対 上杉戦
織田信長は天下布武を旗印に天下統一事業をすすめるうえで、北陸の一向一揆 と上杉謙信の存在が難問であった。そこで、信長は永禄十一年(1568年)九月 二十一日、足利義昭を奉じて京都に入ろうとし、近江で上杉謙信にその旨を 報じた。 十月十八日、足利十五代将軍となった義昭は、翌永禄十二年二月八日、智光院 頼慶を謙信に遣わし、信長と協議のうえ、武田信玄と和睦し、天下を平静にして ほしいとの御内書を下した。頼慶は越後一の宮居多神社(新潟県上越市)神官 花ヶ前盛貞の子で、謙信の使者として京都で朝廷や幕府との折衝にあたっていた。 元亀三年(1572年)、信玄が本願寺・朝倉義景・浅井長政の連合して西上作戦を 開始すると、信長は十一月二十日、謙信と同盟を締結し、謙信に信玄討滅を 要求した。謙信も信長に子息を養子にしたいと要求すると、十一月七日、信長 は承諾した。しかし実現しなかったようである。天正九年(1573年)七月十八日、 信長は将軍義昭を追放して室町幕府を倒すと、朝倉と浅井を討滅した。 天正二年、信長は謙信との同盟関係を維持しようと、「洛中洛外図屏風」一双 を謙信に贈って機嫌をとっている。ところが、天正三年八月、信長が加賀に侵攻 して能美・江昭二郡の一向一揆を討滅した頃から情勢が変わった。信長の北陸 経路に危機感を持った謙信は、天正四年五月十八日、義昭の要請に応じて 本願寺顕如と和睦した。ここに、信長と謙信との同盟関係は崩壊したのである。 天正五年三月、信長が紀伊雑賀を攻めると、義昭はしきりに謙信に上洛を促した。 謙信は義昭の要請を受け、閏七月十七日、上洛のため七尾城(石川県七尾市) を攻めた。ところが七尾城内で伝染病が流行し、二十一日、城主畠山春王丸を はじめ、たくさんの城兵が病死した。主君なきあと長綱連が父続連とともに 七尾城を死守し、弟の連龍を安土城の信長のもとへ走らせ救援を求めた。 一方、畠山氏の臣遊佐続光が温井景隆らと謀り、長綱連一族百余人を殺害して 謙信に味方したため、九月十五日、落城した。 信長は七尾城救援のため柴田勝家を総大将に大軍を加賀へ侵攻させた。ところが 九月十八日、手取川の戦いののち、加賀北半(河北郡・石川郡)と能登・越中は 上杉勢力圏に、加賀南半(能美郡・江昭郡)は織田勢力圏となった。 ところが天正六年三月十三日、謙信が死去すると、養子の景勝と景虎とが 家督相続をめぐって争った。御館の乱である。信長はすかさず越中への侵攻 をすすめ、越後武将の懐柔に乗り出した。景勝の武将で、魚津武将河田長親 を本国近江の地を与える約束で味方に誘った。天正八年閏三月二十四日に柴田 勝家が長親に内応を勧めた。しかし長親は応じなかった。 長親は近江国守山の出身で、永禄二年、謙信上洛の際、召し抱えられて謙信の 側近となった。永禄十二年から魚津武将として、越中守将軍たちを統轄していた。 同年十一月五日、長親は居多神社神官花ヶ前盛貞に宮津八幡宮(魚津市)の社職 を与えている。この文書が長親の越中代官としての宛行状の初見である。 天正九年四月八日、長親の急死で、織田軍の越中侵攻に拍車がかかった。 天正九年、新発田城(新潟県新発田市)主新発田重家が信長に内応し、新潟津沖 の口の運上(関税)を横領した。六月十五日、信長は佐々成政らに重家の忠節を 報じ、鷹・馬以下の海上輸送に万全を期すよう命じた。御館の乱で景勝に味方 したがなんの恩賞もなく、憤懣やるかたなかった。そのとき信長から勧誘が あったのである。 重家は信長の支援を受け、破竹の勢いで新潟と沼垂(新潟市)を占領して戦線を 拡大した。信長が本能寺で明智光秀に討たれたのちも頑強に抵抗を続けたが、 天正十五年十月二十八日、ついに落城し自害して果てた。景勝は重家討伐に 七年を要したのである。 天正十年三月十一日、信長は天目山下田野で武田勝頼を討つと、上杉景勝討滅 作戦を展開した。柴田勝家・佐々成政・前田利家らの織田軍は、上杉軍の立て 籠もる魚津城を包囲した。危急の報を受けた景勝は能登の諸将および上条政繁 らを先発として魚津城へ送り、四月十三日、城将を激励し堅守を命じた。 五月十五日、景勝が魚津城救援のため天神山城(魚津市)に出陣すると、柴田 勝家らの織田軍は天神山へ向かい、各所で上杉軍と激戦を展開した。一方、 信長の将森長可が海津城(松代城、長野市)から、滝川一益が厭橋城(前橋市) から春日山城に迫った。 五月二十七日、春日山城危機の急報で、天神山城の景勝は魚津城救援の望みも 捨て、春日山城に引き上げた。魚津城は織田軍に包囲されること八十余日、 ついに救援も食料もなく六月三日、落城した。上杉軍は全員ことごとく玉砕 した。魚津城に入城した織田軍は越後へ侵攻すべく、その準備にとりかかった。 そんなとき、信長は京都本能寺で明智光秀に討たれた。その急報が四日、 魚津城に届いた。驚いた織田軍は撤退した。ここで信長の天下統一事業は 中途で挫折した。その事業は、明智光秀を山崎の戦いで討った羽柴秀吉へと 引き継がれた。