それいけっP太郎
(其の二)


前書き

 そのまま一気に、華やかなプロデビューかと思われたP太郎の運命に、暗雲が立ち込める。人の運命とは、そう容易く動かせるものではない。特にタイミングと言うものが、大きくものをいうのも確かである。この期を逃しては、あまりにも勿体無いというようなタイミングを、空砲で終わらせてしまったP太郎に、新たな運命が待っていた。

 もう一度言っておこう。このお話は、私の記憶をもとに綴った、半フィクションの物語である。更に付け加えておくが、記憶があやふやな部分は、思いっきり装飾して書いてしまうかもしれないことを、もいっかい、再度、度々で申し訳ないが、ひらにお詫びしておく。
 では、いよいよ更なるP太郎の運命やいかに・・・ これはあくまで、長編本格バイオレンス赤裸々系私小説なのであった。のはず。と願う。かなぁ〜


 あっ それともう一つ。
よくぞここまでクリックして、このページにおいでなすった。
そうそう貴方!  あなたに、感謝!!!

では、さっそく。続きをどーぞっ




第十六章 講師P太郎

其の1 とっかかり
 音楽の講師と言えば、当然それぞれの専門楽器がある。ピアノの先生が、ドラムを教えることなど、まずありえない。しかし、ヤマハは困っていた。一つの特約店に、4人の講師。ギターの先生・キーボードの先生・ドラムの先生・ベースの先生。全部まとめれば、そこそこの生徒数になるのだが、それぞれでは講師の稼ぎもたかが知れている。よって、あくまでバイトとしてしかやってもらえない。しかしながら、バンドとはあくまで合奏の技術である。専門職種として、トータルで音楽教育が出来る人材を求めていた。そこで考え出されたのが、全てを教えられる便利なスーパー講師。 おぃをぃ!そんなん、めったにいまっしぇんってばっ!

 しかし、ヤマハは強引であった(笑)。その可能性がある者として、P太郎に白羽の矢が立ったのである。よっしゃ! 期待して頂けるのなら、やって差し上げましょう。また鼻が2ミリ高くなった。(どんな顔やねん)

其の2 スタート
 とある、楽●社という福岡のヤマハ特約店(3店舗)の、全てのパートの生徒をまかされる事になった。それまで、それぞれのパートの講師をやっていた方々はどうなったのでしょう?P太郎は、知るよしもありまっしぇん。(全員くびか?)
 公民館の、講師の経験があるP太郎。とりあえず、今までの生徒を見てみる事に。。。。。

 あら、まぁ〜・・・ それはそれは、惨憺たる状態。ヤマハの苦悩もうなづける。これまで、生徒はどんどん入ってくるが、全然続かないという状態であったらしい。
 そこで、P太郎は考えた。この子達は、音楽の楽しさを知らない。技術を学びたいと思い込んでいて、ここで音楽をエンジョイする事を忘れている。これ、大切。レッスンの場が「音楽を楽しめる場所」でなければならないのだ。

 そこで、P太郎がやったことは・・・ 全パートの生徒に、必須プログラムとして、ドラムを叩いてもらった。一人30分のレッスンの持ち時間の中で、最後の5分は、「太鼓を叩いてみまっしょ(^-^ )」と言った。ドラムの生徒は、P太郎がギターやピアノを弾いて、セッションをやった。これには、みんな大喜びで乗ってきた。 ギターを習いながら、ドラムも叩ける。キーボードを習いに来ているお嬢様も、大はしゃぎ。

 更に、生徒さん達にとって、自分の先生が、福岡では名の売れたミュージシャンであったことも、彼らを惹きつける要因であったかもしれない。(いわゆるひとつの、ネームバリューやねぇ〜)
 結果、入ってきていた生徒さん達が、辞めなくなった。はじめた当初、各店舗20人足らずだった生徒数が、半年後には3桁に膨れ上がっていた。

 ギターを習いにきたからと言って、ギターだけ教えるなんて・・・
『音楽』(enjoy music)を教えなきゃでしょ。
いわゆるひとつのぉ〜  それって基本でしょ? (^-^ ) ニコッ

