「飛べないペガサス」

むかし、天山山脈の南にウイグル族の小さな村がありました。シルクロードとかけ離れた場所にあったその村は、すぐ近くにある幾つかの村とだけ交流を持っていました。まるで村を隠すように、“黒い砂漠”が広がっていたためです。死の砂漠はすべての侵入者から村を守っていました。この、わずか百人足らずの村で、人々は争うことなく、羊を飼い、布を織り、作物を育てて穏やかに暮らしていました。

この村に、イーニンという口のきけない少女がいました。彼女の両親は早くに亡くなったので、一人で泉のほとりに住んでいました。彼女の刺繍の腕は母親ゆずりの見事なもので、村の娘たちが年頃になると、娘たちの親は何色もの糸と布と数枚のナンを持ってイーニンの粗末な家を訪れるのでした。

彼女には変わった癖がありました。ときどき天山の方角を見つめては何かを追いかけるように眼を走らせるのです。けれど、そこには鳥も凧も飛んではいません。たまに子供が同じようにその方向に眼をこらしては彼女に訊ねます。「何が見えるの?」イーニンはただ笑って何もない空を指さすのでした。

ある朝、彼女が目覚めると外は一面のもやでした。霞の向こうに白い影が動いています。彼女が近づくと、一頭の白馬が泉の水を静かに飲んでいました。この辺りでは見かけない真っ白な馬です。彼女はそっと馬に近づき、その首を軽く撫でました。白馬は澄んだ瞳でイーニンを見つめました。そして、まるで旧知の親友のように頬を彼女に押し付けると、たてがみに溜まった朝露がはらはらと泉に落ちました。

その日から、彼女の刺繍のデザインは白馬のみとなりました。しかもその背には白い大きな翼まで描かれています。村の人々はイーニンに「あれは天馬じゃないんだ。見事な馬だが、ただの馬なんだよ」と言いましたが、刺繍の馬には相変わらず翼がはためいているのでした。

確かに、素晴らしく脚の速い馬でした。空中こそ飛ばないものの、ほとんど地面に脚がついていないかのように走るのです。背中にはイーニンしか乗せません。他の人が乗ろうとすると、身体をひるがえしてはこちらを伺い、ブルルルルルと笑います。とても賢くて美しいその馬を、村人たちは愛していました。

イーニンは毎日この馬に乗り、次第に遠出するようになりました。村の老人たちは心配しました。地方の豪族が戦のために脚の速い馬をさがしているという話を聞いたからです。もし彼らが彼女の馬に目をつけたなら、戦はこの村にまで持ち込まれるでしょう。老人たちはイーニンに、決して“黒い砂漠”を越してはならないと諭しました。

けれど、村の静寂は破られました。イーニンが馬を走らせることに夢中になっているうちに“黒い砂漠”の向こう側に行ってしまったのです。彼らの姿を見た先発隊がその白馬のことを豪族に報せると、彼はその風のように走る白馬を欲しがりました。その飽くなき欲望は数千人という死者を出しながらも“黒い砂漠”を征服し、とうとうイーニンの住む村に押し寄せました。

地には炎が走り、空は煙で暗くなりました。家畜や僅かな財産は略奪され、小さな泉には毒が投げ込まれました。軍隊の剣は闇を飛び交う羽虫のように何度もきらめき、無抵抗な村人を次々になぎ倒しました。

イーニンと彼女の馬は、幾重もの敵陣の間を抜け出し、天山へと向かいました。そろそろふもとでは冬仕度を終えた時節でしたから、山を登るにしたがって雪は深く、空気も薄くなってきます。イーニンは何度も馬の背から落ちそうになりながら、懸命に首にかじりついていました。さすがの白馬も雪と寒さがこたえている様子で、次第に脚が鈍ってきました。それでも、その細い脚がガクガクになり、力なく雪原に倒れ込むまで走り続けたのです。おりしも吹雪と夜が近づいていました。身体の下に純白な馬の体温を感じながら、イーニンはどうしようもない眠りに落ちてゆきました。

翌日は天山山脈が黄金に輝くほどの上天気でした。山に住んでいるタジク族の青年は雪豹を追っていて、山腹にウイグル族の少女が身につけている赤い服を見つけました。その少女の下には美しい白馬が冷たくなっていました。昨夜の吹雪が嘘のように少女の上には雪が積もっておらず、真っ赤な頬で規則正しい寝息をたてていました。その様子はまるで、大きな翼に守られているかのようだったといいます。

タジク族の村に着いた少女は、しばらくすると「イーニン」とウイグル語で書きました。やがて彼女は自分を助けてくれたタジク族の青年と結婚しました。そして翼を持った白馬を刺繍しながら、ときおり天山を眺めて懐かしそうに微笑むのです。村人は「ウイグルの娘がまた天馬を見ている」と噂し合いましたが、本当のことは誰にも分かりません。

Fin

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「山羊座の魂」



  ある夜、死神たちがパーティをひらいた。上等のヘル・ワインが配られ酔いがまわってくると、いつものように一部で口論がまきおこった。すべての生物のうち、人間の魂が最高の美味なのは異論のないところだけれども、さて、どの星座の魂が一番旨いかというのだ。

