それいけっP太郎
(其の一)


初刊  其の一(〜第十五章) 03.11.07

更新  其の二(第十六章〜) 03.12.06
(↑次のページに飛びます)



プロローグ

 このお話は、私の記憶をもとに綴った、半フィクションの物語である。最近では、昨日のお昼に何を食べたのかさえも曖昧な私ゆえ、記憶があやふやな部分は、少しだけ、いや多少、いや・・・思いっきり装飾して、書いてしまうかもしれないことを、まずお詫びしておく。
 はっきり言って、ダメ男君の奮闘記ではない。ちょいとばかり、こなせる子であったが為の悲劇と言った方が、当てはまるかもしれない。泣けるか笑えるかは、お任せします。さて、長編本格バイオレンス赤裸々系私小説、P太郎こと、私の半生記を一緒に辿ってみましょう。




第一章 天才児出現


 P太郎は、誰とでもよく遊ぶ、活発な子であった。晴れた日は、男の子と鬼ごっこ。雨の日は、女の子とお医者さんごっ ・ ・ ・  まてっ。
 時は東京オリンピック直前、ビートルズが来日する噂もまだ広まってなかった頃のこと。
 と或る日、P太郎はA子ちゃんの家に誘われて遊びに行った。彼女は、最近始めたピアノのレッスンの成果を、誰かにお披露目したかったのであろう。さっそく、A子ちゃんが自慢げにピアノを弾き始めた。「へぇ〜すんごいねェ〜」と言ったかどうかは覚えていないが、P太郎は痛く感心して眺めていた。A子ちゃんがひとしきり、同じ曲を何回か弾き終えたあと、すきを見てP太郎も面白がって、こっそり鍵盤の前に座ってみた。耳に残った音と、何となく眺めて覚えていた指の動きで、同じ曲を弾いてみた。
 すると・・・ あらっ まぁ なんとっ! いともあっさり、弾きこなしてしまっていたのだ。A子ちゃんは、目をみはりビックリ。うん。P太郎もびつくりした。多分その時、A子ちゃんはひどく自尊心を傷つけられたものと思われる。そんな気配をものともせず(ちがうだろ)、いや、そんな気配りのできるP太郎ではなかったので、A子ちゃんが弾いた続きと、楽譜の次のページの曲を、すらすらと弾きこなしていた。なぜか、音と鍵盤と譜面の相互関係を、その場で理解してしまっていた。スゴッ
な〜んか楽しいじゃん」一人悦に入るP太郎であった。w
 その後、何故かあまりA子ちゃんの家に、呼ばれなくなったような気がする。えーーん




第二章 紙の鍵盤

 A子ちゃんちで、ピアノの楽しさを覚えたP太郎は、その後自分もピアノを始めることになった。が、素直に始められた訳でもない。男の子がピアノなんて・・・当然そう言われた。そこを何とかかんとか切り抜けたP太郎は、ピアノの先生から教則本を貰う。が、肝心のピアノがまだ家に来ていなかった。今度の日曜日には最初のレッスンがあるらしい。んぐぐぅ〜〜〜 ここで負けちゃいけません。困ったP太郎は、教則本の裏にあった、「鍵盤の絵」で練習する事にした。年端もいかぬ幼児が思いついたこととはいえ、なんと一途な想いであろうか。聴こえない音を想像しながら、紙の鍵盤で数日練習に励んで、最初のレッスンへ。はははっ
 レッスンは上出来、良く出来ました◎って誉められちった。えへっ
 バイエルを3ヶ月で卒業という神童神話が作られたのは、この頃である。えへっ。 しかし、この事が、後に大変な悲劇を生む要因となろうとは、誰も予想だにしなかった。。。ワォ




