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皆さんは、これまでの人生で経験した全てを「記憶」していますか?まぁそんなことは無理ですよね。
日々のことは思いがけず、また意図的に忘れてしまいます。でも覚えておきたいものは、日記に書いたりして記録しておきますよね。ただ、文字に起こしてしまうと「何か違うな」と思うことも多々あります。
自分自身がそこで感じた情動などを上手く表現しきれていないと。そして、ここにこそ実は重要な問題が隠されているのです。
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こうした点はひとまず置いておいてMichael Richardson先生が選んでくれた映像と人類学WS第5回目のテーマは「記憶」。
「記憶」には二つありますね。一つは、個人の「記憶」。そしてもう一つは集団の「記憶」。
前者は、言うまでもなく個々人の中に残された「記憶」で、人はこの「記憶」を頼りに次の行動を起こします。
即ち、自分の「記憶」を上手くつなぎ合せて「物語」を作ってそれを基に未来へと自らを投げ込んでいくということを人々はしているとここでは仮定しておきましょう。
集団の「記憶」にも同様のことが言えて、集団としての「記憶」を作りそれを基に社会全体が向かうべき道を探っていくのです。
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さてさて、こうした「記憶」とセットになるのが「忘却」です。そう、忘れること。人々は都合の悪いことは忘れて、自分にとって有用なものは 残していくようです。これは、個人ならまだ良いのですが、集団の「記憶」となるとそう簡単にはいきません。何を「記憶」しておくべきで何を「忘却」するべきかは人によって違うのですぐに論争になってしまうのです。
リチャードソン先生は、「歴史というものは常に勝者によって描かれる」という有名な文句を紹介してくださいましたがまさに、歴史は勝者によって「記憶」されるべきものと「忘却」すべきものが選定されてしまうものなのです。
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そこで、「真理」を追究すべきものとしての学問としてこの「記憶」にどう立ち向かっていけるか。
そしてそこで「記憶の機械」(クリス・マーカー)である映像はどのような役割を果たすことができるのか。
そんな問題意識を基に二つの映像を見ました。ここでは、その中の一つ1955年にフランスで作られたナチスの強制収容所の記録映画として名高い"NUIT ET BROUILLARD"(Night and Fog)を紹介します。
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ナチの問題は、西欧近代の負の側面の代表として現在になっても世界中で語られる歴史です。即ち、残されるべき「記憶」として人々の承認を得た重大な事件だと言えます。
ナチスの強制収容所の記録映画としては、もう一つ"SHOAH"(ショアー)がありますが、そっちが生き残った人々のインタビューを中心に構成されているのに対してこの『ナイト・アンド・フォッグ』は当時のニュースフィルムや写真と映像が制作された1955年の風景を交錯させながらアウシュヴィッツの強制収容所を再現したドキュメンタリーフィルムとなっており、当時の状況が生々しく描かれています。
例えば、遺体の山が穴の中にゴロゴロと入れられてしまうシーン。確かにその事実自体はもの凄く悲惨なものでした。
何百体の遺体がシャベルカーによってテキトーに穴にぶち込まれるわけですからね。
ただ、私自身の率直な感想としてはそうした遺体の山はどうしても「人間」には見えなかったのです。
確かに、それは「人間」の身体ではありましたが、「人間」の痛みや叫び、苦悩や怒りといったものが感じられない「物体」のようなものとして私には映ったのです。
参加者の一人からも同じように「確かに悲惨だけど、前にJean Caryolの本(本映画の原作本)を読んだときの方が強いメッセージを受けた」といったような旨のコメントがありました。こうした指摘は「記録」という重要な問題に発展していくものだと思います。
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社会学者のジグムンド・バウマンという人が『近代とホロコースト』という本で、ホロコーストが近代の失敗といったような形で描かれるそれまでのホロコースト論に対して新しい視点を提示しました。
それは、「ホロコーストというのは近代の失敗なんてものではなくて、むしろ近代そのものの象徴だ」といったような主張です。即ち、近代合理主義によってシステム化された体制がホロコーストといった悲惨な事件を可能にしたということです。人は通常であれば、大量に人を殺戮するといった非情なことはできない。
そんなことをしたらやる側の精神がもたない。でも、みんなやってる。やらなければ上司に怒られる。
行為の責任は自分個人にあるのではなく、制度にあると考えれば残虐な行為ができてしまう。
そうした近代合理主義がホロコーストを可能にしたのだとバウマンは訴えるのです。
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若干、遠回りしてしまいましたが、私が映像を見て感じた印象はこの近代合理主義そのものです。
冷たく、システム化された殺戮という作業からは(全てではないですが)悲しみ、怒り、悲惨さといったものが抜け落ちてしまっていました。そうした私の印象は、バウマンの指摘を基にすると整合性を持ちます。即ち、そうした情動を持たないようなシステムがあったからこそホロコーストが可能になり、それを忠実に再現したからこそ悲惨さが抜け落ちてしまっていたと。
映像は、文字以上に情報量を提供できますから、より「リアル」に描くことが可能かもしれません。
しかしながら、それを忠実に再現してしまうと、ホロコーストのような場合ではむしろその悲惨さが抜け落ちてしまうことも実はありえるのです。
どのような、そしてどのように「記憶」するかというのには、必ず「イデオロギー」が介入してきます。
ホロコーストであれば、やはりそうしたことを人類が二度と起こさぬように「記憶」するという「イデオロギー」が背景にあるものと思われます。即ち、平和なり人権を希求する「意志」ですね。
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こうしたことを考えると、今回の映画"NUIT ET BROUILLARD"は、ホロコーストという近代合理主義による無機質性を上手く再現することが可能だった故にそうした「意志」を上手く反映することができなかったという逆説があったと思います。即ち、映像という文字以上にある側面では「リアル」に描くことができるツール故に生じた「無意識」の「忘却」がそこにはあったのです。
冒頭で「歴史というものは常に勝者によって描かれる」だから、「記憶」も「忘却」も勝者によって選定されるということを書きましたが、こうしたことを考えると「記憶」と「忘却」の問題はそう簡単には判断できないものだと考えることができます。もちろん、大枠では勝者によって選別されることは大いにありえることでしょう。しかしながら、ある側面を再現しようとしたら、ある別の側面は「忘却」してしまうということは必ず何かを記録するという行為にはつきまとってしまう問題であるということも忘れてはならないと思います。
だからといって、記録が重要ではないと言いたいのではないことはもちろんお分かりですよね。
そうではなく、できるだけ「忘却」を防ぐためにも記録は様々な方法でおこなわれるべきだということです。
文字で記録しきれないものを映像で補足し、映像では表現しきれないものは文字で残しておく。
「メディアミックス」なんていう手法がもてはやされる昨今、学問の世界でもこうした様々な手法を用いながら「記録」していくことが今後益々重要になってくるのではないでしょうか。
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(中川 圭) |