一人が遠慮がちに「それは乙女座だろう。クセがなく、実に素直だね。どんな飲み物にも合うし、舌ざわりも実に優しい」と言えば、すぐに一人が「それじゃ没個性にも等しいじゃないか。やはり蠍座こそが一番。ほのかな苦味と、密やかに甘い後味。大人の味だね」と切り返す。

「奇をてらえばいいってもんじゃない。オーソドックスな牡牛座こそ昔から受け継がれる老舗の味だよ」

「ただ進歩がないってことじゃないの?頭、硬いんじゃない?」

「きみはわたしを愚弄するのかね!」

「頑固に昔の味を守ってたって、今のニーズにほど遠いようじゃ未来はないね。時代に合わせて変化していかなきゃ駄目さ。例えば双子座のバリエーションを見てみなよ」

「ふん、聞いたふうな口を。若造が」

「まあまあ、ちょっと待ってくださいよ。牡牛座派さんにも双子座派さんにもうなづけるところは多々あるわけでして。ええ、流行は繰り返すというじゃないですか。結局同じところに戻るのなら引き分けということで…」

「意味がわからん」

「山羊座は良いよ」この発言は無視された。

「おいおい、そりゃ、流行は確かに繰り返す。でも、流行は螺旋形をしてるんだ。決して同じ場所には戻らない。どこに向かってるのか、どこに着地するのか、それを読む力が必要だってことなワケよ。ところで、きみは何座が好きなの?」

「はあ、天秤座の偏りない味が好みです」

「うるさいわねえ、何ごちゃごちゃ言ってんの?射手座は旨い!これで決まり」

「おまえさんが一番うるさいよ」

「なんですってえ!そういうあんたはどうなのよ」

「あたし?あたしゃ昔も今も牡羊座ファンさね。まだピクピクいってイキのいいうちに、こう、トントンッと細く刻んで、辛味のきいたカラシジョウユをざっとかけてざっくり混ぜこみ、ちょっぴりしんなりしたところ頃合をいただくなんざあ、くーっこたえらんねえ…」

牡羊座派の向上を聞いていた全員が、人間の魂の味を思い返しぼんやりとした。中にはごくりと生唾を飲む者もいる。

「…なんてったって歯ごたえが違いまさあね。噛むとこうコリコリッとして旨味がじゅわっと出てきて、それをこぼさねえようにズズッとすするようにしながら喉元を通りすぎた時の心地よさ。もう天にも昇る気持ちってなあこのことだね」

「天に昇ったら破滅だぜ」

「やだよ、このシトは」

「山羊座が最高…」

「蟹座だってスタンダードな材料にこだわりながら、季節感を工夫しているように思いますわ。家庭的な情緒ならなんといっても蟹座でしょうねえ」

「待ってください。芸術点で比べたら魚座じゃないでしょうか。魚座のいきづくりを食べた方も多いでしょうが、あの美しさは他の追随を許さない素晴らしさだとはお思いになりませんか?そう、食はアートです」

「ここでは味を云々しているのよ。的外れな発言だわ」

「魚座派さんの発言にも注目すべきところはあるんじゃないでしょうか」

「魂は腐りかけが一番美味しいんですのよ。皆さんご存知ないのかしら」

「あーやだやだ、腐りかけだなんて。ソリッドな食感がなければ頭も体もしゃっきりしませんよ」

「ええーぃ!うるさい、うるさーい!」

 周りが静かになった。この大喝の主を皆が注目している。

「ふん。さっきから聞いていればごちゃごちゃと。しっかりした濃い味と、顎の痛くなりそうな歯ごたえ。一番旨い魂は獅子座に決まっておる。これが結論じゃ」

彼は他の死神たちを威圧するように見まわした。彼の、目に暗い炎が燃えているような風貌に、皆は不満を持ちながらも沈黙した。

 ブゥゥゥーン、ブゥゥゥーン

 針の落ちる音すら聞こえそうな静寂の中、くぐもった音が聞こえる。

「何じゃい」獅子座派の、ほら穴のような目がギロとそちらを向いた。

「ごめんごめん、携帯にメールが来たみたいで。マナーモードにしてたんだけどさ、こう静かだと聞こえるもんだね」無邪気な声が響いた。

 彼は携帯を操作しながら話を続ける。

「まああれじゃない?好き好きでしょと。ちなみにぼくはサッパリとして個性的な水瓶座が好きなんだけどね、どっちかっていうと美味しい魂をいかに早く見つけて、いかに素早く手に入れるかですから。要は情報と行動の速さ。早速メールが来たもので、失礼します」

 皆はあっけにとられた様子でぼそぼそと話していたが、やがて一人ずつ帰りじたくを始めた。皆、腹が減っているのに気づいたのだ。

 空になったワイングラスを眺め、すべての客を見送った死神は小さく、しかし断固とした口調でつぶやいた。

「それでもやはり、山羊座の魂は旨いんだ」

 

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