第三章 発見

 P太郎もクリクリ坊主になった頃、学校の音楽の授業で、「ギター」というものを生れて始めて生で実物を目にした。どういう内容の授業だったのか、なぜそこに「ギター」が登場したのか、記憶が定かではないが、先生曰く「買ってもらえる人は買ってもらいなさい」とおっしゃった。この先生の発言、教育者としてははなはだ不適切な表現であったと思うが、その時確かに先生は、P太郎の目を見てそう言われたのだ。「オ?俺か?俺が買ってもらうのか?しょうがねぇなぁ〜」w
 さっそく、おとうたまにおねだり〜。6000円のYAMAHAのガットギターをゲッツ。お定まりの「禁じられた遊び」や、「古賀メロディ」(ナンデヤネン!)をあっという間にマスターし、物足りなさを感じたP太郎は、当時流行っていた洋楽やビートルズ(あっこれも洋楽やんw)などを弾いていた。譜面が読めるP太郎の上達は、目を見張るものだった。ここで初めて、P太郎は『コード』という概念を学ぶのであった。ELPの「賢人」を、始めて耳コピしたのもこの頃だった。
な〜んかとっても楽しいじゃん!
 こらっ P太郎! ピアノを弾きなさいっ!!!www




第四章 耳コピ

 ほどなくして、フォークギターやエレキギターを手にしたP太郎にとって、前章で書いた耳コピというのは、実に楽しいものであった。当時、あまり洋楽のコピー譜面は売られていなかった。せいぜいメロディとコードが載っているくらいである。しかも、ビートルズなどの超有名楽曲に限られていた。またあったとしても、一々買ってはおられまっしぇん。ギター用のタブ譜というものを目にするのは、この10年近く後のことであった。いや、あったのかも知れないが、必要とは思わなかった。ピアノは譜面で学ぶもの。ギターは耳で学ぶものという気がしていた。
 しかし、さすがのP太郎も、小難しいフレーズになると、どうやって弾いているのやら見当も付かず、何回も何回も、繰り返しラジカセのテープを聞き返さなければならなかった。クラシックギターの基本を、ほんの少し手習いしただけで、ほとんど独学で始めた為、ギター特有のスケールというものも知らないし、小難しいコードも知らない。音を手繰っては、新たなコードを発見するような毎日であった。当然、ラジカセやテープが悲鳴をあげ、何回も買ってもらう羽目になる。
 楽しさのあまり、耳コピを繰り返していたこの頃の労力は、後に多いに役に立った気がする。
 満足してないでピアノを弾きなさい!ピアノを!!! ハゥ




第五章 熱中

 こんな幼少時代のP太郎も、実はスポーツ万能、運動神経ぶぁつぐんであった。と思う。w
 中学時代は、野球部に入ってピッチャーをやっていたのだ。1年坊主で入った頃は、ピッチャー志望の同学年が、なんと13名もいたが(みんな目立ちたがりやん)、ピッチャー志望者は、毎日グラウンドの外回りを30周走った後、外野の更に後ろで球拾いだけというメニューを、怖〜い先輩から命ぜられてた。くる日も来る日も、走っては球拾いの繰り返し。すると、日に日にピッチャー志望が減り、残ったのは2〜3人。
 P太郎が1年生の夏休み直前、事件は起こった。3年生の最後の大会前日、バッティングピッチャーとして、始めて投げさせてもらった時のことである。3年生が最後の調整として、下級生の打ちやすい球を打って、自信をつけておく為の練習だったのだが、あらまぁなんと不思議。怖〜い3年生の先輩達が、P太郎のへなちょこボールを全然打てない?! 翌日、完全に自信をなくし、調子を落としてしまった3年生は、1回戦であっけなく負けてしまった。スンマソン
 しかし、この事件で次期エース・P太郎が誕生したのだった(^凹^)ガハハ
 P太郎〜! 笑ってないでピアノを弾きなさいってば!!!




