「77年にソロを出した時にバンド的なものと混ぜてしまって、僕の中で訳のわからないアルバムになっちゃったんですよ。『風になれるなら』はソロっぽいもので、『DEADLY DRIVE』はココナッツ・バンクっぽいもので・・・。当時は何も考えないで作っちゃったから、それはすごく反省していますね。82年に『BABY BLUE』を作る時、僕は沢田研二さんのアルバムのアレンジをしていたんですけど、沢田さんが撮影で来られない事があって、僕が仮歌を歌ったんです。そしたらプロデューサーの木崎(賢司)さんに、"銀次さんはいい声をしている"って言われたんですよ。でも77年に出した時に売れなかったから、僕はもうダメだと勝手に思い込んでいたんです。それで"僕の声はパンチがないし・・"と言ったら"銀次さんの声は今の時代に合ってる"って。僕はどちらかというと、スティーヴ・ウィンウッドみたいなヴォーカルに憧れていて、僕は自分の声が全然ダメだと思ってたんです。僕は音楽的なものはビートルズから始まってメロディのあるものが好きなんですよ。だからギターを弾けばそういう音楽になるし、そのギャップにずっと悩んだ時に、木崎さんが"ポール・サイモンみたいに歌えばいいんだよ"と言ってくれたんです。"パワーじゃなくてニュアンスで歌えば、銀次さんもいいものが作れる"って。当時一緒にやった佐野(元春)くんも『BABY BLUE』出す前、佐野くんが日比谷野音でライヴをやる時に、リハーサルで佐野くんが"今度の野音は銀次にこの曲を歌って欲しいんだ"って言って、ピアノで自分でアレンジ変えて"わすれよう〜"って」 ●やったんですか?! 「やったんですよ!!僕はその時感動しちゃって。佐野くんが"銀次の声は細くて柔らかいけど、シャウトするだけがロックじゃない。銀次にもロックはやれるよ"って言ってくれて。そういう事があったので、『BABY BLUE』ではそれをすごく整理して、ココナッツ・バンクをやって、今回アンダウン・イベントの誘いがあった時に、"伊藤銀次をもう1回やろう"というのがあったんです。そうやって好きな人が来てくれるんだったら、ヴォーカリストとしてしっかり曲をやろうと思って。前よりも歌のニュアンスだとか、そういうものをきちんとこのイベントで出来ればいいと思ったんです。メロディが伝わるような歌い方が出来ればいいと思って。踏ん切りをしっかりつけてやれたんですよね。だから、"喫茶ロック・ジャンボリー"の日比谷野音のライブと今回のイベントは、自分の中でココナッツ・バンクと伊藤銀次の区別がはっきり出来て、非常に有意義なイベントでした。」 ●今回のアンダウンのイベントをやるにあたって、なぜ伊藤銀次さんや杉真理さんの事が浮かんだかというと、もちろん自分がリスナーとして聴いてきたという事があるんですけど、僕はアンダウンという雑誌をやっている中で、1つのテーマみたいなものをようやく今年の夏ぐらいから見つけたんです。それは何かというと、はっぴいえんどというものが世の中に評価されていて、今年『HAPPY END PARAD〜tribute to はっぴいえんど〜』というトリビュート・アルバムが発売になった事でまた話題になりましたよね。僕もはっぴいえんどは好きで聴いてましたけど、その中で1つ疑問があったんです。何で誰も"アフターはっぴいえんど"と言わないんだろうって。僕が後追いなりに理解したはっぴいえんどの良さは、全然違うものと日本人としての気質のせめぎ合いが素晴らしい作品を生み出した事だったというか。でもそうじゃなくてもっと今のシーンの中で生きるべきものがあるんじゃないだろうかと。それは何かと言ったら、もっと普通に聴けるポップスというものが世の中に普及してもいいんじゃないかというのが、単純な思いとしてあったんです。もちろんそこで僕が若手をプッシュする事は普通の事なんですけど、そうでなくって、もっと世代的に超えた部分で、上と中間と下を上手く縦で繋げていく事が出来れば、誌面的にもイベント的にも面白いものになるんじゃないかと。そう考えた時に出てきたのが伊藤銀次さんと杉真理さんだったんです。 「そうでしたか。それは有り難いですね。」 ●ココナッツ・バンクや『DEADLY DRIVE』とかは、僕自身はものすごく後で聴いたんです。『STARDUST SYMPHONEY'65-'83』から始まって、辿っていくうちに『DEADLY DRIVE』というアルバムを聴いたんですけど、それを聴いた時、ものすごく悩んだんです。 「でしょ?そうなんですよ。70年代と80年代は、日本のポップスの歴史の中で象徴なんですよ。混迷の70年代を吹っ切って、80年代に対応する音楽を作ろうと思って作ったのが『BABY BLUE』なんです」 ●そこが再評価されない事に対するもどかしさや悔しさみたいなものが僕にはあって、そういうものが今動いている原動力だったりするんです(笑) 「『BABY BLUE』は僕の中で過去の色んな流れを全部一旦整理しようと思って作ったアルバムですから。