其の3 講師のコツ?
 もっとも、生徒さん達を惹きつけるには、ドラムを体感させるっつーだけでは物足りない。まずは、「この先生、すげぇ〜」と思わせる事も大切。男の子には尊敬され、女の子には惚れさせる(いや、変な意味ではありまっしぇん)ことが必要です。要するに、『憧れ』を抱かせる事です。変な言い方かもしれないが、「こんな人になりたい!」と思ってもらう事が、講師としては大切な要素なのです。
 「高中を弾きたい」というギターの生徒さんには、その場で、いとも簡単に、高中を弾きこなして見せる。どやっ!(笑) 「イーグルスをやりたい」と言う、バンドレッスンの生徒さん達には、イーグルスの各パートのスコアを、その子達のレベルに合わせて、その場でサラサラっと書いて上げる、とかねっ。どやっどやっ!(笑)

 当時のP太郎ったら、すでにどんな曲でも、一度聞けば、その楽曲の構成・各パートのスコアを、その場で瞬時に書けるレベルであった。ある時、女の子4人組が、一緒に習いに来た。テープ持参で、こんな曲をバンドでやりたいとおっしゃる。そっかそっか、ではでは、この曲をあなた達4人でやるにはぁ・・・ と、そのテープを聞きながら、10分後には各パートのスコア譜を、彼女達のレベルで書き上げていた。彼女達曰く、「すっっっげえ〜っ!この人天才?・・・」 はははっ
 そーじゃないんだけどぉ・・・(笑) 音感と経験に裏打ちされた、一つの匠の技とでも言いましょうか、、、(^凹^)ガハハ
 ある程度の方ならば、ここはご理解頂けることと思いますが。。。(笑)

其の4 太鼓  ・・・え?
 講師の仕事をやるにつれ、P太郎自身が、もっともハマってしまったのが、ドラムである。人様に教えながら、自分自身がはまりきっていた(笑)。そもそも、今まで語ってきていなかったが、中学の頃から、カール・パーマーが大好きだった。
はっきり言って、憧れていた。(#^_^#)ぽっ

 音楽を職業にしたいと思ったのは、正直にいうと、ショパンやリストの影響ではないかもしれない。彼の、カール・パーマーの太鼓を、聴いたからかもしれないと思うほどである。なんつっても、あの「ドラ」は、かっちょよかったなぁ〜☆ウットリ。 EL&Pを、最初に聴いた当時のP太郎は、ギターにはまっていたから、グレック・レイクのギター(賢人など)をコピーしたものだが・・・ キース・エマーソンの、一見派出目な鍵盤プレイ(失礼)は、鍵盤奏者として冷静に見ると、すぐに真似できそうだったし・・・(←世間知らず☆キャッ)

 え゛っ?パーマーを知らにゃい? あっちゃ〜!もぅーやだなぁ・・・ エマーソン・レイク&パーマーの、カール・パーマーですYooo! アーノルド・パーマーぢゃ〜ありまっしぇん。ムソルグスキーの元ネタから知っていたP太郎には、たまらにゃいお人でした。あの、あのっ!「展覧会の絵」ですっ。衝撃的でした。なんつったって、かっちょえ〜〜〜! これぞ自分が推奨する、『憧れ』ねっ(=^^=)

 それと・・・ 太鼓に、もひとつはまった理由としては、その当時では、Ponta先生とポーカロ先生の存在ですっ!
 Ponata先生とは、言わずもがな。今は、堂本兄弟のTVなどで叩いていらっしゃいますが(笑)、私が初めて彼の太鼓を聞いたのは、山下達朗のLIVEでのプレイでした。「こんなにも太鼓が歌ってもいいのか?!」というのが、最初の印象。をぃをぃ、ボーカルを食ってるじゃん(笑)。誰が主役かわかんねぇ〜(笑)。
 でも、彼のバヤイ、許せるのネッ。はははっ なじぇでしょう。。。 後に、ライブハウスで競演した事もあるのだが、さすがに緊張してしまって、よく覚えていにゃいありさま。お恥ずかしい・・・(P太郎はプレーヤーとしては超2流であった)
 それと、当時流行っていた、TOTOのジェフ様(はーと) いまだにポーカロモデルのスティクでしか太鼓を叩けないP太郎です。いわゆるひとつの「こだわり」やねぇ〜
 あっ、ついでにもうおひとかた。スティーブ・ガット様(はーと) 80年代初めに、音楽を追求された方達は、当然ご存知の、東西随一のスタメン(スタジオミュージシャン)でございます。彼のハイハットさばきや、スネアの音には魅了されました。
 やっぱ、音楽はリズムからっしょ〜〜〜 (^凹^)ガハハ
 P太郎先生ってば、懲り過ぎ!キャっ☆