第六章 有名教師

 時は過ぎ、高校進学の時。当時のピアノの先生から、日○学院に進学するよう勧められた。そこには、有名なピアノの先生がいたのだ。その名も日●野先生。元N響の専属ピアニストだったらしい怖〜い先生だった。勧められるがままに日○学院に進学したP太郎は、入学式の翌日、日●野先生の前で、初めてピアノを弾いた。数々の神童神話を抱え、それまでの先生から戴いた推薦状をしたためて、自身満万で挑んだP太郎であった。
 しばらく首を傾げていた日●野先生。ながーい沈黙の後、意を決したように・・・
「ツェルニーからやり直しましょ」 & ため息

え゛え゛え゛〜っ

 第二章で書いた「大変な悲劇」の始まりであった。こなせてしまう子供(P太郎)に対し、時間をかけずに面白がって、次々と新しいことを吹き込んでいったが為の悲劇であった。誰のせいでもない。しいて言えば、P太郎がいとも簡単に「こなしすぎた」為である。それに加え、見る目のレベルの違いが、大きな判断の違いになってしまったのだ。やはり基本というものは、じっくりと時間をかけて、焦らずゆっくり身に付けるべきものなのだ。後に指導者の立場となるP太郎が、最初に学んだ最も大切な教訓であった。
 この日から、壮絶な日●野先生との戦いが始まった。
   オホホホ ( ~〓~)/〜〜〜〜〜〜〜〜〜νピシッ!☆( >_<) キャッ(ちがうだろ・・・)




第七章 衝撃! これだっ

 日●野先生との、壮絶な戦いが続いていた高2の夏休みの事。一ヶ月ほど東京に滞在し、見聞を広めながら色々学んでいた。そんな在る休日。何気なく入った映画館で、ビートルズの映画を見た。皆さんご存知の、「YaYaYa!」とか「HELP」である。もちろんビートルズは知っていた。ほとんどの曲を知っていたし、ギターで奏でることも簡単に出来ていた。が、そのビートルズを映画で見るのは、この時が初めてであった。
 その日以来、連日くる日もくる日も、その映画館に通った。何回見たか分からないくらい、東京にいる間ずっと通って見続けていた。何故か分からないが、自分の中で何かがはじけていた。これに出会うために、今まで音楽をやっていたんだとまで思われた。音感を養い、理論を学び、テクニックを身に付けてきたのも(そんなに威張るほど努力してないしぃー)、全てはこの感動を、深く理解する為のものだったのだと感じた。それはまさに衝撃であった。このままなんとなくピアノを続けて、音楽の先生にでもなるのかなぁと、漠然と思っていた将来が、大きく方向転換した事件であった。
 夏休みが終わって、東京から実家に戻ったP太郎は、早速ギターを抱えてLIVE活動を始める決心をしたのであった。
(よくある風景=仁侠映画を見て映画館を出てくるとみんな高倉健になってるC−)
なんせ感じ易いお年頃なのらw
 おぃまてっP太郎! どこへゆくぅ〜




第八章 初めての勲章

 間もなく文化祭。そのオーディションが講堂で行われた。学内のバンドやソロが十数組で競って、この講堂での本番LIVEに出演できる者を決めるのだ。P太郎はフォークギターを抱え仲間二人を引き連れて参加していた。初めて人前で歌を歌うだけに、特別自信があったわけでもないが、「まっ音楽の事なら任せんしゃい」くらいの気持ちであった。
 結果はヤッパリ? ☆一等賞☆ イエイ〜♪ (★^▽^)V  講堂LIVEでのおおトリを努め、更に文化祭の締めの、野外メインステージでのラストも飾った。「な〜んだっ俺って凄いんだぁ」←勘違いの第一歩であった(映画館を出た瞬間から始まっていた勘違いかもw)。高2の秋、青春真っ只中である。多少の思い込みもご愛嬌。笑って許しなさい!w
 その後、ライブハウスでの活動も始め、本格的にマイ・ミュージックにのめり込んでいくP太郎であった。
 だーかーらぁ〜 ピアノを弾きなさい!




