合戦の概要




 

美濃攻略戦

尾張(愛知県)織田氏と美濃(岐阜県)斎藤氏との争いは、信長の父信秀と斎藤 道山(はじめ長井規秀、のち斎藤利政、さらに入道して道山と名乗った)の 時代から始まっている。道山が美濃で急激に勢力を伸ばし、守護土岐氏や 守護代斎藤氏の実権を奪うと、美濃の反道山勢力が信秀や越前(福井県)朝倉氏 を頼ったからである。そのため信秀は、天文十三年(1544年)以来、しばしば 道山と戦うが、はかばかしい戦果は得られなかった。 信秀の時代、信秀は確かに経済力・軍事力では尾張一の実力者となっていた が、彼はまだ清洲織田家の一支族にすぎず、国内の諸豪族との関係は、主従 関係というよりは同盟関係といったほうがいいものであった。したがって、 尾張国内には多くの反対勢力があり、加えて、駿河(静岡県)今川氏勢力が常に 東から尾張をうかがっていた。信秀にとって、そんな状況での美濃斎藤氏との 戦いの継続は困難であり、一方の斎藤道山にとっては、美濃国内での自分の 地位を確立することが緊急の課題であった。結局、信秀と道山が争うことは、 両者にとって無益なだけでなく、両者それぞれの足下を危うくする危険があった。 こうした事情により、天文十七年、信秀の嫡男信長と道山の娘濃姫との結婚に よって、両者は同盟することになる。この同盟は、天文二十一年に信秀が 没して以後も道山と信長との間で継続し、道山存命中は尾張・美濃関係は良好 であった。しかし、弘治二年(1556年)、道山が嫡男義龍との長良川の戦いで 敗死すると、美濃・尾張の間は再び敵対関係となる。 父道山を討って美濃の国主となった斎藤義龍は、信長にとってただ単に隣国 の強敵というだけではなかった。やがて信長は、上洛して天下人となることを 考えるようになるが、信長にとっての「天下人への道」は、まさに尾張から 京都への道にほかならない。そして、その最初にして最大の難関が美濃斎藤氏 だった。美濃を制圧しないかぎり、信長に天下人への道は開かれないのである。 また、大国美濃を制圧すれば、信長の経済力・軍事力は飛躍的に強化される はずであった。 さらに、天下布武を目指す信長にとって、美濃はもう一つ象徴的な意味をもって いた。それは、美濃が「西国」の東端に位置していたことである。京都が象徴 する天下の範囲は西国である。そして、当時、東国と西国とを区分していた のは日本アルプスであり、その南端から流れ出す木曽川であった。木曽川の 東端にどれだけ広い領土をもったとしても、この木曽川という東西の境界を 突破して、西国に本拠をもたないかぎり、天下人への道は開かれない。信長 にはそんな観念があったように思われる。 のちに信長が斎藤氏の稲葉山城(岐阜城)を奪取した際、ただちに居城を小牧山 から稲葉山へと移し、中国周の聖地、岐山にちなんで、城下の井ノ口を岐阜と 改称したこと、岐阜へ移城して以降、「天下布武」の印章を使用するように なること、いずれも、信長の天下布武の過程で、美濃がどのような位置に あったかを示すものであろう。 永禄三年(1560年)、今川義元を桶狭間の戦いで破った信長は、以後、連年美濃 へと侵攻する。この間、同四年、信長は三河(愛知県)の松平元康(のちの徳川 家康)と同盟して東からの脅威を除き、美濃侵攻に専念する条件を整えた。 また、同年、美濃では斎藤義龍が急死して、わずか十四歳の龍興が斎藤氏の 当主となった。連年の美濃侵攻は、その都度、手痛い反撃をくらっていたが、 龍興が国主となって以後の美濃諸将の結束は徐々に崩壊しつつあった。 当初、信長は西美濃平野部から稲葉山城を攻略する作戦を展開していたが、 必ずしも十分な戦果をあげえなかったため、やがて清洲から小牧山へと居城を 移し、稲葉山城の東方、山間部からの攻略に戦術を変更する。 信長が東美濃からの侵攻に戦術を変更したころの同七年、西美濃の有力武将、 竹中重虎(半兵衛重治)が義父の安藤守就と謀って、稲葉山城を奪取するという 事件が起こった。稲葉山城はまもなく龍興に返還されたが、この事件は、斎藤 龍興の家臣団掌握がまったく不完全なものであることを露呈してしまった。 既に美濃東端、信濃(長野県)・三河(愛知県)境の恵那郡を押さえる遠山一族は、 信秀の時代から婚姻関係でもって織田方となっていたらしいが、その他、 西美濃山間部、多良谷の高木貞久、徳山谷の徳山則秀、池田郡市橋の市橋長利、 同郡本郷の国枝古泰なども、このころまでには織田方となっていた。連年の 美濃侵攻は合戦において今一つであったが、調略のほうは着々と成果をあげて いたのである。 以後、信長は東美濃の諸城を、あるいは攻め落とし、あるいは誘い下して、 永禄八年には関城主で斎藤氏の重鎮、長井道利を越前へ逐った。これで美濃の 大半は信長の勢力圏となった。残る傷害は、西美濃の有力武将で西美濃三人衆 と称された、大垣城主氏家直元(入道卜全)・北方城主安藤守就(入道道足)・ 曽根城主稲葉良道(入道一鉄)だけとなった。永禄十年、その西美濃三人衆が 内応するや、信長はわずか数日で稲葉山城を攻め落とし、天下人への道を切り 開いたのだった。
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