6/13(水)

映像分析とテキスト分析

―映像分析とテキスト分析の関係はどのようなものか?―



素材
 Sans Soleil (Chris Marker, 1984)

当日の記録

 The image does not explain: it invites one to re-create and, literally, to relive it.
(Octavio Paz)
 これは、"Sans Soleil"を見終おえ、5分休憩中に本WSの講師リチャードソン氏によってスクリーンに映し出された言葉である。
 この言葉を皮切りに、ディスカッションが始まった。まず、この言葉とほぼ同 じことを考えていたという参加者A(博士後期課程生)は、「イメージは、 説明することによって作られる。我々は常に、説明するという行為によって(記憶している)イメージを編集している」とコメントし た。
 今回見た"Sans Soleil"は、「1982年頃に世界を旅した、西暦4000年から来た タイムトラベラーより送られた日記という形をとっている」(リチャードソン氏によ るレジュメより)。大半のシーンが1982年当時の東京の中心部での人々、建物、 看板・・・etc.の映像である。他にも、日本の他地域、ギニア・ビサウ、カーボ ベルデ諸島、アイスランド、サンフランシスコの、各地での人々の様子を中心と した映像が散りばめられている。
 ナレーションもあり、それぞれのシーンに対する「タイムトラベラー」の雑感 のような語りが、終始展開された。
 上述した土地の様々な場所・場面が、(ナレーション=言葉による説明がある ものの)、断片的に、前後のつながりをほとんど見せずに「垂れ流される」映画 であった。途中で睡魔に襲われ、舟をこぎ始める参加者も少なくなかったようで ある。
 オクタビオ・パスの言葉に戻ろう。イメージそれ自体は何も説明しない、とい うのが今回の重要なポイントであった。参加者B(学部生)は「フランス映画に おけるゴダールをはじめとしたヌーベル・バーグの手法に似ている」とコメント した。「イメージを遊んでいるように見えた」と。
 また、「この映画では情報が多すぎる」というコメントもあった(参加者C、 修士生)。
 「この映画に盛り込まれている情報はどのような類ものだったか」という観点では、「いくつかのシーンでノイズのよ うな特殊視覚効果がかけられていたが、ノイズがあるにも拘わらずそのシーンが 何か(例えば神社への参詣など)が理解できた」(参加者D、博士後期課程生) というコメントが寄せられた。これに対し、すかさず「『理解』とはどういう意 味か」と参加者E(修士生)からの突込みがあった。「何がわかったのか、ある いはわかったとみなすのはどういうことか?」(参加者E、修士生)と。
 このあたりで、ディスカッションの内容がやや錯綜しはじめたが、それはひと えに、この映画が、どうコメントすればよいのかわからない映画だったということを示しているのではないか。前出の参加者Aは「『理解』はどういうことかとい う(参加者D、Eの)話は、次の疑問に集約できるのではないか。つまり、『概し て、映画に対して我々は何を求めているのか?もっと言えば、コミュニケーショ ン一般に対して我々は何を求めているのか?」。「言葉によって、我々は何を説 明できるのか?」。
 このコメントに引き続く形で、「この映画は人類学の映画として評価されただ ろうか?」という疑問も出た(参加者F)。これに対し、参加者Aは「ノー」と応 える。すると、「ノーだとしたら、何をもって人類学の映画だとするのか?」と いう声がすぐあがった。一回のディスカッションでは答えの出ない、大きな問題 の提起である。ムービーという形式で何かを提示すること、ムービーを理解する こと、といった枠を出る問題提起であったように思う。
 さて、ディスカッションは全て言葉によるものである。映像に関して言葉によっ てコメントすることの難しさが、一気に噴出したWSだった。また、リチャードソ ン氏が英語話者であるため、参加者たちは日本語でも表現しきれないところを、 日本語を交え、互いに助け舟を出しつつ、必死に英語で話していた。恐らく通訳 者を挟んだら、ディスカッション自体は「きれいに」まとまったかもしれないが、 逆にナマのコメントが十分生かされないものになったのではないか、と筆者は考 える。
 参加者の大半が日本語話者、講師が英語話者ということで、例えば今回のキー ワード「イメージ」という言葉を使用する際のコンテクストの違い(講師はプラ トンから出発し、基本的に西洋哲学のコンテクスト、学生側は日本語の「イメー ジ」という言葉 [それ自体意味が曖昧なのだが] のもつコンテクスト、という違い) も露になった。「映像と人類学」を主題とした本ワークショップは、「映像コミュ ニケーションの可能性」を副題としている。このことは同時に「言葉によるコミュ ニケーション」についても考えることを示している。また、映像や言葉に限らず、 他の感覚(触覚、嗅覚、味覚・・・etc.)で捉えられるものが互いにどう関連を もっているか、それらはコミュニケーションにどのように作用するのか・・・な どについても、本ワークショップを通じて考えることになるだろう。
 他にも関連したコメント、また自問のようなコメントなどなど、多くのコメントが学生から寄せられたが、この記録に書ききれなかった点、足りない点などについては、掲示板のページに譲りたい。
 最後に、本記録の筆者は「参加者A」であるが、参加者Aによる 最後のコメントは次のものである。
「この映画は、そういえば(寝ている間に見る)夢のようである。夢でもさっ きケニアに自分がいたと思ったら次にはもう大学にいたりする。この映画を見な がら寝てしまったが、映画のシーンが自分の夢に付属しているときもあった。こ の映画は寝ながら見るべきだ」。
(文責:古川)

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