音楽趣味の落しどころ

ここでの内容は個人的な感想であり、

効果や効能を示すものでありません。


老人性難聴

若者撃退ということでモスキート音が世間で知られるようになってきた。

その昔、高校の物理の授業で可聴周波数を調べる実験があり、同級生たちは18,000〜23,000Hzだったかと思う が、私は18,000Hzで最も下のレベルだった。

 

それが20代・30代になると14,000Hzくらいの周波数も聞えなくなってくるとのことで、老人性難聴ともなるとさらに可聴周波数が下がる。様々な家電などに使われているピーとかピー・ピーといった電子音 が聞き取りにくい・聞き取れないと聞く。マイクの周波数特性を見ると、あるマイクではF特性50−15KHzなどとあり、また、「RECORDING-3 PAもろもろ」といった楽器が発する周波数域がある。

 

先日、今の自分はどうだろうかと、可聴周波数を調べられるソフトをネットからダウンロードして調べたところ、現在は右耳で12,000、左はもう少し下という結果。(※ソフト説明書に 測定値についての注意書きあり)。

 

今のところはまだ、ロックの高音とか、倍音ガンガンのギターの音はうるさく聞えるので、音楽をする分には影響がない程度なのかなと思うが、そうした高音が 、自分の感覚ではなく実際に聞えなくなった時、それは演奏・歌う側での止め時なのかと思う。

 

自分では昔通りと感じてやっていても、聞く側にとっては妙に高音の音程がずれたり、スースー・ハーハーといった歌声ではないノイズを、そうとは知らず(知ることもできないまま)、周りに撒き散らしているかもしれない。

 

あるフォーク系の大御所シンガーふたり、もういささかのご高齢であるが、昨今のオヤジバンドブームの中、フォークブーム時の大御所としてTVでたまに見かけたりするが、歌うのはもう止めといた方がいいのではと邪推に思う人がいる。ご本人には聞こえていないのだろうけれど、歌にスースーハーハーというノイズがかぶってひどい状態。トークとしては当時のいろいろな話をたくさん聞かせてもらえてうれしいけれど、生歌の部分については昔のビデオを流すだけでいいのじゃないかと思う。

 

RECORDING-3 PAもろもろ」での一番下の表によれば、

 

10K-16K シンバルと透明な音の明るさ

強調しすぎると歯擦音

 

とある。ということは10Kも聞こえなくなった時が止め時かもしれない。

いや、現状の1.2Kであっても、もう幾らか音域のバランスがずれてきているのかもしれない。

 

アマチュアの完全コピー演奏
お気に入りのギターやベースのフレーズをコピーする、これは技術習得の上でも欠かせないことで、可能であれば奏者の指使いも含めて完全にコピーしたいものである。

 

しかし、完全コピーした曲を丸々、音楽の演奏の場で演奏することには私は抵抗を感じる。それは音楽ではなく、物真似のバラエティーであると思うから。

 

人によっては、全く逆の考え方の人もいる。アーティストが心を込めて演奏したものであるから、完全なコピーで演奏しなければ失礼であると。

 

でも、そこが私にはよく分からない。2つの点で疑問符がつく。

 

アーティストは毎回毎回の演奏・録音に自分の心を込めて演奏しているのは理解しているが、完全コピーでないと失礼と考える人たちには、その毎回のアーティストの心・心情が理解できるのか? いわんや人の心を読める人はいるのか?

 

それとアーティストの演奏というものは、常に変化し続けているものと思う。ある1つのツアーの中では、他の演奏者との演奏の都合上、前もって決めたアレンジで通すということはあっても、ツアーとか演奏の機会が異なれば、少ずつなりと変化がある。アレンジが変われば歌い方も変わる。あるいは変化していく歌い方に合わせて演奏も変化する。アーティストならば、自分自身の完全コピーの演奏というの はしないだろう。完全なコピーの演奏でなければ失礼というのであれば、アーティストはみな、自分自身に対して失礼なことをしている、ということなのか。

 

クラシックのオーケストラの場合であれば、指揮者の身振り仕草に相当する話かと思う。他の指揮者の身振り仕草をまねて指揮することは許されないことと思う。というか、プロであればそもそも演奏の物真似などはしまいが。演奏の合間のMCの中で、その指揮者を好意的に説明紹介するためにすることは仮にあっても、通常の演奏の中で身振り仕草をまねるというのは、元の指揮者に対する冒涜行為以外のなにものでもないと、私は思う。