第九章 葛藤

 とは言え、そうすんなりとライブハウスに出入りしだした訳ではない。なにせ、まだまだ花の高校2年生☆(ウットリ) 夜の外出は、不良がやることです。学内の文化祭に出たメンバーで、ライブハウスのオーディションを受けようとしたものの、他の子達はママに外出を止められたらしく、夜もふけたこんな時間帯ではやってきまっしぇん。困ったP太郎。結局、ギターの弾き語りソロということで、寂しく一人でオーディションを受ける羽目になったのだ。しかし、世の中上手く出来たもので、なぜか通ってしまった。不思議な事もあるものです。マスターったら見る目があるのかにゃ?w
 つーか、真面目なピアノ少年が、こんなことしてていいのか?俺って不良?夜に遊び歩くのって、良くないんだぞっ?って・・・ それなりに、葛藤があったような記憶がある。それでも何故か、やらずにはいられないという衝動に突き動かされていた。ような気がする。
 よくよく思い返してみても、未だに分からない。この日以来、高校時代ずっとこのライブハウスに出演していたのだが、その当時、どんな言い訳をしながら夜に外出していたのか・・・ほとんど記憶にない。いや、当然「ライブハウスで歌ってくる」なんて、口が裂けても言えまっしぇん。夜間の外出だけでも、うちのママったら猛反対しそうなものなのに。。。




第十章 出会い

 「TOMORROW」「照和」「J&B」などのLIVEハウスで活動を続けている間、様々なミュージシャンに出会って来た。後にサザンに参加する松田様・大森様、ユーミン様、長渕剛様、ロッカーズの陣内様、チャゲ・アス様、チェッカーズ様(あっこれは講師になってからだ)などなど・・・ ユーミン様以外は、まだ皆さんアマ時代の出会いである。皆さん、しっかりと自分の世界をお持ちの方達ばかり。まだミュージシャンとして駆け出しの頃から、既に譲れない独自の世界を持ち合わせていた。ものになる方達は、やはり違います。コンテストに出ていても、周りとの比較の対象ではなく、長渕は長渕であり、チャゲ・アスはあくまでチャゲ・アスなのだ。既にこの頃から、一等賞とか二等賞をつける対象ではなかったような気がする。




第十一章 公民館

 福岡の「照和」に出だした頃、どこからの依頼だったのかよく覚えていないが、近くの公民館でフォークギター教室の講師をやらないかという話が来た。週一回、2時間程度の教室を開いて月2万5千円のギャラだって。当然、貧乏学生だったP太郎にとっては、なかなか割のいい話なので、早速引き受けることにした。このフォークギター教室、公民館の方の努力によって、始める時には生徒さんが20数名集められていた。やってみるとこれがなかなか楽しい。生徒さんも辞めることなくついて来てくれていた。P太郎ったら先生向き?w
 P太郎が、音楽によってギャラを戴いた最初の出来事であった。
 この教室では、取り立てて生徒さんたちがめきめき上達していったという訳でもないが(失礼)、みんなそれなりに楽しめるようになり、和気藹々でほのぼのとしたサークルのようになっていった。このお仕事は、結局3年ほど続いた。最初の頃は、公民館から予算が出ていたようだが、最後の1年は、生徒さんがバイトしたお金で、P太郎にギャラを払っていたようだ。なにもそこまでしなくても・・・