僕の一番いい所だけを出していこうという。『DEADLY DRIVE』は日記ですよ。でも『BABY BLUE』は、過去の日記の中の一部をきちんと自分で形にして、その部分だけを聴いて欲しいと思って作ったもの。それは、『DEADLY DRIVE』と『BABY BLUE』の間に、佐野元春のプロデュースに関わって彼と一緒に成功した事や、沢田研二やアン・ルイスといった今まで自分が知らなかったメジャーで音楽を作っている人と仕事をした事が影響していると思います。その時代に自分の一番いい所をどんな風に見てもらうかを考えて作らないとダメだなって思ったんです。だからある意味『DEADLY DRIVE』は僕の中でもう一度出し直したいアルバムではあるんですよね(笑)。『DEADLY DRIVE』は音楽をある程度知った人達が楽しめるものだったかもしれません。『BABY BLUE』は、佐野元春とライブを廻ってて、作る人間にちゃんとなっていくという事を現場で体感したので、そういう気持ちで作ったんだよね。『BABY BLUE』の時、僕は32歳だったけど・・・」 ●32歳の時の作品だったんですか・・・。 「そうなんですよ。でもライブを見に来てるのはみんな高校生とかなんです。僕はそれを恥ずかしい事だとは思ってなかった。当時、アメリカやイギリスではディスコ・ブームやAORが終わって、エルヴィス・コステロとかパンクやニューウェーブが出て来てて、彼らの音楽をみんな新しいと思って聴いてたんだけど、60年代のイギリスの音楽に近いものを感じて・・。一回りしてたから、僕の思春期の音楽じゃないの?って。ただ、解釈は新しかったから、僕も青春時代に体感したビートルズなどの影響を受けた音楽をもう1回きちんとやれるなって。それで僕はプロデューサーに、"中年バブルガム・ミュージックをやりたい"って言ったんです。その頃、僕はまだルックスが32歳に見えなかったから・・・」 ●確かに、見えませんでした。 「25,26歳ぐらいにしか見えないから、もう1回やれるなって思ったんです。それで自分が好きな音楽・・・モータウンやバディ・ホリーというような音楽を下において、自分のメロディの部分やポップスみたなものを何曲か書いて、プロデューサーと一緒に選んで、あくまで僕のような声でも活きていくという曲ということで、作っていったのは覚えてますね。77年の『DEADLY DRIVE』の自分のイケてなかった感があったから出来たアルバムです。」 ●そうだったんですか。 「当時は東京ディズニーランドが開園したり、「E.T.」が上映されたり、大人達もジーンズを履くようになったり・・・。昔は、大人なんだからこれからはガキみたいな事が出来ないような時代感になりかけてて、ちょうどポパイ・エイジで来た時期だったから、僕のような作品でもアイドルっぽっく聴こえるんじゃないかと思って。そしたら予想外に若い人に支持してもらって、僕もびっくりしました。」 ●銀次さんの作品を初めて聴いたのが、中学校1年生の時だったんですけど、普通に聴けましたよ(笑) 「そうですか(笑)。ただ注意しないといけないのは、若ぶってるなっていう事は避けたかったの。自然体でやるという。自然体でやっても心の奥にある若さだから。実際に年齢が18歳ぐらいの人でも考えが老けてる人はいますもんね。」 ●いますね 「30年近く音楽をやってると、色々な経験で知った事が沢山あります。それで自分の中に考え方が出来てきたんだけど、この曲いい悪いというのは、初めてギターを持った時の15歳の気持ちで判断しないと。それがなくなっちゃったら僕はもうやめようって。長くやってると垢がたまってくるんですよね。そのたまった垢を年期だと思っちゃう人が多いんですよ。垢というものは、いつも落としていかないと。技は覚えていくものだけどね。自分にそれがなくなったら(音楽)やめようかなって。まだあるから続けてるんだけど、やっぱり大事なのは15歳の時だと思うんですよね。『BABY BLUE』はそこがポイントでした。実際にアレンジも自分でやってる訳だから、15歳が作れるものじゃないよね。でもそこから聴こえてくる息吹みたいなものが、15歳の気持ち。それをプロデューサーの木崎さんがチェックしてくれました。」 ●その当時は、銀次さんがまだ歌詞をあまり書いていない時期ですよね? 「あの当時は僕が歌詞を書くと、ココナッツ・バンクになっちゃうから。それで木崎さんと相談して、何人かの新人の作詞家を紹介して頂いたんですよ。その中で売野雅勇さんの詩がすごく気に入ったんです。当時、売野さんは『少女A』が売れる前で、コピーライターのお仕事もなさっていて結構時間もあったんですよ。