けんすけの宅録史







1970年
 昭和45年1月、兵庫県明石市立市民病院にて この世に誕生(2,710グラム)。母はクラシック等のレコード鑑賞が好きで、恐らく僕は体響音楽を聴いていたと思われる。自宅に 「コロムビア・エレピアン」 というサイレント・ピアノ的な楽器があり、3歳か4歳の頃、初めて楽器に触れたようだ。


小6時 鼓笛クラブ(小太鼓)
1979年
 一番最初に作った曲は小3のとき、妹と遊んだ人形ごっこのオープニング・テーマソングだった。
モノラル・ラジカセ で録音したテープがあるが、ほとんどが実家に眠っている。伴奏はなく、妹と自分のユニゾンの声のみ。その他、走行中の電車内の音を録音したり、TV番組を録音するなど、小学生時代から 『録音魔』 だった。 小5か、小6の頃(1981年ごろ)、友達と録音した音声がこちら。 右から聴こえるのが僕の声。 遠くでインコの声も聴こえる。小5の時は 漫画クラブ、小6の時は 鼓笛クラブで、小太鼓(スネアドラム)を叩いていた。

1982年
 中1のとき、
YMO 好きのクラスメイト(女子)が作った るんるんサークル に参加。その頃から作曲という言葉を使い始め、曲も二〜三作るが、ABCやサビといった構成で言えば 『Aしかない』 ような短い曲しか出来ず、一向に良い曲はできなかった。(それは現在ボツ扱い) サークルで開いた、お茶の間コンサートのテープが残っている。中学校では 吹奏楽部 (ブラスバンド) に所属。 転校するまでの約2年、バス・チューバを吹いていた。



中学校 吹奏楽部



YAMAHA MK-100








1983年
 自作の音楽もこの頃から、1人で何回かの演奏を重ねる 多重録音 となっていった。しかし当初は ラジカセ2台 を向かい合わせて行なう一種のピンポン録音方式で、3回ぐらい重ねるとモゴモゴとして音が悪かった。しかも雑音として、ラジカセのモーター音と、ベランダに居たセキセイ・インコの声が、重ねるごとに増えていった。 最初はリコーダーやピアニカを使った演奏を録音していた。

 中2の2学期の終わり頃、初めての電子楽器、
YAMAHA ポータサウンド MK-100 を購入した。本当は上記YMO好きな友人の影響でシンセサイザーを買おうと思っていたんだけど、当時店頭に並んでいた Roland SH-101や YAMAHA CS などはモノフォニック(和音が出ない)であることを店員に説明され、機能がいっぱい付いていて最大7和音が出るのが面白そうだったポータサウンド MK-100 を選んだのだった。今思えばこれは独特の音色を持つユニークな楽器だ。MK-100の音は、1984年で紹介するマーメイドで聴ける。

 1983年はラジカセ2台の頃のサウンドということで 動物村の仲間たち を紹介する。これは2つのバージョンを繋げたもので、後半は弟を引き込んだ合唱になっている。転調しているように感じるが、転調はしていない。重ねた回数によってピッチ変化量が変わるのだ(笑) 1分過ぎに入っている
ラッパのような音は自作の楽器。ジュースの缶にホースを繋いでチューバのマウスピースを付けたもの。ホルネット と名づけていた。実はこの曲、原形は1978年に作った人形ごっこの曲!オリジナル第1号である。また、参考としてオリジナルではないが一番初期の多重録音はこちら。笛やピアニカが使われている。前半の笛は'83年と思われる物で、後半の 猫踏んじゃった は'84年かもしれない。 

 中学では 吹奏楽部 に所属していたが、ポータサウンドを買った直後の 1984年1月の転校以来、部活なしの環境になり、 『自分の音楽の時間』 ができた。 また、るんるんサークル制作の番組内で演奏した即興音楽、変身ミュージック恐怖のごっこ、もこの頃。

1984年

 
中3のとき、夏休みの音楽の宿題が なんと作曲。このとき初めてABCといった流れ感やコード進行のはっきりした曲を作ることが出来たように思う。 世界の扉 (←このMP3は高1の1985年に4トラックMTRで再録音したもの)。中1からやっていた 吹奏楽 で感覚が鍛えられたのかも?しれない。