第十七章 (再)ビートルズ

 P太郎が高2の夏に、ビートルズの映画を見て、衝撃を受けたことは、、、 えっとー ・・・そうそう、前編「第7章」で書いたが、ここはテストに出るので、もう少し詳しく書いておこう。
 なんのテスト?

 前にも書いた通り、ビートルズの曲自体は、その時既に良く知っていた。では、映画を見て、何にことさら感動したかと言うと、音と映像の合体と、ステージ上でプレイすることを楽しんでいる彼らの姿に、衝撃を受けたのだ。まさにそこには、『音楽をオモチャにして遊んでいる姿』があった。
 今までの、P太郎にとっての音楽はというと、確かに演奏していると、「音って楽しいなぁ〜」って、本能で感じているくらいで、どちらかと言うと、「こなせる事の楽しさ」だったように思う。音を操れる楽しさは確かにあったが、音をオモチャとしては感じていなかった。他の人から見れば、ピアノやギターを、自在に弾けたりするのは、楽しそうなんだろうけど・・・ 「操る楽しさ」と、「遊ぶ楽しさ」は、別ものなのだ。
 加えて、更なる衝撃の第2波として感じたのは、今後、世界中が一人のミュージシャンや、ひとつの音楽ジャンルに、人気が集中したりすることはないのでは? もっと極端にいえば、世界が、ひとつの宗教や、思想に偏ることなど、ないだろうとまで感じていた。それは、ビートルズ自身が、「みんなそれぞれに、好きな事を楽しんだり、各人が大切だと思うものを守って生きていいんだよ」というメッセージを、発しているのを感じていたからだ。
 ぽっと出の頃のビートルズは、確かに奇抜であった。長髪・ファッション・人前での態度・・・全てが型破りであった。最近、これを模倣したタレントがいるよネッ。ロシアのデュエット・・・(誰とはいいまっしぇんw)問題を起こす事が売り!みたいな(笑)
 まぁ、それはさておき、P太郎がビートルズの映画を見て、強く影響を受けてさっそく始めた事は、ビートルズのコピーバンドなんかではなく、人前にたって、音楽を通して、自己表現をしていこうということだった。音やリズムって、世界の共通語じゃん♪
 この時の衝撃は、講師の仕事をやるに当たって、いや・・・音楽に携わる時の基本として、「楽しまなくっちゃ」を、モットーとしている、P太郎の原点となったのであった。

 ちなみに・・・
 P太郎が小学生だった頃、おとうたまから最初に買ってもらった、クラシック以外のレコードは、「レット・イット・ビー」のシングル版であった(あれ?最初はひょっとしてパットブーンの「砂に書いたラブレター」だったかも?)←ぼけぇ〜の兆候
 おとうたまったら、何を思って買ってきたのかは未だに不明。その頃のおとうたまったら、確か・・・ 「走れコータロー」も買ってきていたC−(苦笑)
 リビングのステレオスペースで、「レット・イット・ビー」のA面・B面をかけながら、おとうたま曰く、「レット・イット・ビーの後半は・・・不良だなっ」(ボソッ) B面のレボリューションがかかっている頃には、既に席を立っていた。。。ププッ ( ̄m ̄*) 普段は、モーツアルトかチャイコフスキーしか買わない人が・・・ 彼的にははずした?(爆)
 P太郎だけポツンと、広いリビングにひとり取り残されながらも、その「レット・イット・ビー」や「レボリューション」に聞き惚れていたものだった。