『BABY BLUE』や『SHADE OF SUMMER』にしても、売野さんに歌詞を書いてもらう時に"僕は過去にこういう体験があったんだけど、こういう事をテーマにしてくれませんか"とお願いしていたので、全て売野さんにお任せという感じではなかったです。僕が書いちゃうと奇妙な何轜になっちゃったり『幸せにさよなら』みたいにシンプルになりすぎる。そういう意味では『DOWN TOWN』とかも書いてたけど、あんなにメロディの数が多いものに短期間で詞をつける自信がなかったんで、あくまで僕のメロディの世界から先に曲を作ってもらうという。アレンジをし、曲を書き歌うという所で、僕の代わりに詞を書いてくれる人として売野さんにお願いしたんです。」 ●僕は1度売野さんのインタビュー記事を読んだ事がありまして、それは売れっ子作詞家の時期の記事だったんですけど、その中で、自分の中の作詞の原点は伊藤銀次さんに書いた『SHADE OF SUMMER』だって言ってらして・・・。その時に話してたのが、沢山書いた中で自分のブレイク・ポイントはシャネルズや中森明菜『少女A』やチェッカーズだったりするんですけど、原点は『アメリカン・グラフィティー』の世界のような青春の1コマみたいなものを自分で切り取っていきたいと思うと。今はチェッカーズでそういう事をやってるけど、それが出来たのは、伊藤銀次さんと仕事をしたからと言ってました。」 「そうなんですか。それは嬉しいですね。『SHADE OF SUMMER』の歌詞を読んだ時にすごく良かったんですよ。その時に売野さんが、"僕は仕事をする時はプロだから、自分の私情は入れない。だけどこの歌の中には、ちょっと恥ずかしい自分のリアルなものを入れてしまいました"と言ってました。普通は頭の中でフィクションとして作っていくんだけど、これはちょっと違うと。"あのメロディを聴いてたら、そういうものが思わず出てしまいました"と言ってましたね。"だから僕はこの曲は冷静に聴けません"て。」 ●雑誌の中でも何曲か代表曲を挙げてるんですよ。『少女A』や『涙のリクエスト』も入ってるんですけど、伊藤銀次さんの『SHADE OF SUMMER』がそこに入ってて。 「嬉しいですね。一期一会という言葉があるように、僕は音楽を通して人と出会ってそこで自分1人では作れない世界が出来て、お互いに触発し合える仕事がすごく好きなんですよ。それは売野さんだけじゃなくて、『WINTER WONDERLAND』は、何曲かの作詞をやってくれた康珍化さんが別の作詞の仕事をしている時に"銀次さんさぁ、大瀧さんが夏休みのアルバムでいくんだったらさ、銀次さんは冬休みのアルバム作ったら?"って言われて。それはいいなと思ったので、そこでコンセプトが出来ました。それで僕もアイディアがあるんだよって。『雨に濡れても』という曲が合ったから"雪に濡れても"みたいな曲もあったりいいじゃんて言ってくれて、『雪は空から降ってくる』が出来たんですよ。そこで僕の中でバカラック・オマージュみたいなものが出てきて・・。いわゆる作曲家と作詞家というプロが出会って仕事をするというよりは、チームですよね。銀色夏生さんと仕事した時もそうだったの。売野さんも銀色さんも、作詞家だけどアーティストだから。だから持って来た歌詞に対しては、僕はよく出来ていても"もうちょと素人っぽくして欲しい"という話もしたし、彼らはそれを理解してやってくれたし。こんな事を言うとみなさんに失礼だけど、僕というものを表現してもらう為に、彼らにやって頂いたというのはありますね。逆に彼らと仕事をした事によって、詞の書き方について"なるほどな"っと思って、それが僕のモードに入ったのかな。」 ●そういうある種、習作めいた部分もあったりしたんですか? 「僕が詞にこだわりだしたのは、プロデューサーの木崎さんとの出会った事もあるんです。もともと、僕は作詞家としてスタートした訳じゃないでしょ?たまたま詞も書かなきゃいけないから書いただけで、自分としては詞よりもサウンド面に興味があったし、詞には自信もなかったし。それが色々な人と仕事をして、そのモードが入ってきて、木崎さんに言われるようになってから、色んなアーティストの詞も気になりだしました。時間が経って小慣れてきたものはあるような気がするんですけど、僕が何故、伊藤銀次というものを封印してしまったかというと、東芝時代の92年ぐらいまでは、"まだ俺は若い"と思ってて、永遠に青春ポップスをやりたいと思ってたんです。年を取ったからといって枯れた音楽はやりたくない。でも年は取っていく訳だから、詞の内容が難しいという。『BABY BLUE』の時には、サウンドが永遠の若さを持ったような言葉で、それでいて30代なんだけど思春期の気持ちを忘れていないみたいな気持ちでやれたんだけど、40代、50代になった時に、"今でも君は若いよ"と言われる歌は作りたくないのね。もっといい大人になっているという歌を作りたいの。