対 毛利戦
”天下布武”の印文が象徴するように、武威による天下統一を究極の目標と して上洛を遂げた信長にとって、西国の大半を領有する毛利氏は、いずれは 雌雄を決せねばならない存在であった。しかし、それだけに信長も毛利氏も、 表立って事を構えるような事態をを極力避けようとつとめていた。信長は元亀 二年(1571年)、出雲(島根県)の新山城で再挙を図って失敗し、京都に逃がれた 尼子勝久とその家臣山中幸盛が、尼子家再興を期して中国攻めの先鋒となる ことを申し出たのに対しても、容易に動こうとはしなかった。勝久らが、備前 の宇喜多直家や豊後の大友宗麟に働きかけ、対毛利氏挟撃作戦に出ようとして いた事実を察しながらも、積極的に支援しようとはしていない。 こうした信長の毛利氏に対する配慮は、毛利氏側にとっても同様であった。 信長との関係が悪化し、これとの対決姿勢を強める将軍足利義昭から、さかん に援護を求められていても、名誉に感じこそすれ、これに応じることを はばかっていた。天正元年(1573年)七月、槙島城(宇治市)で挙兵した足利義昭 が、信長に敗れて京都から脱出し、毛利氏を頼ろうとした際、毛利氏はこれを 迷惑として、義昭の意志とは反対に、政僧安国寺恵瓊を使者に立てて信長方の 朝山日乗・羽柴秀吉らと将軍の帰京を折衝したほどであった。 この当時の西国の情勢は、信長が石山本願寺(法主・顕如光佐)という難敵を 抱いていたこともあって、毛利氏が優位に立っていた。因幡(鳥取県)の守護代 山名豊国や、但馬(兵庫県)の守護山名祐豊が毛利氏に屈伏し、その勢威におさ れて備前(岡山県)の浦上宗景や播磨(兵庫県)の別所長治らが、織田氏の援助を 望んでいた程度で、信長の手は及んでいない。 こうした信長と毛利氏の関係に破錠が生じるのは、天正四年二月、問題視される 将軍義昭が、毛利氏の領国で、備後(広島県)の鞆の津へ突然着船し、当地に 小幕府を開いて毛利氏の援護を求めるにいたってからである。義昭は越後 (新潟県)の上杉謙信や甲斐(山梨県)の武田勝頼らの東国の有力大名らにも援助 を呼びかけていたので、これらの勢力と呼応し、石山本願寺と提携して信長 包囲網を形成しながら、上洛作戦を展開するよう、毛利氏に強く促したのだった。 毛利氏は、この期に及んでなお信長と妥協した場合、備前岡山城の宇喜多直家 をはじめ、中国地方の多くの外様衆が信長になびくかも知れない。かといって 義昭の上意を受け、信長と決戦にいたれば、新領国の出雲・伯耆(鳥取県)・因幡 の諸国に混乱を生じないか、といった不安を抱いていた。 結局この年(天正四年)五月十三日、義昭の上意を奉ずることに決し、七月には 石山城(本願寺)に兵糧を送るため、木津川口で初めて織田氏の正規軍と衝突 するにいたった。義昭を援護すること、すなわち予想外の上洛戦に踏み切った 毛利氏は、この年の十一月、本拠地の安芸(広島県)吉田の郡山城で、家督の 輝元を中心に次のような東上策を練り上げた。 (一) 内海水軍(毛利水軍)をもって淡路(兵庫県)の岩屋城を拠点に、大阪湾岸 へ上陸を敢行すること。 (二) 総大将の輝元とその叔父小早川隆景が義昭を奉じ、山陽道を真正面から 攻め上ること。 (三) 輝元のもう一人の叔父吉川元春が、山陰道から但馬・丹後(京都府)を へて京都の背後を突くこと。 いわゆる”三道併進策”とよばれる上洛作戦であって、毛利氏は信長との 全面戦争へと突入することになった。 一方、信長としても、毛利氏のあからさまな軍事行動を見過ごすことは、西国 における利権を失うばかりか、石山本願寺をはじめとする腹背の敵対勢力を 増長しかねない。この年(天正四年)七月、羽柴秀吉を中国遠征軍の最高司令官 (織田氏の西国管領)に任命し、中国経路に踏み切るにいたった。 秀吉による西国(中国)遠征は、天正五年十月から開始され、信長が本能寺の変で 横死するまで、五ヵ年にわたって門断なく続行される。出兵当時、西国の大部分 は流浪の将軍義昭を擁立する毛利氏の勢力下にあった。当の義昭は、信長打倒 の全国的包囲網の形成に執念を燃やしている。従って毛利氏を倒さないことには、 信長の覇者としての面目は保てなくなっていたのである。 織田軍団の威信をかけた秀吉は、毛利氏を討滅するための西国経路作戦を、畿内 に接する播磨の平定から着手した。同国の小寺(黒田)孝高の姫路城を修築して ここを西征の本拠地に定めると、翌六年八月から八年正月にわたって別所長治 の三木城を攻め、これを攻略して播磨の大部分と但馬一国の平定がなるや、 因幡・伯耆に兵を進め、天正九年七月から十月二十五日まで、吉川経家の守る 鳥取城を攻めてこれを攻略した。この成果として毛利氏の”三道併進策”による 上洛作戦を挫折させた意義は深い。さらに本能寺の変直後の六月三日まで、 毛利氏の本領の一つである備中の高松城を水攻めにし、城主の清水宗治を切腹 させたばかりか、毛利氏から五ヵ国を割譲させる戦略的和平の締結にこぎつける にいたった。