ここでは「菩薩=力」をテーマとして解釈を進めています。
他の般若心経の解釈を否定するものではありません。
この世しか存在しない △1
菩薩について △1
2001/05/30
△1:2001/06/01 筆者訳を部分修正
△2:2012.05.09
摩訶 般若 波羅 密多 心経 | 「完成された大いなる知恵である、心に関する教え」
※ 以降、般若波羅密多を「究極の知恵」と訳す |
観自在 菩薩
|
ここに観自在の力がある。
※ 観=単に目で見ることではなく、頭の中に認知されたものを、意識・無意識的にとらえること。 自在=あるがまま。 菩薩=「力」。当時の哲学(古代インド哲学)で考えられ分類された、人や自然に内在する様々な力の一種。
いろいろと思いを巡らすことが出来るのは、誰もが、観自在という力・能力 、すなわち観自在力を持っていることによる。 いろいろと自由自在に思いを巡らせる力が観自在力ではない。観自在の自在は、自由自在の自在ではなく、「あるがまま」という意味。あるがままを頭の中に意識・無意識的に認知する力・能力が観自在力。
それに気付くことで、苦しみや災いを乗り越えることができる。
※ 「色(しき)」=存在。対して「空(くう)」は、「色」を認知するために頭の中に作リ出した「空」という入れ物である。
例えば、母親の声を聞けば、その声を入れた入れ物を作り、においが感じられたら、そのにおいを入れた入れ物を作り、顔が視認できれば、その顔を入れた入れ物を作る。 入れ物に入るのは実態そのものではなく、そうと認知した情報である。
入れ物は相互に関連付けされ、やがて「空」のネットワークが構成される。
※ 「受想行識」=感じる、想う、為す、意識するの4つ
※ 人にとっての「色」「受想行識」とは、頭の中に作り出した「空」に収めた それらを認知した情報である。 |
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 |
あなた達よ、 「受想行識」もまた同じようなものである。 |
舎利子 是諸法空想 不生不滅 不垢不浄 不増不減 |
あなた達よ、
身の回りにある理(ことわり)は、「空」を思案することから生じているのであるから、その実態は以下のものである。 ●
新たに生まれることも、無くなることもない。
※ 実際の存在はあるがままにあるだけなのであるから、そのものに評価も意味も、また感情さえもないのである。 |
是故 空中
無老死 亦 無老死尽 無苦集滅道 無智 亦 無得
以無所得 |
以下のことは、「空」を理解すれば判るものなのである。それは、 ● 何も存在しなければ、「受想行識」も起こり得ない。 ● 6つの感覚器(眼耳鼻舌身意)がなければ、それぞれの知覚(色声香味触法)は得られない。 ●
眼だけで見える世界はなく、意識だけで得られる世界もない。 ●
「苦集滅道」はなく、それを知ることも無く、それを得ることもできない。 もって、得られるところの物は何もない。
※ 世の中の存在や理(ことわり)を理解しているのは、頭の中の「空」での出来事に対してであって、存在そのものに対してではない。 存在そのものは、ただ、あるがままにあるだけである。 だから、あなた達は結局、認知・理解・認識していること以外は何も得られない。 |
故 菩堤薩埵 依 般若波羅密多 |
ゆえに、「究極の知恵(私たちは「空」によって外の世界を認識している)」を理解すれば、観自在の能力を支配できる。 |
故 心無罫礙
無罫礙 故 無有恐怖 |
支配できれば、こころが囚われることはなくなる。
「究極の知恵」によって、過去、現在、未来は、永久に心安らかになる。
※ たとえば、あるものに恐怖するということは、自分の頭の中に作り出した、そのあるものの入れ物である「空」に対して恐怖という感情を結びつけているのである。観自在力をコントロールして、その「空」に対して恐怖を結び付けないようにできれば、そのものに対する恐怖はなくなる。
存在そのものに恐怖があるのではなく、それを認識している「空」に恐怖が結び付けられているだけなのである。 |
依 般若波羅密多
故得 |
ゆえに、「究極の知恵」によって、至上の正しい認識ができるようになれる。 |
故知 般若波羅密多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 |