僕と同年代の人は結婚してお父さんになり、そして今では出会い系サイトで不倫したりとか(笑)。不景気で家族を支えられないとか、色んな問題があったりするじゃないですか。そういう人達にメッセージを与えられるような詞のアイディアを、伊藤銀次メロディで歌いたいんです。でも、それがなかなか見つからない。いくつかの詞のテーマは、僕のノートに書き溜めてあるんですよ。それで詞の世界は"おっ!"と思うような・・・。"分かっていたよ はじめから"という言葉は、ものすごく説得力のある言葉だと思うんですよ。子供じゃ言えない言葉だもんね。その40代、50代ヴァージョンみたいなものを作りたいなって。竹内まりやがステージ活動を止めてから出した『家へ帰ろう』は"冷蔵庫の中で凍りかけた愛を〜"という歌詞からして主婦じゃないですか。でも主婦の歌なのにちゃんとポップスになってますよね。あれを男でやりたいなって。それを考え始めてからもう何年も経つんだけど、なかなか上手くいかなくて。でも最近ちょっと見えてきてる。それが出来たら僕はもう1回歌いますよ。 ●現状のソロとしての最後の作品となっている『LOVE PARADE』がすごく好きで、こういう言い方するのも何ですが、久々に自分の中での伊藤銀次が帰って来たというイメージがすごく強かったんですよ。"まさにこれだよ。ドンピシャだよ"と思って聴いたんですけど(笑)。 「諸事情を話すと、あの時は色々な問題があったんですよ。僕の中では非常に激動の年で、何とかソニーから1枚出せたんですけど、所属レコード会社に伊藤銀次のシンパが少なかった事もあって・・・。僕自身は今みたいに確信を持って出してた時期じゃなくて、もう1度原点に戻ろうと決めて作ったんです。いわゆる銀次メロディをもう1回やろうと。途中、東芝に入った頃はバンド・ブームがあったり、「イカ天(イカすバンド天国)」があったので、必ずどこかで伊藤銀次の中で"ココナッツ・バンクの伊藤銀次"がもたげてくるんですよ。分からなくなってくると、伊藤銀次でやる時にココナッツ・バンクが混入してくるんです。だから僕の中では二面性があるんですよ。」 ●それは『BEAT CITY』以降ですか? 「そうです。ロック魂みたいな部分と「アメリカン・グラフィティー」みたい部分の2つが、どうしても整理がつかないんですよね。で、今回イベントでココナッツ・バンクをやろうと言われた時に、最初は出来るかなと思ったんだけど、過去の自分のものを全部聴いてみたら、『BEAT CITY』はココナッツ・バンクだし・・・。逆に桑田くんはサザンオールスターズと桑田佳祐を混入しないようにやってるじゃないですか?ああいう風にやれるんだったら、僕もすごく健全にやれるなって、この年になって思えたの。それが試しにココナッツ・バンクをやってみた事かな。『BEAT CITY』は、たぶんココナッツ・バンクでやるものでしょう。それが合うと思うんです。」 ●東芝時代の銀次さんの曲は、いつも考えながら聴かないといけない所があって・・・。 「そうなんですよね。コンセプトっぽいんですよ、すごく。異空間みたいなものがあって、日本の生活や風土に密着したものではないんですよね。これはファンの方には申し訳ないんだけど、あの頃はちょっとやけっぱちになってたんです。つまり、僕は間もなく40歳だと。それでも支持してくれていた方には本当申し訳ないんだけれど、俺は40歳になったらyらないかもしれないと思ってたの。それでやり残した音を全部やってしまおうと思ってたんだよね(笑)。なんか残務処理みたいなアルバムを作ってたような気がする。サイケが大好きだったからね。ちょうどあの頃はXTCの別名バンドのデュークスとか、ジュリアン・コープを聴いた時に心がときめてワクワクしてたの。」 ●コレクターズの事を言ってたのもその頃ですよね。 「そうそう、それで、僕はスティーヴ・ミラー・バンドだとか、グレイトフル・デッドだとかピンク・フロイドとかが大好きだったので。ああいうテイストの音を今まで作ってなかったし、本当に作りたいこんな事を言っちゃいけなんだけど、僕はどんなものでも売りたいと思って作るから、マニアックと思って作った事がない。それは『DOWN TOWN』を山下(達郎)くんと作った時からずっとそう。やっぱり沢山の人達に聴いて欲しいと思って作ったの。でもあの時は、僕も半分やけっぱちだった。事務所との関係もあまり良くなかったんだよね。精神的にはあまり良くない時期だったかな。ちょっと自分を見失ってた。だから、スタジオの中では自分自身に納得して作ったったの。でもステージでやると、みんなクエスチョン・マークが出てたのは感じたね。それで一旦中断して、要するに何でもやれるんだけど、伊藤銀次が何をやるべきなのかという事を考えたんです。実は、『LOVE PARADE』の時にスタッフから"東芝時代の作品は、はっきり言って銀次さんじゃないと思う"って言われたんです。