第十二章 誘惑

 公民館での噂を聞きつけて、ご近所のピアノ教室の先生から、「うちでもギターの個人レッスンをしてもらえないか」という話が来た。こちらは月謝による有料個人指導である。とりあえず引き受けてやってみると、生徒さんの一人は開業医のお洒落なおじいさん。古賀メロディを指導する事になった。えーーーん 当時P太郎はジム・ホールやジョージ・ベンソンに凝っていたのだが・・・ もひとつ えーーーん
 もう一人は、ここの美しいピアノの先生の友人らしい、近所の若奥様。この方がなんとも・・・いやはや。とってもお若く(と言ってもP太郎より年上)、可愛らしいお顔立ちの若奥様なのだが、なんか始めっから目的が違うような気がしていた。
 或る日、レッスンの部屋にその若奥様と二人きりで閉じ込められ、あれ? 差し向かいでご指導していると、プィと立ち上がり、え? 窓際に歩み寄って腰の高さの窓枠に肘をつき、お尻を突き出して前かがみに・・・え゛っ? しかも極端なミニ・・・え゛え゛え゛〜っ!
そこで若奥様が一言、「先生は彼女はいらっしゃるの?本当の女性を知ってらっしゃる?
  ぎぃやぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!
 早々にレッスンを終了して、部屋から出てみると、ここのピアノの先生が意味ありげにニンマリしてるぅ〜 あわわっ なんとっグルだったのかっ!←こっちの方がもっとぎゃ〜である。
女性は怖い怖い。純情なP太郎が思い知らされた一夜であった。




第十三章 ファン倶楽部

 当時、アマチュア音楽が盛んな九州では、アマとはいえ活発にLIVE活動をしていると、ファン倶楽部というものが出来てしまう。まさに、オラが村のプレスリー状態である。チューリップや甲斐バンドなどが出演していた事で、全国的に有名になった「照和」というLIVEハウスで、まだアマチュアだった長渕剛様やロッカーズの陣内様達と毎週出演したり、頭角を現し出したチャゲ・アス様とジョイントコンサートをやっていたP太郎は、マニアックな一部の女子高生からは、アイドル的な扱いを受けていた。当時の下宿先に、知らない女の子から連日電話がかかってきたり、実家に里帰りした時の空港で、見知らぬ女の子から声を掛けられ、周りの人たちから「この人誰?」って目で見られたり・・・ 大きな勘違いの第二弾であった。w
 で? P太郎! ピアノはどうなった!!!
(いや、ホントは結構地道にやってたんですYoo  Wow)




第十四章 階段

その1 エントリー
 つま恋本選会。これは、(財)ヤマハ音楽振興会が主宰する、ポピュラーソングコンテスト『POPCON』の全国大会のことである。当時、メジャーへの道は限られていた。ポプコンでグランプリを取れば、まず間違いなく売れるという時代であった。中嶋みゆき様、ツイスト様、クリスタルキング様などなど。チャゲ・アス様も、グランプリではなかったが(秘話:予定ではグランプリになるはずだったのだが、本番で飛鳥様が大チョンボをやらかしてしまった為にグランプリにできなかっただけである)、やはりポプコン出身であった。
 チャゲ・アス様と一緒に、同じ九州大会に出たこともあったが、その時は先輩の彼らに負けちった。彼らがプロとしてデビューした今、次はP太郎の番だとばかり、新たに組んだバンドで、第20回大会にエントリーした。
 このバンドで、初めてP太郎は本職のはずのキーボードを担当。この頃まで、ギタリストとしてご近所に認識されていたので、周りの人たちをちとっ驚かせた。なんだい、知らにゃかったのかい!フォフォフォッ