ゆえに、「究極の知恵」は、以下のことであると知る。 ● これは、神(大宇宙の真理)の大いなる言葉であり、人が知った大いなる言葉である。 ● これは、至上の言葉であり、他に比べるものがない言葉である。 ● この能(効果)は一切の苦しみを開放し、偽りの無い真実を知らしめる。 |
故説 般若波羅密多
呪即説 呪曰 |
ゆえに、あなた達に言う。 「究極の知恵」は、説かれた言葉(教え)であり、唱えの言葉である。 |
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 | 生きなさい、生きて行きなさい。 「究極の知恵」を持って生きなさい。 ここに教えた全ての知識をもって生きて行きなさい。 |
菩堤娑婆訶
般若心経 |
あなた達に幸あれ。 これが、般若心経(悟りとして得られる心に関する教え)である。
※「菩提娑婆訶」は 「(菩薩=力)に幸あれ」であるが、ここでは、観自在力を持つのは人であるので、人すなわちあなた達に幸あれ、と訳した。 |
※ 般若心経は、原典からの音訳と意訳が入り混じっているので、
同じ漢字が当てられていても、同じ意味の言葉とは限らないことに注意。
語句 | 解説 | |
摩訶 般若 波羅 密多 心経 | 摩訶:大いなる | 大いなる悟りであり、完成された、心に関する教え |
般若:パンニャー。悟り。知恵 | ||
波羅:彼岸。完成。完全 | ||
密多:到達する | ||
心経:心に関する教えの言葉 | ||
観 自在 菩薩 | 観る:目で見る、ではなく、思索想像でみること。 | 人が、あるがままに思い巡らすことが出来るのは、観自在という力を持っていることによる |
自在:あるがままに存在する。自然のまま。じねん。 | ||
菩薩:「力」。英語のForce。古代哲学的に解釈するところの、様々な力。「気」は「力」の形態のひとつ。 | ||
行深 般若 波羅 密多 時 | 行深:深く行く。 | それは、「完成された知恵」を深く思い巡らす時に、 |
般若:知恵 | ||
波羅:完全なる | ||
密多:到達する | ||
時:〜する時 | ||
照見 五蘊皆空 | 照見:明らかに見える | 「色受想行識」の五温は全て、物事を認知するために頭の中で作り出した「空」という入れ物であることに気が付き、 |
五蘊:色と受想行識の5つ。
蘊:集まり。分類。温と書くことも 色:存在 受:感知する 想:想う |
||
皆空:全てが「空」
空:入れ物。ものごとを認識する時の入れ物 |
||
度 一切苦厄 | 度:渡る。超える。 | 苦しみや災いを乗り越えることができる。 |
一切苦厄:苦しみや災いを断ち切る | ||
舎利子 | 舎利:シャーリという女性(弟子のひとり)
子:子ども達 転じて、我が弟子達よ、あなた方よ、という意味。 |
あなた達よ、 |
色不異空 空不異色 | 色不異空:存在は、それを認識するための入れ物と異ならず | 存在するということは、それを認識・意識している、ということと同じである。
意識するからこそ、人は、そこにものが存在することが判るのだ。 |
空不異色:存在を認識した入れ物は、存在と異ならない | ||
色即是空 空即是色 | 色即是空:そこに存在するということは、それを認識する入れ物があるからである | |
空即是色:それを認識する入れ物があるということは、その元となっている存在するものがあるからである | ||
受想行識 亦復如是 | 受想行識: | 「受想行識」もまた同じようなものである。 |
亦復如是:あるいは、また、これの如し | ||
舎利子 是諸法空想 | 舎利子: | あなた達よ、
身の回りにある以下の理は、「空」を思索することから生じている。 |
是:これ
諸:いくつかの 法:理(ことわり)。決まり。法則。 空想:これは、これらの「法」が、「空」を想うことである |
||
不生不滅 不垢不浄 不増不減 | 不生不滅:新たに生まれることも、無くなることもない | 新たに生まれることも、無くなることもない
汚れることも清らかになることもない
増えたり減ったりもすることない |
不垢不浄:汚れることも清らかになることもない | ||
不増不減:増えたり減ったりもすることない | ||
是故 空中 | 是故:これによって | 以下のことは、「空」であることによるものなのである。それは、 |
空:「空」 | ||
