素材
A Moment of Innocence (Mohsen Makhmalbaf, 1997. Iran) Close-up (Abbas Kiarastami, 1991. Iran) 『エロ事師たちより 人類学入門』(今村昌平、1966) 『人間蒸発』(今村昌平、1967) 『神々の深き欲望』(今村昌平、1968) 『にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活』(今村昌平、1970) Karayuki-San, The Making of a Prostitute (1975) 『ええじゃないか』(今村昌平、1981) 『楢山節考』(今村昌平、1983)
当日の記録
第5週に記憶の問題を扱ったが、この週の記憶をたどることはもはや困難な作業になってしまった。そもそも記憶というもの自体、はかないものであり、また 曖昧なものである。日常的には、記憶があることを前提してしまうが、また一方で、記憶がいかに曖昧であるかということもまた私たちは知っている。記憶というのは、想起の繰り返しによって何かあるものとして形作られているのだろう。ただし、その想起というのも、何かオリジナルな記憶を思い返しているのかと言えば、たぶんそれも無理な話であり、おそらく大部分は、今現在のこととしてあるのではないだろうか。記憶というものを素朴に前提することから少し距離をとる必要があるように思う。 さて、本題に戻ると、この週は、映像の制作者と写される主体の問題について考えたのだった。ここでは、この週に考えたこと、を記憶として取り出すことではなく、今ここで改めて、この問題について考えることにしたい。以下で考えてみたいのは、しばしば私たちは、映像というものに、何か“意味”があるように想定してしまうのであり、そこに誰かの“意図”が働いていると前提してしまうのだが、そうした前提を覆すことができないか、ということである。
ここでは“映像の意味”ということを手がかりに表題の問題について考えていくことにしたい。一方では、映像の制作者が、何をどのように撮るのか、そのストーリーから配役、カメラの位置に至るまであらゆる点で決定権を持っているもののように思われる。だが一方で、同時にすぐに考えられるのは次のことである。そこで写される主体が映像の制作者との相互行為の中でそのように演じている、ということを考えたならば、そこで写される主体もまた、“映像”に関わっているということである。そしてまた、映像の何らかの“意味”に関わっているということである。私たちは、映像を通して、制作者の“意図”に触れるのかもしれないが、直接的に見ているのは、映像であるのだから。・・私たちが映像を見るときには、果たして、映像の制作者の意図を見ているのか、演じ手が演じたいものを見ているのか、その両者のやりとりの産物を見ているのか?どれとも言えるだろうし、どれでもないとも言えるだろう。
このように考えてみると、私たちはしばしば、映像が何か伝えるものを持っている、と考えがちであるが、そうした前提をなくしてみることが必要になってくるように思う。では、どのように見直すことができるだろうか。一つの可能性として考えられるのは、見る私たち自身を、この枠組みに組み込むことである。すなわち、映像の意味を考えるにあたって、映像と鑑賞者とのやりとりであり、制作者と鑑賞者のやりとりであり、映像の中の主体と鑑賞者とのやりとりであり、そうしたものとして考えていくというものである。
しかし、制作者の意図とか、映像の主体/演じ手の思いとか、そうしたことを想定するには無理があるようにも思われる。そうしたことを考えた時点で、“正しい読み”であるとか、“一つの読み”といったものを想定してしまうことになってしまうように思われる。だが、映像を見ているときに起きていることは、必ずしも一つの意味に回収されるものではないだろうし、それを想定してしまうと、そこで起きている豊かなことを捉え損なってしまうようにも思われるので ある。これは、結局のところ表象の問題であるだろう。これまで主としてディスコースのレベルで論じられてきた表象の危機の問題――私たちが捉えて/扱っているのは、“現実”ではなく、ディスコースであり、そしてまた、私たちのそうした営み自体、それらを純粋に捉えるものではない――は、映像においてもまたどうように指摘できることだろう。映像になったからと言って、何か“現実”を忠実に捉えられる、というわけではないのだ。
このように考えてみたとき、さらなる展開は次のようなものである。映像の“意味”とか、制作者の“意図”とか、写される主体/演じ手の“思い”とか、そうしたものを一度括弧に入れてみて、映像を見るということ、そこで私たちに起きていること自体に向き合ってみることを出発点にしてみることから展開していく可能性がないのだろうか。映像を出発点とするのではなく、逆に、これまで到達点として考えられてきた鑑賞者である私たち自身を出発点にしてみる、と いうことである。こうしたとき、これまで前提としてきたような、映像を撮ったときにそこにあった“現実”とか、“映像”とか、“撮影者”とか、“制作者”とか、写される“主体”とか“演じ手”といったものとは違った見方ができるのではないだろうか。そしてもう一つ。個別に鑑賞者それぞれがそれを実践するのではなく、鑑賞者同士がそれらを語っていくこと。これはまた映像そのものから、そして、映像を見ることそれ自体を捉えるものではなく、さらに展開していくものとしていくことでもある。映像を扱うということは、何か既にあるものを扱うということではなく、こうした常に展開していくものとしてあるのではないだろうか。このことが私たちがこのワークショップを通じて、また超えて行っていこうとしている方向性の一つであり、それは、所与のものとして扱ってきた現実や私たちの捉え方を再検討する余地があるように思う。しかしここでもまだ、映像を所与のものとしておいてしまっているようにも思うのであるが・・。(田辺)
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