第十八章 志向

 話を強引に戻しながらも。。。
 そんな最中(どんな中?)、ソロ活動や新たなバンド活動をやっていたP太郎であった。
んがッ、P太郎がこの当時、最終的に目指していたものは・・・ ここまで、結構メジャー志向?タレント志願?(笑)のように書き綴ってしまったような気もするが、じつはP太郎は、そもそもライターになりたかった。実際、バンド活動の中でも、楽曲を提供し、そのバンドのアレンジを手がけることに、存在感を見出していた。講師の仕事を始めて、人を活かすということに目覚めだした事も、多いに意味がある。いや、この経験があったからこそ、よけいに、ライターになりたいと思ったのかも知れない。
 この時点で、P太郎は既に計算高かった。正直に白状します。この頃から、アーティストとしてよりも、ライターの方が稼げる? って思っていた。夢を壊すようなことを書いてしもうて・・・
  スマン。。。

 P太郎って奴は、自分が主人公になるより、人を盛り立てるのが得意な人物である。お太鼓持ちという意味ではない。その人が持っている魅力を発見し、活かせるという才能である。当時は、○○(←P太郎の本名)&Somebodyというバンドや、ワー●ロープというバンドをやりながら、バンド内では、全てのパートの音を、まずP太郎が作り、プレーヤーさんに自分の代わりに?演奏してもらい、ボーカルさんに歌ってもらうというスタイルだった。

 この当時には、あまりそういう立場を確立した人はいなかったが、今で言えば、小室様やつんく♂様?(こちらはちょっと違うかも(^凹^))のようなものに、なろうとしていたのかもしれない。




第十九章 審査員

 この頃、講師の仕事と同時に、よく色んなコンテストの審査員をさせて頂いた。アマチュアバンドのコンテストはもちもん、時には、エレクトーンのコンテストの審査員までやった。しかも、P太郎先生の発言力ったら、絶対的☆はははっ P太郎がうなずかなきゃ、決まらなかった。
 ある時、アマチュアバンドのコンテストで、ベストギタリスト賞の選考をやっていて、他の審査員の方々は、リードギターを弾いた者を対象に悩んでいた。候補者が数名上げられた後、それまで黙っていたP太郎が、おもむろに、、、 「この人に賞を上げたい」と発言。それは、イーグルスの「ホテルカリフォルニア」のコピーと、オリジナル曲を演奏したバンドの、『サイドギター』を弾いていたギタリスト君の名前であった。その場にいた全員が、「えっ?」てな顔になる。
 P太郎曰く、「おいおい、君たち、何を聞いていたんだい? ギタリストって、テクニックだけじゃないんだよ。いかにノリを出せるかが重要じゃないの? ギターは、合奏の一パートに過ぎないんだよ」
 席が一瞬静まり返った後、「お゙ぉ〜 はいはい!ごもっとも!んだんだっ!」(笑)
表彰式で、ベストギタリスト賞を受け取ったサイドギタリスト君は、目が点になっていたが、そのバンドのメンバーを、控え室に呼んで趣旨を説明したら、目から鱗の表情。分かってもらえたかな?  (^凹^)ガハハ
 P太郎、調子に乗りすぎっぽい?(笑)




第二十章 あれ?

 自分の音楽というものを、素直に追求するには、最適の環境を得ていた頃(ヤマハのレッスン・スタジオは、自分のもののように自由に使え、その上、欲しい楽器は、その楽器店から提供してもらっていた)、「あれれっ?」という現象が起こった。
 「なんでこんな曲がええの?」「こんなんダメッしょ!」というものが、世間で受け入れられだしたのである。当時、博多では、独特の「めんたいロック」というものが流行りだしていた。地方の一部的な現象なれど、P太郎的にはぁ〜(笑) シンプル過ぎて、理解できないものであった。(~ヘ~;)ウーン