やっぱりポリスター時代のものとか、『風になれるなら』とか『幸せにさよなら』とか、ああいうのが銀次さんだと思うって。そこでもう1回ソングライティングをちゃんとやってみようと思って作ったのが『LOVE PARADE』だったんです。 ●サイケ時代の銀次さんがあったおかげで、僕は『エミリーはプレイガール』とかピンク・フロイドとかのサイケを勉強する事が出来ましたよ(笑)。 「そうですか(笑)。僕や佐野元春は妙なミュージシャンとして自分の音楽だけやってればいいのに、日本の音楽にはこういう部分が足りないからみんなに分かってもらうべきだよねっていう、啓蒙者的な考え方があって。日本でブライアン・アダムスを売った張本人は佐野元春ですよ。「サウンド・ストリート」でさんざんかけてたもん。だから音楽を理解してもらうために、自分が種まきまでやって環境作りまでするところもあるんですよね。」 ●当時、僕は東北の田舎に住んでた高校生だったんです。だからサイケと言われても"何?"って思うじゃないですか?当然田舎のレコード屋にはないわけですよ。そうなってくると自分で調べて行動しないと何も手に入らないから、雑誌の通販を見てピンク・フロイドのジャケットも見た事もないけど、とりあえず注文してみようとか。それで聴いて"何じゃこりゃ?何がいいんだろう?"って思って・・・。 「僕だって、中学生、高校生の時に、スパイダースの「黒百合の歌」の中にシタールが入ってて、そういう所から受け継いできたものですよ。だから、バトンをどんどん渡していくという感じです。はっぴいえんどにしてもみんなそうで、もちろん手伝ってくれて応援してくれた人はいるんけど、僕達自身がある種文化的な事も渡していったと思うんですね。それは僕等がかまやつ(ひろし)さんとかを見て育ってきているから。それで自ら耕して種をまいて、そうやっていく中で僕の知らない所で影響を与えていたりとか、音楽の世界に入ってきてそういうイズムを色んな仕事をしてくれているという事は、ものすごく嬉しいです。レコード会社がプロモーションする事も大事だけど、それだけじゃないと思う。やっぱり生きた音楽が、色んな沢山の音楽がある中に、その奥にあるその人の気持ちだとか考え方が伝わっていって、その人も同じように音楽の仕事をしてたりする事・・・それが時代がどんどん変わっていく事だと思うんですよね。」 ●本当にそう思います。 「ただ、それを意識してる訳じゃないんだけど、僕は必ず音楽を聴いてて分かるんですよ。この人ってただ売る為だけに作ってないとか。それが心を打つ所だったりするし。何を考えてるのか分かるんですよね。沢田研二さんとの仕事で、かまやつさんに会った時、僕の考えている通りの人だったし。未だにかまやつさんは現役じゃないですか。だから自分の中にも似たようなものを感じてるから、かまやつさんの事を好きになるんですよね。かまやつさんは僕の事を裏切らなかった。あの曲で感じた色んな曲の夢だとか、遊び心だとか、そういう日本の歌謡曲の方程式を知っていながら、それをわざわざ外した所で作ってる人だから。さっきおっしゃってた世代に僕は繋がってると思ってるんです。僕はかまやつさんの世代からバトンを受け継いで自分も音楽を作ってて、それが次の世代の人に引き継がれる・・・。そうやって地層みたいになって、1世代だけじゃなくて、何世代かになった時に初めて日本の音楽はマニアックとかそういう事でなく、皮膚感覚でやるようになってると思う。 ●この前のイベントの最後で"銀次さんがセッションの時におっしゃったすごく印象的な言葉があったんです。"今日出た連中は、方向性は違えど同じポップ・マインドを持ってる"って。僕はその一言を聞いて、イベントをやって良かったなって思いました。 「あのメンツだとね、僕が締めないとダメみたいな印象があってね(笑)。みんなが印象的なイベントだったと思って帰るには、一言気の利いた事を誰かが言わなきゃ。今の若い人達っていうのは、そういう事を言おうと思ってると思うんだけど、それを言う事が恥ずかしいと思ってる世代だと思うのね。僕は近所のファミレスに行くんだけど、そこでコーヒーを飲みながら本を読んでると、学生達が来て話してるのが聞こえるの。でも肝心な事を言わないで、その周りで言葉を回してるだけ。これを言うと、ちょっとあんた不粋じゃなかみたいな傾向があると思うんだよね。だからこの周りを回った会話をしながら、みんあでこの事を理解しあうっていうのがあって、そいういう世代なんだなって。人を傷つけたくないし、自分には関わって欲しくない。お互いに距離を置いて付き合ってるのを見て、大人なんだなって思ったのね。そうるすると、あのイベントでそういう事を恥ずかしくなく言ってもいいとしたら僕だろうなって思ったんですよ」 ●あの一言は、僕もそうですし、イベントが終わった後に色々な事務所の方やアーティストも"あの一言で全てが理解出来た"と言ってました。