対 六角戦
織田信長は上洛の際、説得に応じずに敵対した江南の領主で、観音寺城主の 六角承偵(義賢)・義治の父子を、永禄十年(1568年)九月に攻め、これを追放した。 承偵は甲賀郡の石部城に逃げ込み、義治は甲斐の武田勝頼を頼り、六角家の 再興を期することになる。 六角の旧領は信長が最も欲するところだった。戦略の基地にも適していたが、 京都を背に、天下布武の拠点として最高の地だった。安土城がそれを物語る。 近江侵略に成功した信長は、六角の残党と延暦寺派僧兵の勢力が結びつくのを 警戒した。そこで直ちに、多くの僧兵を擁している愛知郡の百済寺に安堵状を 与え、当寺を祈願所にすると宣言した。牽制策だった。 一方、承偵父子は巻き返しの機会をねらい、石部城や愛知郡の鯰江城(愛東町) を拠点に蠢動していた。そんな折り、江北の浅井長政が信長に敵対して、姉川 の戦いを起こした。これを好機と、承偵父子は長政と結んで織田軍と戦ったが、 半年で信長にくだる。それでも復活の執念は燃え、天正元年(1573年)と翌二年、 鯰江城と石部城において信長に合戦を挑み壊滅した。