中:〜にあたる。〜に相当する。 | ||
無色 無受想行識 | 無色:存在しない | 何も存在しなければ、「受想行識」も起こり得ないし、 |
無受想行識:「受想行識」はない | ||
無 眼耳鼻舌身意 | 無:無い | 6つの感覚器がなければ、それぞれの知覚は得られない。 |
眼耳鼻舌身意:六感。感覚器 | ||
無 色声香味触法 | 無: | |
色声香味触法:六境。六感で得られた知覚。あるいは知覚した認識。 | ||
無 眼界 及至 無 意識界 | 眼界:視覚で得られる世界 | 眼だけで見える世界はなく、意識だけで得られる世界もない。 |
及至:ないし。あるいは | ||
意識界:意識する世界 | ||
無無明 亦 無無明尽 | 無明:見えない。知らない | 今は知らないということなくても、いつまでも知らないことが無いわけではない。 |
亦:また | ||
尽:尽きる。そのままで終わってしまう | ||
及至 無老死 亦 無老死尽 | 及至: | あるいは、今は老いて死ぬことがないかもしれないが、それがいつまでも老いて死ぬことがないということではない。 |
老死:老いて死ぬ | ||
無苦集滅道 無智 亦 無得 | 苦集滅道:四諦。
苦諦:あらゆる苦しみには原因があると知ること |
「苦集滅道」はなく、それを知ることも無く、得ることもない |
智:知る | ||
得:得る | ||
以無所得 | もって、何も得られるところの物は何もない | |
故 菩堤薩睡
(正しくは睡は埵。土へんに垂) |
故:ゆえに。よって | ゆえに、「力」は開眼される |
菩堤薩:菩薩。「力」 | ||
睡:眼を覚ます。開眼する | ||
依 般若波羅密多 | 依:〜によって | 完成された悟りによって |
般若波羅密多:完成された悟り。 | ||
故 心無罫礙 | 心: | ゆえに、こころが囚われることはない |
罫礙:囚われる | ||
無罫礙 故 | こころが囚われないので、 | |
無有恐怖 | 恐怖することなく | |
遠離 一切 | 遠離:遠く離れる | 全てのものから遠ざかる |
顛倒 夢想 | 顛倒: | 不安が解消する |
究竟 涅般 | 究竟:末永く | 末永く心安らか |
涅般:こころが安らか | ||
三世諸仏 | 三世:過去、現在、未来 | 過去、現在、未来を生きる人 |
諸仏:ここでの仏は人(人間)という意味。より狭義には悟りを得た人。 | ||
依 般若波羅密多 | 完成された悟りによって | |
故得 | ゆえに、至上の正しい知識を持った人となれる | |
阿耨多羅 三藐 三菩堤 | 阿耨 多羅:アヌータラーの音訳。これより上のない | |
三藐:サムヤックの音訳。正しい | ||
三菩堤:サムボーディの音訳。あまねく知恵の結合体 | ||
故知 | ゆえに知る | |
般若波羅密多 | 完成された悟りは | |
是大神呪 是大明呪 | 神:宇宙の真理。宗教的な神のことではない。 | これは、大いなる、神の言葉であり、人が知った言葉であり、 |
呪:言葉。人が話す言葉のことではなく、言葉としての言葉。 | ||
明:あきらかとなった、知った | ||
是無上呪 是無等等呪 | これは、至上の言葉であり、他に比べるものがない言葉である。 | |
能除一切苦 真実不虚 | この能(効果)は一切の苦しみを開放し、偽りの無い真実を知らしめる。 | |
故説 | ゆえに、あなたに教える。 | |
般若波羅密多 呪即説 呪曰 | 完成された悟りは、説かれた言葉(教え)であり、唱えの言葉である。 | |
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 | 羯諦:ギャーテー(ga te)。go to | 進みなさい、進みなさい、
知恵を持って進みなさい、 全ての知識を持って進みなさい。 |
僧:サムの音訳?。全ての | ||
菩堤娑婆訶 | 菩堤:ボーディの音訳?。知恵? | 知恵に幸あれ。 |
娑婆訶:スバーハー。幸あらんことを | ||
般若心経 | これが、般若心経である。 |
人が苦悩するのは、苦悩するための入れ物を作っているからである。
例えば、ある人が悪口を言っているとする。 しかし、その悪口は、それを言っているその人が頭の中に作り出した出来事である。
その人がそれを悪く思うということは、その人の中に、それに一致する悪い部分があるからである。
