Buzzcocks Story vol.4 1979年7月〜12月


前回書き忘れたが、この年の3月31日にハマースミス・オデオンで行われたライブの後の楽屋で日本初のバズコックスインタビューが行われた。
毎日毎日続くツアー、過密スケジュールの中で精神的に病んで行くピート・シェリー。彼の引っぱるバズコックスが解散への道を進んで行く過程を書くという事でこっちが精神的に参ってしまった。
売れる事でバズコックスは、ピート・シェリーは、一体何を手に入れたのだろう…。

1979年7月

7月に入り、バズコックスはマンチェスターのアロー・スタジオにてニューアルバム「ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション」のレコーディングを開始した。

4日から5日にかけてデモ・レコーディングを行ったが、初日にスティーブ・ガーベイ作の「ランニング・アウェイ・フロム・ホーム」をレコーディングしたが、これは残念ながらアルバムに入る事は無かった。

しかし、後にトニー・バーバーの手によって発売された「クロノロジー」に「ラン・アウェイ・フロム・ホーム」として収録されたのは周知の通り。

8日に彼等はロンドンにあるエデン・スタジオに移動し、シングル「You Say You Don't Love Me/Raison D'Etre」のレコーディングを行う。

13日、「ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション」からのシングル・カット「Harmony In My Head/Something's Gone Wrong Again」がシングルとして発売された。

サウンド誌とNME誌では「バズコックスを過小評価していた」と絶賛したがチャートは32位止りだった。

21日サウンド誌はピート・シェリーのホームタウンで8月のバンクホリディの3日間に行われたロックフェスティバルを特集した。

多くのバンドが参加し、バズコックスも参加するという噂が流れたが実際には参加しなかった。

24日、BBCの「トップ・オブ・ザ・ポップス」の収録を行う。(放送は25日)

27日、ピート・シェリーとスティーブ・ディグルはロンドンのオリンピアで行われた「Music Exhibition」(音楽博覧会)に参加、ファンに混ざって写真を撮ったりサインをしたりして楽しんだ。

こういう会が日本でも出来るといいのだけど…。

1979年8月

「ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション」の発売を9月に控えたバズコックスは、15日までにロンドンのポートランド・スタジオにてマーティン・ラシェントと共にマスター作業をしている。

18日、バズコックスのプランではロンドンのハイド・パークでコンサートを行う予定だったがキャンセルになった。原因はレコード会社のサポート力のなさと、同じ日にハイド・パークから近い場所で行われた当時圧倒的な人気を誇っていたザ・フーのコンサートと争う事になってしまったからだった。

25日、「スパイラル・スクラッチ」再発。この時のシングル・チャートでは31位だった。

30日、ボストン、パラダイス・クラブ。
ここでバズコックスは初めてアメリカでライブを行う。ライブ後、WERS-FMに生出演してインタビューを受けている。

31日はニューヨークのクラブ57にてライブ。

1979年9月

1日、昨日に続いてニューヨーク、クラブ57にてライブを行った。WERS-FMはこの日のライブを放送し、ライブ後にインタビューを取ろうとしていたがバズコックスはうまく逃げてしまった為、インタビューが放送される事はなかった。

4日、ワシントンD.C.の9:30Clubにてライブを行ったが、この日スティーブ・ディグルのギブソン・レスポールのネックが壊れてしまった。これによって彼は895ポンドの損害を受けた。

5日「Everybody's Happy Nowadays」が、アメリカでの初リリース。「人生は幻想、愛は夢」このフレーズはアメリカ人にどう映ったのだろうか。
この日メンバーはカナダのトロントへ向けて出発している。

7日にはトロントのミュージック・ホールにてライブを行うが、ライブ前にローカルTVの取材を受けている。

8日にはトロントを発ち、シカゴへ。この日予定されていたデトロイトでのライブはキャンセルになる。

9日、シカゴのマザーズにてライブ。午後バズコックスはWZRDラジオのインタビューを受け、WZRDではその夜ライブの模様と共に放送した。

10日、ミネアポリス、ロング・ホール。クラッシュのメンバーもライブを観に来ていた。

11日、サン・フランシスコ、グレアリー・テンプル。

12日、サンタ・モニカ、シビック・センター。

14日、イギリスでは、彼等のサードアルバムとなる「ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション」が発売された。アルバム・スリーブにはウエストミンスターで撮影された写真が使われていた。

この頃のバズコックスは絶大な人気を誇っていた。にもかかわらず、この頃ピート・シェリーは精神的に病んで来ており、まさに限界に達していた。そしてこのリリースが最後かもしれないと言っていた。残念な事にこれは現実となり、これ以降バズコックスとしてのスタジオアルバムが制作される事はなかった。

15日ニューヨークのチャイナ・タウンで撮影された写真がメロディ・メイカー誌の表紙を飾った。同号で2ページに渡りバズコックスのアメリカ・ツアーの成功を告げた記事が掲載された。

16日にはアメリカからロンドンに帰国している。

19日、アメリカのバズコックス・ファンであるジョアンがアメリカでは初めてのバズコックス・ニュースレター「Harmony In My Head」を発行した。その後4年間に19号ものニュースレターを発行し、世界中に5000人もの会員を持つ程に成長した。

20日レコード・ミラー誌には「ア・ディファレント・カインド・オブ・テンション」のレコード・レビューが掲載された。

25日、「Singles Going Steady」がIRSから発売された。これはアメリカで初めてのアルバム・リリースとなる。スリーブ写真に選ばれたのはデビューアルバム「アナザー・ミュージック・イン・ア・ディファレント・キッチン」に使われたショットとは違う日に撮影されたオリンピック・スタジオ内のモノだった。そして同じ日、「You Say You Don't Love Me」が発売されている。