 P太郎ったら、自分の感性に自信を持ち過ぎていたのか? いや、そうではない。その聞き分ける耳こそ、P太郎の最も優れた才能であり、『自信の源』であったと思うのだ。それまでは、P太郎が、「こりゃ売れる」と思ったミュージシャンは、どんなにマイナーであっても、数年後には、必ず世間様に受け入れられていた。
 それは、例えば山下達朗様であり、アリス様であり、オフコース様である。彼らのマイナーな時代から、P太郎が「コイツはスゴイ」と思っていたら、結局売れたのだ。とは言っても、売れたから良いものとは限らない。売れなくても、「こりゃいいなっ」と思うミュージシャンも、山ほどいる。むしろ、その方が、絶対的に多いくらいである。「売れる」=「いい音楽」とは、限らないのだが、まぁ、そんな論議はさておき、「売れる人」の聞き分けだけは必ず出来ていた。
 ところが、ところがである。自分には理解出来ないもの・良いとは思えないものが、ちまたで受け入れだされた事に、危機感を覚えたと同時に、俺って、時代に取り残されたのかな?という不安が、急激に沸き起こってしまった。P太郎もここまでか?博多の音楽の、最先端を走っていたつもりのP太郎にとって、「脇の下に、じわっと汗をかくような」不快感がたちこめた。
 自分が否定したものが、世間に受け入れられている?! え゛え゛ぇ゛〜〜〜っ!
これは、おおきなショックであった。そんなはずはない、と思いながらも、世間では好評なのである。。。げーげげーのげぇ〜〜〜

 同時代に、同じ福岡から出世された、長渕様にしてもロッカーズ様にしても、クリキン様にしてもC&A様にしても、それぞれジャンルは違うが、それなりに認めていたからこそ、納得がいっていたハズである(注:みなさんP太郎よりもちょっとだけ年上ですYoo!ゴホッゴホッ)。
 P太郎、ふとっ我にかえる。当時、すでに20代半ば!音楽に没頭し続けて、我が身を(自分のセンスを)客観的に見れなくなってしまったのか?時代に取り残されたか?

     ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ げげっ


 あれ? と思うと同時に、ふと自分の姿をかえりみる。
あららっ。 いつの間にか先生、先生と崇められ、謙虚さも追求心も、どこかに忘れてきた?そんな・・・ そんなはずはないのだが・・・
 (後日談ではあるが、この「めんたいロック」は、決して全国的には広まるものではなかった。しかし、当時のP太郎にとっては、かなりのショックであったのだ。というか、認めたくない時流であった)
 もいっかい、げげげのげぇ〜〜〜!




第二十一章 音楽って・・・

 自分にとって、音楽ってなんなんだろう。そもそも、心揺さぶられるものであり、初めて鍵盤に触れた時、「なんか楽しいじゃん」と感じたものであり、生理的な快を得られるものであり、自己表現であり、最も得意な言語であり、自分の存在感を高める道具でもあり。
 そんな音楽に漬かっていく中で、色んな先人に出会い、その方達から有り難いアドバイスを頂く中で、「音楽と生活を共にする」ための助言として、こんなものがあった。
 「アメリカでは亜流でも十分食っていけるけど、日本では主流にならなきゃ食えないよ」

 自己表現をするためには、「自分の音を聞いてもらえる環境を、まず作らなければならない」という理論である。それは、P太郎のこれまでの経験上も、よく理解できる。ライブで、ちとっ名前が売れてくると、2倍・3倍とお客さんが増えだす。数々のコンテストで賞を頂くにつれ、人のP太郎を見る目が変わっていった。中には、接し方まで極端に変わった奴もいる。確かに、名前を売る必要もある。それはちょうど、政治家が、理想とする社会を築くには、まず選挙に打ち勝って、議席を得なければ始まらないのとよく似ている。その為には一時的な妥協も必要であり、聞いてくれる人がいなければ、それはただのマスターベーションに終わってしまう。

 ん? それでは、、、 P太郎は、聞いてもらうために音楽をやっているのか? それとも、ただ純粋に、自分の快として音楽を作っているのか?
 ここに、アーティストとクリエーターの違いが生じる。アーティストは生そのものであり、音楽業界の中でのクリエーターは、職業なのだ。
 自分はどっちなのだろう。出来る事ならば、生そのものでありたいが、冷静に自分を振り返ると、後者のような気がする。音が生の中に染み付いている体ではあるが、現実思考の方が勝っている。それってやだなぁ〜と思いながらも、現実が目前にある。
 世界的に有名な画家が、描いた絵の数は、800点あまり。しかし、「彼が生きている時に売れたのは、たった一枚であった」と言う話は有名である。( ̄〜 ̄;)ウーン・・・それもやだなぁ
 そんなP太郎にとって、音楽の質を見極める耳や自分の感性は、生きていく上で、ことの他、なくてはならないもののはずである。それなのに、「げげげぇ〜」でもって、「アレレ?」の現象が現われてしまった。