まさしくそうなんですよ。あそこに出てた人達というのは、全員方向性はバラバラなんですけど、僕の中にある1つの流れでは一緒なんですね。それは何でと言われたら分からないんですよ。それは僕の感覚でしか選んでないし。それで正直、当日まで大丈夫かなという不安もあったんですけど、開いてみたら自分の思い込みでやって良かったって。 「それはあの時に鈴木さんにお会いして、リハーサルの時、バイブレーションを感じたから。あとはマネージャーから聞いてた"ユキさんがココナッツ・バンクで行くなら、僕は伊藤銀次で行きたいです"っていう短いコメントとか、"『雨のステラ』と『BABY BLUE』を歌って欲しいです"という言葉から、僕はバイブレーションを受け取ってましたから。そういう人のイベントですから、やっぱり成功で終わらせたいですよ。今のポップ・シーンで活躍している若いアーティスト達は、すごくかわいそうだと思う。僕らの時代は、ある意味売れない事が勲章というっか。つまり、僕らなんかが売れるような世界じゃなかったんですよ。入る間口がなくて、徐々に入ってきたけどね。よくレコード会社の人に言われるんですよ。"いい音楽を作ってくれよ!売れなくていいから"って。考えてみれば悲劇的な言葉ですよね(笑)。売れなくていいってどういう事ですかっていう。でも、それを言われてもおかしくない時代だったの。僕達自身も"俺達なんて売れる訳ない"と思ってる時もあった。でも今は、売れなきゃいけなくなったでしょ。という事は、昔はライブハウスで一緒に、例えばムーンライダーズと僕達が途方も無いようなデッドバーンしたり、そんな事は出来ないでしょ、今は。他のバンドの事を見る余裕なんてないの。自分達の事しか考える余裕がない。それと、今ヒット・シングルを作らないといけないとか、1年〜2年醸成したようなものとか、今の自分が何をやってるか分からないけど、どうなっていくのか分からないという余裕がないのは、ものすごくかわいそう。でもそういう意味では、自分達がやっているシーンに閉じこもっている訳じゃなくて、今は本当に風が吹かないんです。ムーンライダーズがいたり、センチメンタル・シティ・ロマンスがいたり、メンタンピンがいたりという同時多発で音楽的には違っても、意識としては今までになかったものを作ろうという人達が現れた時に、どんなに心強かったか。 ●今はないですね。 「今はくくれないんですよね。サウンドの細かい所は違いますよ。でも大きな風が吹かないと、ユーザーでも分からないんですよ。」 ●そうなんですよ。 「渋谷系が最後じゃないですか」 ●僕はフリーペーパーをやり始めた時、停滞している事は徐々に感じてて、たぶんこのままやってたら何も起こらないし、何事も変わらないと思ったんです。だったら、待ってるんじゃなくて、自分で起こすしかないという。 「こういうものはこういう名前の音楽なんだと理解してる人がレッテルを貼ってあげるべきだよね。かつてニューミュージックという音楽をソニーが考えて、フォークなんだけどその辺の音楽と違うよねと。そこでどうすればいいかと思ってたら、そこに非常に無責任な人が"新しいんだからニューミュージックでいいじゃないか"と言って付けちゃったんだけど、あれがもし"ニューフォーク"だったら、あんまり響きはよくなかったかもしれない。とりあえず、僕らみたいに色んな音楽を理解している人間は、自分の中でちゃんとカテゴライズ出来るんだけど、何も知らない知識のない人達にこれはこういうものだよっていう事・・・例えば『喫茶ロック』という名前を付けるのもそうかもしれない・・・それはすごく大事な事だと思う。」 ●僕が敢えて"シティ・ポップス"と言ったのは、多分様々な誤解を受ける可能性もあると思うんです。でも、今言う事が大事なような気がしてて。じゃあどういう音楽なのか?と言われると、まだ言葉につまるんですけど、ただ僕がいいものと思うものかなって(笑)。昔あったシティ・ポップスを懐古的にみんなに伝えたいという訳じゃないんですよ 「すごく大ざっぱな分け方をすると、浜崎あゆみは非常に現代的なシンセサイザーを使ってるけど、あれはシティ・ポップスじゃない」 ●そうですね 「少なくとも、まだMISIAの方が、シティ・ポップスでしょ?」 ●そうです。そうなんです。 「そういう事なんですよね。浜崎あゆみは昔の演歌に近い物を持ってる。すごくドロッとしたフォークだとか、そういうものを持ってますよね。僕は浜崎あゆみと河島英五は同じ質感です。山崎ハコかもしれないね」 ●情念の音楽じゃないんですよ。そういう事じゃなくて、もっと聴いてて気持ちいいとか、音楽を一番最初に聴いた時の原始的な感動みたいな・・・爽快感とか。何でと言われると困るんですけど。 「人間の奥底にあるドロドロしたものよりは、もっとデリケートなものかもしれない。」 ●まさに先程の話で売野さんが言ってたような・・・。 