それが無意識の内に外に出て、悪口となる。
悪く言っている、その人自身をよく見てみれば判るが、それはその人自身が抱えている悪事である。
悪口は、その人の内面を映し出す鏡である。
その人の中に悪事が無くなれば、無意識の内に意識することも無くなる。 従って、人の悪口を言うという行為も無くなる。
あるいは、あることを善か悪かと判断するとき、善悪を判断するという意識が無ければ、そこには善悪は無い。
あるいは、あることを苦しみと思うことがあれば、それが苦しいことなのか、そうではないのかという思いを巡らさなければ、苦しみは存在しない。
観自在菩薩というのは、物事に付いて、あるがままに、思い巡らせることが出来る力(能力)である。
それを用いれば、苦しみについて深く思い悩むことも出てくるが、しかしまた、あるがままに思い巡らせる能力は、苦しみについて思い悩まないということもさせる能力である。 |
プログラマーにとって「空」を理解することはたやすい。
プログラミングは、ある事柄での仮想世界を作り出すことである。
そこでは変数という入れ物を用意し、それと法則を組み合わせて作り出す。
変数は、何か意味あるものを収める入れ物である。
収めるものはいろいろ変化し得る。
例えば、あるひとの答えを入れる入れ物を用意するとする。
その入れ物は、正しい、正しくないを入れるものと定義される。
あるいは、そのどちらでもない、もあり得ると定義することもある。
その入れ物がなければ、正しい、正しくないは判断できない。
「零(ゼロ)の発見」によって、10進法は完成された。
このゼロも入れ物である。
無というものを入れる入れ物(桁)を発明することにより、数は非常に扱い易くなった。 |
私は無神論者である。 そして正真正銘の無神論者であるので宗教というものを肯定も否定もしない。 この、否定しない、というところをまず強調しておく。
仏教について、乏しい知識ながらも、私は私なりの考えを持っている。
それは釈迦が開眼したものが何かということに関係ある。 ある宗派の坊さんが語っていたが、地獄というのはおろか、あの世というのは存在しない、あるのは今世だけである、ということである。
釈迦は己の苦行のさなか、多くの修行者があの世での幸福を得るために拷問のような苦行で死んで行くことに疑問を持った。 それは愚かなことであり、そしてこの世こそが人が生きる世であることを悟った。
それを初めて説くことは大いに勇気が必要であったと思う。 修験者(つまり苦行のすえに死んでしまった者)しか知ることのできないとされていた領域を無いものとし、そしてこの世で幸福に生きることが大事であると説くのは、証明不能な、そしてそれまでの人生観を書き換える逆転の発想であった。
この世しか存在しない、だから自分を生きることを大事にしなければならない。
これは素晴らしい教えのように思う。
イエスキリストやモーゼなどの開祖にしても、私が知っている貧しい知識の中では、彼らもまた、天国あるいは地獄などのあの世の存在を認めていなかったように思う。
天国あるいは地獄といったあの世の存在は、後世に書き加えられたことであるように思う。
いつ、誰があの世というものを付け加えたのだろう。
それは分からないが、治世者が為したものと考えると、自然と思う。 彼らには、多くの場合、自分達の特権を守るために、それ以外の人々を人間として扱わない方が都合がよかった、ということがあっただろうと思う。
2001/03/12 |
淡路島に平和観音寺というのがある。(※2012年現在では、すでに閉鎖されている。)
ここには、全ての菩薩像が揃っている。
で、説明を読むところによれば、菩薩像は菩薩、すなわち「力」を人間の形に表したものであるということである。庶民に菩薩という、数々の「力」を判りやすく説明するために、像にしたのが菩薩像である。
よく菩薩というと菩薩像を思い浮かべるが、これはそれぞれの「力」を象徴したものであって、菩薩そのものではない。
実は、菩薩が「力」であることは、ある故人の書物を読んですでに知っていた。
その人は無名の俳人であり、無名の哲学者である。
その人は、仏教・キリスト教・回教などの宗教やら、物理学なども、哲学的に研究した人である。
観自在(かんじざい)
などなど、多くの菩薩がある。
平和観音寺に行けば、それぞれがどんな力なのかが説明してある。 |