 

アマチュアで、吉田拓郎さんの数々の曲のギターを完全にコピーしている人がいるが、自分の演奏の場ではやらないという。演奏が済んでの歓談の場に入って、周りから望まれれば完全コピーを披露している。完全コピーをしているほどであるから、その人の吉田拓郎さんへの敬意は推し量るべくもない。

 

私はプロではないし、知り合いにもプロはいないので、プロのアーティストがこのことをどう考えているかは分からないが、自分の楽曲を誰かが(例えばアマチュアが)演奏する時は、それはオリジナルの完全コピーでなければならないと思っているのだろうか。私がもしプロであり、そのオリジナル曲を気に入って演奏してくれる人がいるのなら、私なら是非とも、それぞれの演奏者の思い・心で演奏してもらいたいと思う。

 

昔のTVの特番の中で、吉田拓郎さんが自分の作品とファンとの関係について触れていた。リリースしたあと、歌詞には自分の解釈は述べない、それはリリースした以降はファンのものであるからと。ファンが自分の思いでそれぞれの歌詞を解釈してくれればそれでよく、自分があとから解釈することで歌詞への自分の思いを押し付けたくない、ということなのかと思う。

 

フォークギターの神様のひとり、石川鷹彦さんの超有名なイントロの数々。「22才の別れ」「あの素晴しい愛をもう一度」にしても機会・機会で微妙にイントロが異なっていて、自身の完全コピーの演奏というものはごく少ないのではと思う。マニアならこのイントロは何年何月にどこそこで演奏・録音したバージョンだと自慢するものと思う。じゃあ、「22才の別れ」にしても「あの素晴しい愛をもう一度」にしても、最初にリリースしたものが正しくて(心が入っていて)、他のバージョンはこれらの曲を冒涜しているものかというと、そういうことにはならない。

 

マニアにとってはそれぞれのバージョンの完全コピーが自慢の種である。・・・そう、それは音楽そのものではなく、自慢の種として、演奏とは別のお楽しみの場での、バラエティーの場で披露するものであり、完全コピーしているその演奏技能を披露する場で発揮することがらである、と思う。

 

マニアとしてコピーの完成度の高さは大いに自慢してよいのだが、それを音楽の演奏の場でするのはどうか、違うのではないか、というのが私の考え方である。音楽の演奏の場で物真似を出すのは、そのアーティストへの冒涜にほかならない、と私には思える。

 

一方で、自分の作品について、譜面通りの完全なるコピーでの演奏しか認めない人もいれば、自分の楽曲の演奏については自分の演奏しか認めずほかの人が演奏するのを禁じている人までいる。もちろんこれはプロの話 で、知る限りではそれぞれ一人ずつ居て、前者は日本に一人、後者は米国に一人いる。だがこれはとても特別な、非常にまれなケースではないかと思う。

 

では、アマチュアのコピー曲演奏では、どのあたりまでなら・・・ということになると、その曲その演奏場面でも異なってくるかとは思う。

 

例えば有名なイントロのリードをできるだけ忠実に入れるのは有りと思う。有名なイントロはその曲のメロディーに匹敵する大事な要素である。

 

アマチュアのボーカルは、多くは自分の声質に似たアーティストの曲を歌っている。ともすれば物真似とも受け取れるくらいに似せて歌う人も中にはいる。あるフォーラムの中である人が、自分が心酔するアーティストの歌い方に似てくるのは自然なことだ、と書いていた。その通りだと思う。

 

ただ、物真似の度が過ぎれば、それは楽曲の真似ではなく、アーティストの声・身振り・仕草の物真似オンパレードになってしまう。その楽曲に心を寄せているから演奏するのか、そのアーティストに心を寄せているからアーティストになり切って演奏するのか、ということに。

 

自分が音楽を演じるのか、それともそのアーティストになり切って人物を演じるのか、ここが音楽なのか物真似ショーなのかの境界のひとつかと思う。

 

人の心というものはなかなか推し量れないものである。それを無理して(無茶して)推し量り、そのアーティストになり切るのは、物真似の世界であると思う。その楽曲のメロディー、歌詞がある曲ならば歌詞を自分なりに受け止め、自分の心から発したものを演奏するのが、音楽での演奏ではないかと思う。

 

物真似の歌・演奏には心がないと、その昔ある人が言っていたが、今にして思えば確かにその通りかと思う。音楽を演じる上での心というのは、あくまでも自の心 の発露でなければならない、そんな気がする。