その2 バンド
 この時のバンド、なかなかのプレーヤーぞろいで、組んだ時にはすぐに注目してもらえるような環境だった。メンバーはみんなその後、レコード会社のプロデューサーやコンポーザーなどになっていく連中ばかりであった。オリジナル曲以外では、フュージョンバンドとしても演奏を楽しめる実力があった。ナベサダ・スクエアなんかをLIVEでやっていた。しかし、今思うと、あまりメンバー同士の人間的な絆は固くなかった。音楽の方向性、メッセージ性などについて、深くディスカッションするような雰囲気はほとんどなく、当時流行っていたクロスオーバーやフュージョンなどのプレイテクニックに、オリジナル曲を埋めていくようなスタイルであった。
 自分達の音楽はなんなのか、どこを目指しているのか等を、突っ込んで語り合うということが、なんとなくダサいという感覚を持ち、お洒落にサラっとプレイしているのがカッコイイと思っていたのかも知れない。このバンドで、もう少し真剣に喧嘩しあいながらも深く語り合って、それぞれの感性を融合させながら音を追求していっていたら・・・と思う。しかし、喧々諤々と語り合うこと、それは各々の方向性の違いを浮き彫りにするだけの効果しかなく、語り合えば分解してしまう恐れを、皆が抱いていた結果かもしれない。各人が、融合を受け入れるだけの度量がなかったのか、あるいは一つの求心力がなかったのか。
 今、この時のバンドの音を聴くと、まさにそれがよく現われている。いや、今だから分かるだけなんだけど・・・・それぞれは上手いけど、何を聞かせようとしているのかがぼやけていて、フレーズの一つひとつが他の音に埋もれてしまっている。みんなで、好き勝手な事をやっているような感がいがめない。

その3 予選
 そんな中、出場した第20回ポプコン。地区予選をパスして出場した九州大会。ややコミックソング的な色物の曲でエントリーしていたが、そのテクニックは九州ではかなり高いレベルにあった。
(ここからはドキュメンタリータッチで)
 <結果発表!>
 まず、各レコード会社が独自に選ぶ、レコードメーカー賞が発表された。まず1社目、いきなりP太郎のバンド名が呼ばれた。かる〜く ばんじゃ〜い (V^−°)ヤッタネッ。バンマスだったP太郎は、小躍りしながらステージへ駆け上がった。この模様は、TVでも放送されるのである。鼻が3ミリほど高くなったP太郎は、胸を張ってその楯を受け取った。ステージ上で、表彰式のアシスタントの綺麗なお姉さまに導かれて、受賞者が並ぶ予定の位置に付こうとしていたその時、2社目の受賞者発表で、またもP太郎のバンド名が呼ばれた。あらあらまぁまぁ、それはそれは。会場がどよめく中、状況がつかめずに、P太郎を受賞者が並ぶ位置に連れて行こうとする綺麗なお姉さまを軽く振り切り、またまたステージのセンターへ。P太郎の鼻は、更に2ミリ高くなっていた。
 結局、レコードメーカー賞の発表が終わった時には、P太郎一人では持ちきれないくらい、幾つもの楯を独り占めにしていた。一旦ステージから降りて、メンバーに駆け寄る。全員、満足感で一杯の顔をしている。さて、本題はこれから。いよいよコンテストのメインである、入賞者の発表と、優秀賞・グランプリの発表である。ここでは、2等賞の優秀賞と1等賞のグランプリの2曲が、つま恋本選会、つまり全国大会に出場できるのだ。
 まず、入賞者の発表。数組が順に名前を呼ばれ、歓喜してステージに駆け上がっていった。当然、P太郎のバンドはまだ呼ばれない。いや、こんなところでは呼んで欲しくない。あれだけメーカー賞を独占したのだ。入賞止まりなんて・・・。ようやく入賞者の発表が終わり、自分達は入賞ではない事が分かると、この時点でメンバー全員が、つま恋行きを確信していた。あとは、優秀賞とグランプリしか残っていないのである。そうと分かると、今度は早くバンド名を呼んで欲しい。もはや受賞漏れの心配はないとは思うが、いやはや人の心情とはなんとも身勝手なものである。そんな願いが無駄に届いたのか、あっさり2等賞の優秀賞で、P太郎のバンド名が呼ばれてしまった。「あ゛ぁ〜グランプリではなかったのかぁ〜」 バンド全員、一瞬の苦笑いの後、それでもつま恋に行けることに満足して\(^ ^)/ バンザーイ
 グランプリは、レコードメーカー賞を一つも取らなかった、ピアノの弾き語りの女の子が受賞した。コンテストとはこんなもんですな。ははっ