29日、レコード・ミラー誌はバズコックスの初アメリカ・ツアーについて「バズコックスがアメリカ制覇!!」と伝え、「彼等はトップとに躍り出た、そう、ビートルズの様に…」と絶賛。

30日、31日はUKツアーのライブ・リハーサルをシビック・ホールにて行う。

1979年10月

2日、「テンション・ツアー」リバプールのマウントフォード・ホールにてスタート。サポートはジョイ・ディビジョンだったがメロディ・メイカー誌が「気が滅入る、失望した。」初日のライブ・レビューで書いた為、サポート・バンドを3日で変更するしかなかった。

3日、リーズ、ユニバーシティ。

4日、ニューキャッスル、シティ・ホール。

5日、グラスゴー、アポロ。ライブ後、セントラル・ホテルのバーで飲んでいたバズコックスとジョイ・ディビジョンのメンバーは酔っ払って非合法のゲームを始めてしまった。結果、警察に呼ばれたマネージャーはこの酔っ払い達のおかげで起訴されてしまったのである。

7日アバディーン、キャピタル。

8日、Dundee,Caird Hall

10日のベルファスト、ウルスター・ホール、11日のポートラッシュ、ケリーズ、13日のコーク、シティ・ホールは全てキャンセルされた。

18日、Bangor 大学。午後、クルー等が外を探検しに行ったきり開場時間が来てしまい、結局この日はサウンド・チェックが出来なかった。

20日、Loughborough大学。

21日、シェフィールド、トップ・ランク。

22日、Derby,アッセンブリー・ルームス。

23日、ブラックバーン、キング・ジョージズ・ホール。

24日、バーミンガム、オデオン。

25日、ブラッドフォード、セント・ジョージズ・ホール。4時から始まるサウンド・チェック前にバズコックスはホテル内でリーズのラジオ局からインタビューを受ける。

27日、28日、マンチェスター、アポロ。

29日、レイセスター、デ・モントフォード・ホール。

30日、オックスフォード、ニュー・シアター。

1979年11月

1日、ギルドフォード、シビック・ホール。

2日、バーンマウス、ウィンター・ガーデンズ。

3日、カーディフ、ソフィア・ガーデンズはキャンセル。

4日、ブリストル、コルストン・ホール。

5日、ヘメル・ヘンプステッド、パビリオン。

7日、ウエスト・ラントン、パビリオン。

9日、ロンドン、レインボー・シアター。

10日、「テンション・ツアー」の最後を締めくくったのは昨日に引き続いてロンドンのレインボー・シアターであった。サポートバンドのジョイ・ディビジョンはツアーの間中どんちゃん騒ぎをし、クルーにシェービング・フォームをかけたり、ツアーのバンから玉子を投げたりして警察の車に追いかけられる事もあった。

25日、ピート・シェリーを除いたバンドのメンバーはクルーと一緒にニューヨークに飛んだ。
コンコルドで飛んだピート・シェリーがみんなと逢ったのはニューヨークのジャーマニー・パーク・ホテルだった。

26日、ボストン、ザ・パラダイス。

27日、カンサス・シティの有名なクラブ、マックスに立ち寄る。

28日、エメラルド・シティ、チェリー・ヒルズ、フィラデルフィア。

29日、30日、Wreckless Ericをハーランズ・クラブで観る。

1979年12月

1日、ニューヨーク、パラディアム・シアター。サポートはザ・クランプス(!)である。

3日、シカゴ、パーク・ウエスト、5日、カンサス・シティ、ローレンス・オペラ・ハウスのサポートは、引き続きザ・クランプスであった。

6日、オクラホマ・シティ、ノーマン・ブーマー・シアター。この時のサポートはウルトラヴォックス。この日のWENEW FMではニューヨークのパラディアム・シアターでのライブの模様が放送された。

7日、ダラス、ウエスタン・プレイスの予定だったが、全くチケットが売れなかった為、キャンセルされ、メンバーはホーストンに向かった。

8日、ホーストン、パレス・シアター。

10日に予定されていたロス・アンジェルスのスターダスト・クラブでの2デイズ・ライブの1日目がキャンセルされたため、バズコックスは3日間の休息を取る事が出来た。この3日間はクラブに遊びに行ったり、観光などをして過ごした。

12日、ロス・アンジェルス、スターダスト・クラブ。サポートは変らずザ・クランプスであった。

14日、サンタ・クルーズ、カタリスト。

15日、サン・フランシスコ、グレアリー・テンプル。この日のライブの模様はサン・フランシスコのラジオ局KALX-FMにて放送された。

16日、イギリスに帰国の予定だった。しかし、空港ではマネージャーのリチャード・ブーンのアメリカン・エクスプレス・カードを確認しようとしたがロンドンのオフィスは全員家に帰ってしまっていたために確認が取れず、結局その日はそのまま空港のホテルに泊まる事になってしまった。

ピート・シェリーの精神状態は過密過ぎるスケジュールによって破壊されつつあり、肉体的にも精神的にも枯渇した彼は「少なくとも1年はツアーはやりたくない」とメンバーに告げた。この時のツアークルーであったフラニー・テイラーはこの時、「バズコックスはもう終わりだ」と確信したと言う。

翌17日、ニューヨークからイギリスに帰る事が出来たが次の日に予定されていたWashingtonのショーボックスはキャンセルになった。

Buzzcocks Story vol.4 End


注意・このストーリーを転記する場合は必ず確認を取ってからにして下さい。
Kartz


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