 この頃からPA機器に興味が湧き、
チャンネル・ミキサー BOSS BX-800 を購入。これは当時 組んだばかりのバンド(ギター、ベース、キーボード等)の録音で使っていたが、自宅でも自分の多重録音で活躍。2台のラジカセの間にミキサーを挟み、全部をステレオのLINEケーブルで接続。カセット2枚を同時に使ってピンポンを行うオリジナルの多重録音システム(右図)となり、コンポを買うまで、しばらくはこのシステムでやっていた。これには驚きがあった。なんと、マイクを多用でもしない限り、インコの声が入らないのだ!(笑) これでラジカセのモーターノイズ(内臓マイクから入ってしまう)や、インコの声といった、音を重ねるごとに増える雑音は無くなり、残されたのはテープのシーっというノイズと、2台のラジカセのテープ速度差によるピッチのズレといった問題だけになった。その後 卒業前だったか、コンポを購入。ダブルデッキのAとBの間にミキサーを挟む方式になったが、音質的にはそれほど変わらないレベルだった。その頃には使う楽器も増えていた。ポータサウンドにリズム帯をまかせ、エレキギター、エレキベースに加え、密かにボーカルも録音するようになった。

 家にあった3ヘッドのオープンリール式 テープレコーダー(多分トリオ製)を録音状態にしたとき、音が遅れて出てくるのを発見したのもこの頃で、最初は 「なんで〜!?」 って感じで驚いた。最終的には、ミキサーのセンドから録音状態のオープンリールへ音声を送り、そこからまたミキサーのリターンに戻してディレイした音をミックスする形で、エコーマシンとして利用するようになった。戻ったディレイ音を再びセンドに送れば、音は無限のように繰り返し続けた。

  マーメイド はまさにこの年に録音した曲で、このテープエコーを利用している。このシステムで録音した YMOのライディーンもこっそりと置いておこう。テープ特有のノイズが楽しめる。僕の曲は入っている楽器音やノイズの有無でだいたいの録音時期がわかる。エレキギターを使わず、ベースをオーバードライブさせているのは、エレキギターを買う前だった春ごろのはずだ。当時このテープをおじいちゃんにプレゼントしたのだが 「あの、サルまわし みたいな音楽はなんや?」 と言われショックだった。
マーメイド Youtube版(1986年版と1984年版がメドレー)


  
               上記ラジカセは後に Kenwood ROXY カセットデッキに交代



音に魅せられ、ギターより先にベースを始める。
中3の頃は特にビートルズを夢中で聴いてた。



BOSS BX-800
1985年
 
市立高校入学祝いとして、6和音が出せるアナログ・ポリフォニック・シンセサイザー Roland JUNO-106 を入手。このとき初めて MIDI 規格を知る。JUNO-106と全く同じカラーリングのハードウェア・シーケンサー MSQ-100 を一緒に購入したが、この頃のシンセは常に1音色しか扱えないシングル・ティンブラルだったせいもあり、たいした活躍はさせられなかった。(MSQ-100 を使った作品は現在アップしておらず、この頃の作品はほぼ手弾き。)

 そうそう、現在ではどこの家庭でも当たり前のように使っている
C D (コンパクトディスク)というものを初めて知ったのはこの頃だった。それまでは 音楽アルバム と言えば直径30cmほどの円盤、LPレコード のことを指していたし、この頃はまだ世間的にもレコードの方が幅を利かせていた。 C D はまだ出て間もなく、CDデッキもローエンドの YAMAHA CD-X2 がやっと10万円を切って、僕のような、ちょっと音楽好きな普通の人にもやっと手が出せるようになった頃だった。CDは当初、再生ボタンを押しても、再生されている事が一瞬わからない・・・と言うか、無音の中から、いきなり音楽が始まるという事が、とても不思議だった。ゆっくりと手でレコードに針を落として、パチ・・・パチ・・・というノイズで始まらないのがどうも不思議で、とても近未来な感覚だった。 レンタルショップという物が当時も存在したが、当然 「レンタルレコード」であり、1986年頃までは街角にあって、利用したこともある。その後はかなり急速にレコードは姿を消して行ったような気がする。


Roland JUNO-106








1986年
 16歳の春、初めての カセット MTR(マルチ・トラック・レコーダー)、TASCAM 246 を購入。これはもう音質の大革命だった。まるでノイズが感じられないほどの高音質。初めて触ったパラメトリック・イコライザーの効き方も衝撃的だった。4連VUメーター、6チャンネル・ミキサー、4トラック 倍速 カセット・レコーダー、テープスピード調整、dbx ノイズ・リダクション。すべてが夢のようなレコーダーだった。