「そうなんですよ。普段の生活の中で、ちょっとした心がチクッと痛くなったりする事・・・それをいうのは激しく泣いたりするのと同じくらい大事な事で。佐野元春の音楽は、一見シャウトしたりロックなんだけど、常に裏打ちされているのはデリケートな気持ちなんだよね。そうでなきゃ、彼には『SOMEDAY』は作れない。『Young Bloods』だってそうですよ。ディスコ・サウンドみたいになってるけど、あの中で歌われている"ハガネのようなウィスパー"。ハガネとウィスパーは正反対の言葉なんですけどね。」 ●昔僕が高校生の時雑誌を読んでて、佐野さんが昔の事を語っていくインタビューの中で、「ガラスのジェネレーション」を初めてハートランドで合わせた時に、銀次さんがギターソロを入れたら、銀次さんの所に佐野さんが寄ってきて"銀次、そのジェイ・グレイドンのようなギターは僕の仲間じゃない"って。 「そうそう。"僕の仲間はアーバンなサックス・スタイルなんだ"って。そこで僕はどう考えたかと言うと、売りたかったの。僕としてもプロデューサーとして、彼の考えている事も良く分かる。あの頃、彼はブルース・スプリングスティーンのような、ニューヨークとか大都会に近い所の音楽を目指してたから。でも僕は、"これは絶対売りたい!"と思って。ジェイ・グレイドンのようなギター・スタイルは、いずれは流行りにはならないと思うけど、いわゆる佐野くんの本質に近い音楽を理解してない人や、全くノンポリの胸がトキメクような少女達の気持ちを掴めると思う。そうやって何分か話したんですよ。それでも分かってもらえなかったら、サックスにしようと思ってたの(笑)。だってアーティストの考えてる事が一番大事だからね。そこでアーティストがそれで行きたいと保証するなら、それはそれ行こうと思って腹くくって話したら、佐野くんが"分かった"って」 ●えっ!?そうなんですか? 「だから、世の中の人は佐野元春は頑固な人だと言ってるけど、考えをちゃんとぶつけて話せば全然そんな事はないよ。銀次は何を考えているかというと、売りたいと思っている。佐野くんもヒットが欲しかった。僕は別の経験で、NHKの「レッツゴーヤング」に別のバックバンドで出てる時に、ちょうど売り出し中のプラスティックスがやってて、後ろでスクール・・メイツが踊ってたんですよ。そこでものすごくシュールな景色だなと思ってたんです(笑)。あれを見た時に、佐野くんがバンドやってる時にスクール・メイツが踊ってたら面白いなと思って『ガラスのジェネレーション』のアレンジメントについて話してるときに、その事を言ったの。"ガンガンとしたアレンジをやって、後ろでスクール・メイツが踊ってたら面白いよね"って話したら"いいねー"って言ってて。その時は冗談かと思ったのね。そしたら『ガラスのジェネレーション』出した後に、彼が"ッツゴー・ヤングでそれが出来なかったのが僕がすごく残念だったって(笑)。面白い人でしょ?」 ●(笑)本気だったんですね。 「最初に『ガラスのジェネレーション』を聴いた時、僕は"さよならRevolution"という言葉は好きだったの。僕はどう聴こえたかというと"こんにちは80's、さよなら70's"って。僕は70'sを経験してるから。だからRevolutionがさよならなんだよね。"ガラスのGeneration"は70'sのヒッピーやそういう世界じゃなくて、もっと都会化されてきて都会の構造が複雑になってきて、自分が何かをやっいても、都会という中での人間関係や色んな事でスポイルされていく、ガラスのようなGeneration。これは佐野くんの世代なんだよね。そういう風に僕には響いたの。まさにエポックな曲だよね。だから、それを前世代の音楽じゃなくて、元々彼はアコースティック・ギターでやりたいって言ってたんです。僕は佐野元春のプロデュースをする前に一番考えた事があって。彼はブルース・スプリングスティーンやボブ・ディランのような音楽でいきたかったんだけど、そこで僕が一番恐れたのは、彼の前のアリスみたいに日本のフォーキーな人達と同じ仲間にされたくなかったの。彼がロックンロールをやると言っても、オールディーズの横浜銀蝿やキャロルとかの仲間にもされたくなかったの。それで僕の方から『ガラスのジェネレーション』にピアノとユニゾンでシンセを入れて、YMO以降の新世代のアーティストだと見せたかったの。でも彼は最初シンセサイザーなんて嫌だって。ちょうどタイムリーに、僕はウェザーリポートのライブに行っていて、ジョーズ・ザヴィヌルがテナー・サックスをバックにテンションのいっぱい付いた和音を付けて、同じように動いていたのを見たんです。そうするとグレン・ミラーみたいに聴こえるの。たった一本の本物のサックスを入れる為に、シンセサイザーのシンセ・ブラスやっても本物っぽく聴こえるし新しいのね。実はそのアイディアが『Night Life』のイントロ。