第二十二章 ぬるま湯

 ヤマハと専属契約を結び、LM(ライト・ミュージック)スクールの講師をやりながら、日々過ごしていたP太郎は、自身の音楽活動を含め、そこがぬるま湯であることに、違和感を感じだしていた。あの、有り難くも厳しかったピアノの日●野先生に対して、「学校の音楽の先生になるだけだったら、音楽をやる意味がありません!」とまで言い切っていたP太郎が、今は周りから先生・先生と呼ばれて、いい気になっている?
 をいをぃ!これじゃダメじゃん (;>_<;) エーン

 ここらで、はっきりさせましょう。このまま、ぬるま湯に浸かりながら、先生と崇められて、いい気になって生きていくのか? それとも、一旦全てを捨てて、我が身を冷静に省みてみるか。。。
 この時、P太郎ったら、自分の声を聞いて貰える環境にある「我が身の有り難さ」など、ちっとも分かっていなかった。自分にとっては、ほんの少しずつ背が伸びたので、結局何センチ伸びたのか、振り返る余裕すらなかったのである。ただ、なんとなく過ぎていくような時間に対して、苛立ちを募らせていただけかもしれない。

 えぇいっ! ここらで環境を変えまっしョ! 「あれれ?」のこともあるし、今の自分になんだかとっても違和感があるし。。。
 どこに行くというのか、P太郎?!




第二十三章 雌伏の時

 いたたまれなくなったP太郎は、突然、講師の仕事も音楽活動もすべてやめて、実家に帰った。才能のないものは、田舎に帰れってか? 当時、それなりに講師として、かなりの収入を得ていたが、全てを捨て去って、田舎に逃げるようにたち帰った。何を求めていたのかは、自分でもはっきりしていない。
 田舎に帰ってから、しばらくは、ただの中途半端な青年として、過ごさざるを得なかった。狭い狭い音楽の世界の実績など、実社会においては、なんの価値ももたないのである。むしろそれは、邪魔でさえあった(ここもテストに出ます☆)。田舎で、今までと同じ、音楽講師をやろうとすれば、知り合いであり、顔見知りのみなさんの職を奪う事になる。さすがに、それはちょっと気が引けて、やれなかった。従って、食っていくために、ただの『おじさんサラリーマン時代』を過ごすことになる。まさに、雌伏のときである。
 しかし、この時期、人間としては、おおいに勉強させて頂きました。なんせ、先生と崇められた人間が、いきなり「頭を下げるのが当然」という環境に置かれたのだから・・・ この当時の体験は、私にとって、貴重な財産となっております。
ありがとぉー 田●社長ぉ−−−っ!!!




第二十四章 声が・・・

 自分に納得がいかないという、とってもとっても、身勝手な理由から、結果的に音楽を捨てしまって、後は、ふぬけの余生とばかり、無気力にただのサラリーマンとして、つらつらと過ごしていたそんな頃。
 音楽活動をしていた時は、なんらかの楽器を、常に身近に抱いていたP太郎であったはずなのに、田舎に帰ってからというもの、それから1年余り、まったく楽器に触れなかった。音楽を止めてしまったというこだわりなのか、それとも、ただ、いじけていたのか・・・ それまでのP太郎の人生からは、信じられないような、『楽器無し』の時が、流れていった。

 それでも、やっぱり・・・ やっぱり、音楽好きなP太郎は、当時流行っていた皆さんご存知の、「ウィ・アー・ザ・ワールド」を、カーステレオで大音響で鳴らしながら、会社の営業車を走らせながら、調子に乗って一緒にものまねのように歌っていた。知らず知らずの内に、それぞれのアーティストの、声色を真似ながら唄っていると・・・
 あれれっ? スティーヴィー・ワンダーの声が出せる? ありゃ〜〜〜?! P太郎ったら、それまでは、声には自信がなかったはずなのに・・・ あれ? Pちゃん、お上手じゃん♪(笑) 今までビブラートなど掛けれなかった声が、自在に操れるじゃん?
 あれまぁ〜〜〜(^▽^喜)
 どういうわけか、突然、「発声のコツ」のようなものを身に付けてしまった。以前は、せいぜいEかF程度しか出なかった声が、その日以来、どこまでも限りなく出せるようになってしまったのであった(と言っても正確にはCかB程度ではあるが・・・)。それでもスゴイ・・・。
 会社の飲み会で、当時流行っていた曲を歌ってみた。それはそれは大好評♪ 飲み屋のねぇちゃん大興奮!(笑)