 [2021年追記] 実は今までは恥ずかしくてあまり語らなかった部分だけど、高校入学後1年で、僕は勉強に全く身が入らなくなり、高校を中退したあと、東京の音楽専門学校へ行かせて貰える事になった。1年目はスタジオミキシング科へ。2年目は 「ちょっと違うかったかな?」 と思って作曲編曲科へ転向していた。 ところが、ちょっと若過ぎた気がする。自分の音楽づくりは続けていたとは言え、学校はさぼるわ、バイクにハマって、バイク便のバイトに入れ込むわで、ちょっと目的からはズレたまま 東京での2年間を過ごした。もちろん、めちゃくちゃ楽しんではいた! いろんな人と出会い、色んな体験ができて、プラス面ばかりで、人生を無駄にしたとは思わない。 ただ、音楽業界に背を向けてしまった事にはなり、2年後、就職もせずに田舎へ帰る。しかしこの時期に、なにげに見たり聴いたりしてた事は、30年以上経ったいま役に立つ事もあって驚いている。人生に無駄なんてなかったと実感する事がある。わずかに残る当時の記録として東京レコーディングスクール卒業制作ビデオがあるが、24分台に収録されている 『 願い 』 という楽曲のデモテープ段階にて編曲を担当。

 1986年は最も曲を作った年で14曲の録音が残っている。クオリティはともかくとして(笑) とにかく、この頃は日常の中に時間がふんだんにあった、羨ましい時期だ。2005年現在、音楽に割く時間のなさや、年月経過の早さには危機感さえ感じるときがある。5年ぐらいはアッという間に過ぎる。このままだとすぐにジジイになって死にそうだ。あの頃の時間の使い方や感じ方が恨めしい。 (1986年のサウンドは全曲リスト MP3を参照)


 

TASCAM 246

1989年
 楽器店(リードマン三ノ宮)店員の甘い言葉に乗せられ、PCM音源を搭載したキーボード Roland U-20 と、デジタル・エフェクト・プロセッサ Roland DEP-5 を購入。(20万円ぐらいしたかな?僕は19歳で運送会社に就職してたからね〜) これがまた、どちらも革命的なシロモノだった。 僕の中でも、時代がドカーン!と進んだ瞬間だった。何がすごいって、昔はPCM音源なんて存在しなかったのよー。だから Piano と言う音色名でも、本物のピアノの音が出てくる電子楽器なんて一台もなかった笑 そんな時代、ついに出てきたPCM音源だった。(つまりサンプラー的な音質。多分U-20が世界初ではありませんが) 一方、DEP-5 は当時としては信じられないほどの空間表現力をもっていた。これにより、僕のサウンドの中に初めてリバーブと言うものが登場する。(U-20 や DEP-5 を使ったサウンドは'93年の作品 天国に一番近いトリ 等で聴けます。ドラムはR-5ですが。)

 '89年は昭和の時代が終わり、平成の時代が始まった年だ。DEP-5が来るまで、うちの空間表現エフェクトと言えば、ボスのギター用コンパクト・ディレイしかなかった。クセがあるのでボーカル等1つぐらいにしか使えず、他はほとんどドライなままのサウンドだった。



Roland DEP-5



Roland U-20
1991年
 TASCAM 488 を購入。テープ式MTRが8トラックになって録音の自由度は増したが、イコライザー性能が思い切り下がったので後で不満に思った。やっていること自体はあまり変わらなかったと思う。音楽の方はオリジナル専門のバンドやってたのも手伝って、なんだかエエカッコしいな曲が増えた。また、この頃はアニメソングのメドレーをよく録音していて、アルバムリバティー に収録した。


 Youtube動画: ユー・リアリー・ガット・ミーや、クロック・ワーク・ランナー(バンド演奏、いずれもベースで参加)はこの頃の映像。オリジナル曲専門のバンド North-Point がメインの活動だったけど、そちらの動画が残っていない(^_^;)





TASCAM 488
1993年
 1993年は人生の中でも激動の年となった。サウンドも1993年までと 1994年からでは激変するため、ひとつの時代の区切りと考えている。この年は自家用操縦士(ヘリコプター)免許取得のため渡米した年だった。社会人になって3年経ち、僕は『空の世界』に新しい希望を抱くようになっていた。事業用操縦士を目指していたため、米国(カリフォルニア州フレズノ)滞在は通常より長く、6か月に及んだ。帰国後は飛行学校(代理店)の事務所を手伝うため、半年ほど東京に滞在した。

 1993年の終わり頃に、コンピュータを利用した DTM(デスク・トップ・ミュージック)を初めて知り、今なお 使い続けているシーケンス・ソフト、レコンポーザと出会うことになる。このレコンポーザ、困った事にマニュアルが欠品していたので困っていたところ、ちょうどコンピュータ・ミュージック・マガジンにレコンポーザ2.3 の体験版が付属しており、その簡易マニュアルが僕の打ち込み教科書となった。



