなんですよね
「外から眺めている人と、中にいる人とでは感じ方が違うから。特にこれだけ色々なジャンルの音楽が氾濫している時に、全ての人が好きになる音楽は絶対に作れないよね。でもこの人達には買ってもらうという気持ちで作ればね・・・。ちょうどあの頃、GLAYがコレクターズが好きだったというコメントを聞いたんですよ。今のJ-POPのビート・ポップみたいなものの老舗ですよね。そういうイメージで売りたかったから『涙のレインボー・アイズ』のジャケットも、加藤くんがアニメや写真で行きたいと言ったんだけど、今回はメンバーの写真でいこうって僕が言って、信藤(三雄)さんに撮ってもらったんです。」

(後編へ続く)



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