その4 本選会
 1980年10月5日(日) 第20回POPCON つま恋本選会
 初めて出場したつま恋本選会では、多いに楽しんだ。広大なリゾート施設でもあるつま恋で、アーチェリーをやったり、ローンボールとかいう良く意味の分からないゲームを楽しんだり、夜になると、色んな地区からの代表バンドと交流したり(この時の本選会には、杉山清貴様なども参加していた)、九州出身のゲストプロ達と宴会をやったり。飛鳥様に「次はお前の番だ。早く出て来い」と励まされたり。w
 あっコンテストの結果? ハイ、めでたく入賞でした。全国で、10本の指に入ったということでしょう。不思議なもので、つま恋に来てみると、コンテストの元々の意味なんて、どうでもよくなってしまうんです。つーか、今と違って、インターネットで色んな地方で活動しているミュージシャンを、お手軽に聴ける時代ではなかったので、どうしても全国レベルで聴いてもらうには、こういう場所に来るしかなかった訳で、その意味では既に目的は果たしていたから、後はただここに居る事を楽しみたくなるのだ。コンテスト自体(競い合うこと)に関しては、そもそも色物っぽい曲でもあったので、初めから何となく入賞ぐらいだろうなぁなんて、そんな予感があった。この曲でコンテストのグランプリはなかろ〜ってネ。
 ちなみに、この時のグランプリは、エディ山本様。これまたピアノの弾き語りで、オーケストラをバックに、壮大なバラードを歌い上げた方であります。玄人・素人混ぜ合わせて、30人もの審査員が点数をつけると、どうしても、全員から平均的に良い点を貰った人が、一等賞になってしまう。逆に言えば、そのコンテストの矛盾点をぶっ飛ばすだけのパワーが、P太郎のバンドになかったってこと。でも、十分楽しみました。えへっ
 もうどうでもいいけど、P太郎ったら ショパンはどーした!

その5 契約
 つま恋本選会で入賞すると、後日、東京でのTV出演(コッキーポップ)があったり、本選会のライブ版のLP発売があったりして、色々副産物が付いてまいります。そのついでのように、ヤマハと専属契約を結ばされる流れになっとります。TV出演直前に、あたふたと書類をみんなの前に並べられ、十分な説明もないままに、「ハイ、これにサインして」となります。まっいいかっと、みんなそろってサインであります。う〜むっ、なんともいやはや、スゴイ時代である。有望ミュージシャンの一斉青田刈り状態である。w
 そー言えば、発売されたこの大会のLPジャケットは、なぜか、グランプリでもないP太郎のバンドの、本番での演奏風景が、表紙を飾っております。えへっ
肖像権もなんも、あったもんじゃ〜ありまっしぇん。ハハハッ なんか知らんがサインしたし・・・

その6 小さな分岐点
 バンドにちょいと箔がついたP太郎は、順調にLIVE活動やソロコンサート・ヤマハ企画のコンサート等に出演しているうちに、前回に続いて、第21回のポプコンにエントリーする事になる。表向きにはあまり知られていないが、地方予選から始まる公開コンテスト前に開かれる、テープ審査会というものがある。全国から、次回のポプコンに出場予定のデモテープが、早々に集められ、仮審査されるのである。そのテープ審査会で、P太郎のバンドの曲の中では、やや地味目のボサノバ風バラードの曲が、全国2位という結果になったらしい。へぇ〜。P太郎のバンドの曲は、全てヤマハのUスタジオで録音され、いつでもデモテープとして使えるようになっていたのだ。へぇ〜。P太郎自身も知らなかった。いや、録音したのは勿論知っていたが、それが色んなところで聴かれている事を知らなかった。
 バンドの中では、次回のポプコンに出るからには、本選会でグランプリを取れる曲でなければ、という雰囲気があった。それまでは、最近出来たばかりの、イーグルス風のスケールの大きなロック調の曲で出るつもりであったが、ヤマハから、別の曲がテープ審査全国2位という話が届いたものだから、ちとっみんな迷った。ヤマハ側は、一度テープ審査で好評を得た、地味なバラードの方を勧めたいようであった。色々話し合った結果、本選会のあの雰囲気を思い出し、つま恋の開放的な野外会場では、おとなしいバラードよりも、活きの良いスケールのでっかいロックの方が栄えるという結論に達し、新曲で出ることになった。楽曲の質よりも、コンテスト対策とも言える、TPOを選んだのである。
 さて、吉と出るか、凶と出るか。