Roland SC-55 MarkII



レコンポーザ
















1994年
 DTMとパソコン通信の時代が始まった。話は前年の暮れにさかのぼるが、僕がDTMを始めたきっかけは、カラオケ制作のアルバイトの話があったからだ。本業が忙しく結局その仕事はできなかったけど、紹介者だったM氏がデモ演奏を聴かせてくれ、打ち込みについて熱く語ってくれた日のことは忘れられない。彼らのカラオケ製作へのこだわりや、レベルの高さには驚いた。そして Roland SC-55mkII と中古のパソコンを買う。

 当時僕は
SC-55mkIIは凄い音源だと思った。16パートもの違った音色を同時に扱える楽器なんて、それまでは考えられなかったし、搭載している音色数も300を超えるなんて、それまで見てきたどの楽器よりも異常に多かった。これには凄い可能性が秘められていると感じた。とにかく Sound Canvas は当時としては革命的な音源で、時代を底辺から引っ張っていたと思う。NIFTY-Serve のIDも取得し、DTMとパソコン通信の時代が始まった。 この時期のサウンドは 全曲リスト MP3 を参照。当初のパソコンは、EPSON PC-286VG だった。


 Nifty-Serve FMIDI資料室 投稿曲の記録より: 1994年8月 『電影都市』 6位、9月 『時を止めて』 6位、 翌年 1995年6月 『ヒューアレイ/愛のテーマ』 20位、同月 『Rolling Kids (インスト版)』 69位、8月 『DIRGE (哀歌)』 40位、11月 『戦士のテーマ』 10位。 1994年はDTMデビュー曲 『風を切れ!ローターよ』 を投稿したが、11位以下の記録が表示されていない。

1996年
 96年、モニタースピーカーに、憧れの YAMAHA NS-10M (Pro) を使い出したのはこの頃。アンプもヤマハ製に換えた。するとミニコンポでは聴こえなかったような音が、色々と聴こえ出したのには驚かされた。とにかく新しい音の判断基準となるようなものを手に入れようと言う風潮が高まった(自分の中で)。Roland SC-88Pro が10月に発売され、その後 SC-55mkII から買い替えた。 FMIDI資料室 記録より: 1996年9月 『ルート99 (インスト版)』 100位 ※1996年は八尾飛行場での事業用操縦士の訓練(実地試験含む)に明け暮れていたためか投稿曲は少ない。免許取得後、自社ヘリ運航会社に就職。


1997年  
 1997年、初めてのコンプ Behringer MDX-1200 を購入。今思えばそれまで無かったのが不思議だが、コンプの効果を甘く見ていたというのが実際のことろ。マイクも安い Audio-Technica からの買い替えで SHURE SM58 を入手。年の終わり頃は久々にギターなどを使った音楽がやりたくなってきた頃で、しばらくMTRはごぶさたな所に、当時出たばかりのMDを使ったMTRを入手。SONY MDM-X4 は初期のMDだからか音質的に少々クセがあった (ドンシャリというか)。 FMIDI資料室 記録より: 1997年3月 『インターセプター』 66位、6月 『夢追う戦士』 90位  Youtube動画: ゆかいな ツイスト・アンド・シャウト(バンド演奏、ベースで参加)もこの年だった。


Roland SC-88 Pro











1998年
 '98年は僕の中で、また新しい時代が始まった。ここからは機材もサウンドもどんどん変化していくので、ここもひとつの時代の区切りと考えている。MTRは8トラックHDR(ハード・ディスク・レコーダー)に変更。 FOSTEX DMT-8VL PLUS は確かスガシカオさんもこれを使っていたと思う。 荻野宣邦さんの本 「レコーディングミキサー心得帳」 を読んだせいもあるのか色々と興味をめぐらせた。 録音はそれまでより丁寧にやっていた気がする。マイクプリ ART TUBE-MP や、ディストーション Guyatone Metal Monster など、真空管デバイスも試すようになった。 代表作 にもなる 『BLUE (ブルー)』、 『Good Luck,  My Friend』、 『ルート99 (MTR版)』 を 自宅レコーディングしたのも この年。

FMIDI資料室 記録より: 1998年7月 『遙かなる空への道』 24位、11月 『BLUE(ブルー)』 インスト版 63位。 『遙かなる空への道』 では、長3度、短3度のピッチをズラし 『純正律の響きに近づける実験』 を行った。曲全体に調整を施したが、特に冒頭の4音目(二分音符)の和音で効果のほどが確かめられる。