 アレレ? おれって、唄が歌えるようになってしまったんだ。。。

 その頃から、出勤・退社や仕事中の車の中は、発声練習の場。常に、ちとっ苦しめの高音の曲をかけながら(フレディ・マーキュリーとかモーリス・ホワイトとか山下達朗とか(笑))、一人の車中で大声で歌う、奇怪なサラリーマンが、田舎の地を駆けずり回る事となる。
(不気味やん)w




第二十五章 MTR

 声が出だしたからには、歌を唄わずにはおれまっしぇん。それもカラオケなんぞでは、満足できない、下地っつーもんがP太郎にはあります。んじゃ〜 いっそ、自分で音を作って、唄おうではあーりましぇんか! そこでMTRという、多重録音のシステム(その当時で、80万円くらいだったかな?)を買い込み、再び音楽を始めるP太郎であった。今、当時の音を聴き直すと、なんともいやはや・・・(笑)、ほんまに笑っちゃうような音なのだが、自分ひとりで、全てのパートをこなせてしまうシステムに、はまっていった。まずは、以前バンドでやっていた音を、打ち込みや生音で、多重録音して再現してみた。ギターとピアノは生音を重ね、ラッパや弦はシンセで音を作り、太鼓は打ち込みで作っていく。
 うんうん♪楽しいじゃん。 勢い余って、更なるオリジナル曲の制作に、没頭していく。この頃は、ただひたすら、自己満足の音作りでよかった。誰に聞かせるわけでもない。自分が楽しむ為の音作りに、満足していた。
 音を作るって、こんなに楽しかったのか? 音楽から一時離れてみて、再認識させられることであった。まさに、音がオモチャになっていた。
 やっぱ、音楽って楽すぃ〜じゃん♪




第二十六章 縁は異なもの

 きっかけって、ささいなものでもええんやネッ。ほんの少し、声が出せるようになってしまって、それがきっかけで、それまでとは違ったスタンスで、またまた音楽にのめり込んでいくP太郎がそこにいた。
 そんな或る日、自宅のTELが鳴った。どこをどう通じてきたのかしらにゃいが、結構メジャーなアーティストからであった。苦悩に満ちた声で、いきなり「曲を書いてくれ」とのご依頼。

 「はぁ?」☆△/●*#:”∧?
 当時のP太郎にとっては、馬が豆鉄砲を登ったような・・・  あれ?
「馬」の耳に念仏・・・鳩が「豆鉄砲」を・・・豚もおだてりゃ木に「登る」・・・ あれれっ?(笑)
そんな混乱を引き起こしつつ、その頃のP太郎にとっては、非現実的な、とんちんかんなご依頼から、ことは始まった。
 お断りする理由もないP太郎は、とりあえず、走り書きのような数篇の詞をお預かりした。
「えっとー・・・ そんじゃ〜 まず、2、3曲書いてみますねっ」
その時預かった断片的な詞は、結構P太郎にとって刺激的であり、創作意欲をかきたてるものであった。「さすがだなっ」と思った。
 とりあえず、メロを付けてみて、こんなんでいいのかにゃ〜??? そんな思いで送った曲が、後日、結果的にすべて、色んな形でご採用となった。
 ありゃまぁ〜(笑)
 そこには、自分が自分の音楽に対して、がっついていた頃の感情とは違った、どこか覚めきったような感傷があった。

 それは、いわゆる「ゴー○ト」と呼ばれる、職種の始まりであった。P太郎の名前は、どこにも出ない。あくまでも「結構メジャーなアーティスト」の楽曲として、世間に出回りだした。しかしながら、やっぱり?いつの間にか、P太郎の自宅のTELが、徐々にではあるが、頻繁に鳴り出した。ゴー○トだったはずなのに・・・(笑)




                                            ・・・つづく