彼はサックス1本で考えたの。そこでウェザーリポートのアイディアがあったから、これにバックにテンション付けてシンセ・ブラスを効かせてみたらって言ったら、やってみようって事になって。そこなんですよ。佐野元春は、新しく出てきた音楽の古典に憧れているアーティスト。僕は古典を知ってるんだけど、佐野元春を古典の懐古主義にしたくなかった。そこのバランスが良かったのかな。」 ●銀次さんが『ガラスのジェネレーション』で"こんにちは80's、さよなら70's"と言ったじゃないですか。僕はその曲を初めて聴いたのが中学生で、70'sがどんな時代だったのかも知らないし今生きてるものが全てで何も分からないガキでした。ただ、何も分からないガキが聴いて、歌いたいとかカッコ良いとか思える気持ちになったんです。それって重要ですよね。 「そうですね。特に一番大事なのは、音楽に対する先入観がなくていつもフレッシュな気持ちがある、10代の中期とかその頃の人達の世代なんですよ。その人達がポーンと始めて、それを何の先入観もなく聴いた時に、その人の中に届くのが一番大事なんです。そういう音楽を作っていれば、そのジャンルの音楽は生き残れる。とかくそういう事を忘れていたんです。音楽を何年も聴いている人のための音楽を作っちゃっていたという。僕が何故そういう事を思えるかと言うと、ビートルズで育ったから。それまでのロックは不良だとか、そういう先入観を色んな人からすり込まれていたのが、ビートルズが社会現象になってテレビの国際ニュースで話題になっているのを見てすごく好奇心が沸いてきて。僕はその頃まで洋楽を聴いた事がなくて、"友達にビートルズってそんあにすごいの?"って聞いたら"すごくいいよ"って。それで『Please Mr.Postman』と『Money』のシングルを借りてきて、家で聴いたら・・・はじけたんですよ。背筋に旋律かが走った。"Oh Yes〜"というジョン・レノンの声と、あの激しさがね。当時でいうとあれはハード・ロックですから。激しくて切ないんですよ。その時に僕はまさに15歳ですから。さっき話した15歳の気持ちを忘れないというのは、いつも『Please Mr.Postman』を初めて聴いた時の気持ちの事。僕自身がビートルズをきっかけにこの世界に入っていって、自分で音楽を片っ端から聴くようになったし、気が付いたらインド音楽まで聴かされてる訳ですよね。そこにポップスのミラクルみたいなものがあって、それによって人生が変わったりする。音楽を作る時に色んな人から聞くけど、15歳の頃ってちょうど大人と子供の境目でしょ?そういう人達に衝撃を与えるものを意識して作りたいと思う。『ガラスのジェネレーション』を聴いた時に、子供から大人っていうくくりで考える事も出来ると思うんですよね。だからその曲は彼にとって重要な曲になると思って」 ●あの曲はいい曲だと思います。今聴いても。 「ただ、あの曲は佐野くんからしてみると完璧に自分で全て網羅して作ったものじゃなかった。あの頃の佐野くんはアレンジメントとの面で分からない所もあったので、僕のアイディアが半分ぐらい入ってるんですよ。エンディングの部分はビートルズ・イデオムとエレクトリック・ライト・オーケストラ・イデオムを取り入れました。サックスのフレーズや転調する部分は、全部彼が考えたんです。そこに僕は、エキセントリックさを付けたかった。あの頃のニューエイジな感じだとか。それで"キャー"っていうあのギターは、リンダ・ロンシュタットのニューウェーブ・アルバムに入っている、マーク・ゴールデンバーグの過激なギターだったり。あれはもう合作なんですよね。何かのコメントで佐野くんが"これは僕と銀次の共作と言ってもいい作品だ"と書かれていたのがすごく嬉しかったですね。そういう意味では、振り返った時に彼は自分1人でやるとしたら、気に入ってる所もあるけれど、別に彼があれを嫌いという事はないと思う。あのときに銀次のアイディアを入れて、ちょっとキャンディ・ポップな感じで新しいファン層を獲得するには、すごく大事な曲だったから、銀次はああいう風にしたいんだというのは、彼は分かってる。ただ20代でない自分でやる時には、あのアレンジでは歌えないんですよね。だから新しくリメイクしたんじゃないかな。それはやっぱり自分の世代にちゃんとこだわってるからだと思う。『ガラスのジェネレーション』は僕1人でも作れないし、彼1人でもものにならなかった・・・まさにそいういう事なんでしょう。もちろん自分1人でも出来ますけど、すごいパワーを持っている2人が組み合わされば、もっといいものが出来る。『DOWN TOWN』という曲は山下くん1人でも作れなかったし、僕1人でも作れなかった。その出会いというのは面白いよね。」
(中篇へ続く)
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