FOSTEX DMT-8VL
1999年
 '99
年は一番、油ののった時期かもしれない。DMT-8VLを2台シンクロさせて15トラック仕様にしたり、英国製の真空管コンプ Drawmer 1960 を使ってみたりした。代表作 の『トレジャー・ハンター』 や、『CARE(ケア)』 を録音したのもこの年だった。また、初めてのサンプラー E-MU ESI 4000 を手に入れたのもこの年で、従来のプリセット音源の限界を超える世界も見えて来る。


E-MU ESi-4000



A
2000年
 2000
年、“遠き故郷” を完成させて以降、パッタリと曲ができなくなる。(仕事場が岐阜県から栃木県へ移ったり、身の置き場が安定しなかった為かもしれない。) それ以降、機材は縮小傾向になり、2001年末から4ヶ月に及んだ失業期には高価な機材をすべて放出。その後、念願が叶う形での就職が決まり、秋田県へ引越し。 自社所有ヘリコプターの運航とは違い、航空運送事業としてのヘリコプター運航という、これまでと違った 「仕事の重大化」 や、生活環境の変化も手伝だって音楽趣味は休止期に入ってしまう。

[2021年追記] この頃の生活や趣味、ヘリコプターの仕事現場の様子をYoutube動画として30分で綴ったので興味があればどうぞ。(^_^)







2005年
 2005年の春、YAMAHA MOTIF-RACK ESE-MU Proteus Orchestra を購入したのをきっかけに 休止期は崩れ始める新たな仕事にも余裕が出来てきたのだろう。しかしそれは序章にすぎなかった。

 
2005年夏、出張先の北海道で、20年以上ぶりに吹奏楽コンク−ルの地区大会を見に行って感動し、胸が熱くなった。それから 吹奏楽曲の作成を決意して、2006年春には 吹奏楽の作品応募 のために、初めて、吹奏楽編成の曲を作るなど 活気が沸いてくる。 続く 2007年にも作品を応募。 その後、テューバ、テナーホルンと、金管楽器を2本も購入するなど、完全に軌道が変わってきた。 オリジナル曲は、通算 103曲 になった。(ボツもあるけど)




YAMAHA MOTIF-RACK ES



E-MU Proteus Orchestra



B
2008年
 2008年に故郷の兵庫県へ帰って転職。 2009年には結婚。 2010年に息子が誕生。 思い描いた通りに動いたとはいえ、これは人生のちょっとした事件になった。 仕事やら、家庭やらで 忙しい日々が続いた。 2008年に吹奏楽の案を作りかけて以来、機材もホコリをかぶってしまった。音楽に対する気持ちが なくなった訳ではなかったが、仕事と家庭で手一杯となり、できなくなっていた。そして 2016年 秋から 鬱病になり、3年ほど、その状態が極まった。 この休止期はトータル12年に及んだ。あまりに頑張りすぎたため、その後、良い意味での反動が出る事に。








2020年
 約3年間のうつ病と挫折を経た2019年、意識の在り方について考え 人生の方向転換を始める。大きな断捨離をする中、アナログシンセサイザーや FMシンセ、サンプラー、音源モジュール、ギター、ベースなど、2008年から使わなくなっていた音楽機材を すべて手放してしまった。 なぜか 「そのあと」 に ・・・ 「僕には音楽があった」 ことを思い出す。 僕にはやっぱり、音楽が必要。 音楽をやりたい・・・。 そして 2020年 5月から音楽制作を再スタートする事を決定。 ちょっと変だけど、すべてを手放したあとに手に入れた楽器が Roland INTEGRA-7

 2020年夏、急遽 友人の楽曲を1日で仕上げなきゃいけない状況を手伝う事になったのがキッカケで導入した Windows用の音楽ソフト(DAW)、Studio One 5 が 2022年も活躍している。 音符データの打ち込みには、いまだ DOS版 レコンポーザを使うものの、ボーカルやコーラス、カラオケの合体や、エフェクト処理、ミキシングなどで DAWは必須のアイテムになる。やっと現代らしい感じになってきたー。




Roland INTEGRA-7



2022年
以降
 2022年は 9月から10月にかけて制作環境が急速パワーアップ。 VIENA, CINEMATIC STUDIO, SPITFIRE などのソフトウェア音源を導入したり、PCやスピーカーなども バージョン アップ。 新しい環境で制作したデモ・カバー曲、アフリカン・シンフォニーを機に、ハード音源からソフト音源へ完全移行した。 新しい章が始まる予感。 2023年6月には 銀河の探検隊 2023 を公開。 2023年9月、バンド再結成。 2024年3月、5バンド合同のミニライブへ参加予定。

















2022年9月23日  制作現場 バージョン アップ









2005. 4. 24 公開

2024. 1. 21 更新


HOME