その7 連続出場
 第21回大会の地区予選は、顔パス。九州大会でも、P太郎のバンドが無事グランプリを獲得して、本選会出場を決めたのだが、前回も本選会に出場し、そこで入賞しているとあって、周りからは当然という目で見られていた。翌日の西日本新聞では、「本命がありありなので、コンテストとして盛り上がりに欠けていた」という記事が出てしまうほどであった(つーか、当時は新聞記事になるくらい大きなイベントであったのだ)。アマチュア音楽が盛んな九州でのグランプリバンドで、前回も入賞している実績があるとなると、当然、本選会でも注目を浴びる事となる。確かに、当時バンドとしては、全国のトップレベルに在ったのは確かだろう。
 2回目ということもあり、この時の九州大会や本選会の様子は、なぜかあまり記憶にない。 ・・・ような気がする。それとも、思い出したくないという潜在意識でもあるのか・・・

その8 空砲
 1981年5月10日(日) 第21回POPCON つま恋本選会
 さて、グランプリを狙って出場した、第21回つま恋本選会。エントリー順としては申し分のない、本命が出てくる順番が、P太郎のバンドに用意されていた。このエントリー順(出演順)は、ヤマハ側が本選会全体を一つのショーとして演出し、勝手に独自に決めるのだ。トンパツや、前半の早い内のエントリー順だと、終わった頃には印象が薄れる。後半の真中あたりから、ラストちょい前あたりがベストである。そんなエントリー順があてがわれたP太郎のバンドは、見えない力の後押しを感じながら、無事演奏が終わった。イントロでピアノソロから始まる部分を、P太郎がちょいとミスったが、大した問題ではない。
 ただ演奏中、開放的で広大な野外会場に、P太郎のバンドの曲が吸い込まれてしまったような、すかしっぺのような、空回り感を覚えた。あれ?野外の会場に栄えるはずだったのに・・・

  ・ ・ ・  ・   ・     ・

 結果は、なんにもとれず、ただの参加賞であった。一部情報によると、すでに出場経験があり、グランプリ候補に上げられた特定の有望株が、一等賞を取れなかった場合には、中途半端な賞は与えないという作意が働くらしい。そう言えば、前回の杉山清貴様もこれに当てはまって、何も賞は獲れなかった。ほんまかいな。
 いいよ、そんな慰めなんて。。。




第十五章 新展開

 失意の中で、福岡に帰ったP太郎には、バンドの解散が待っていた。メンバー同士の、大した口論もなく、なんとなくしょうがないかなっという雰囲気が漂っていた。
 と同時期に、講師をやらないかという話が、ヤマハから舞い込んできた。ピアノ?それともギター?と思いながら、よく話を聞いてみると、「バンドの全てのパートを教えて欲しい」というものであった。勿論、P太郎はドラムなんて、叩いた事はありまっしぇん。ベースにいたっては、繊細で白魚のような指をしているP太郎?が弾くと、すぐに右手の指先に、水ぶくれが出来ちまうような、あり様、仏様。 ゴホッ
 根がお気楽なP太郎は、「まっ、なんとかなるっしょ」とばかり、話を引き受けることにした。



                                      ・ ・ ・ つづく