上洛作戦
永禄六年(1565年)五月十九日、足利義輝が三好義重や松永久秀と三好三人衆 らに弑逆されるというショッキングな事件が勃発した。幕府の実権を掌握して いた松永久秀らが、抵抗を示していた義輝を排除し、代わって義輝の従兄弟に あたる足利義栄を阿波(徳島県)から招いて傀儡将軍に仕立てることを狙った ものであった。 この時、義輝の末弟で奈良の興福寺一乗員門跡の覚慶は厳重な監視下に幽閉 されていた。だが、細川藤孝らの画策により密かに脱出し、近江甲賀の和田 惟政の館に逃れることができた。覚慶こそ、のちの足利義昭である。 覚慶は、幕府再興を宣言するとともに諸国に領内書を発給して義兵を募り、 上洛の軍事行動を催すための援助を求めていた。領内書を送った先は、越後 (新潟県)の上杉輝虎(謙信)、甲斐(山梨県)の武田信玄、上野(群馬県)の由良 成繁、相模(神奈川県)の北条氏康、三河(愛知県)の松平(徳川)家康、越前 (福井県)の朝倉義景、若狭(福井県)の武田義統、安芸(広島県)の毛利元就、 九州の大友義鎮・相良義陽・島津義久などの大名・豪族と、そして尾張の 織田信長であった。信長は、すぐさま上洛供奉の命を承諾するが、美濃(岐阜県) の斎藤氏と激しい戦闘を続けているのが実情であるから上洛軍の派兵など、 できるはずもなかった。 翌九年二月、覚慶は還俗して足利義秋と名乗り、義輝の後継者とし、本格的に 将軍職の獲得に乗り出していた。この時期、出兵支援の要請はおおよそ越後の 上杉輝虎と信長の両者に的が絞られた観がある。輝虎は、義輝の信任が極めて 厚く、したがって義秋の最も頼みとする大名であった。だが、相模の北条や 甲斐の武田両氏と係争関係にあり、上洛軍出兵を実現できる情況になかった。 ここに、義秋の期待は信長に大きく傾くが、美濃の斎藤氏を排斥しないかぎり 義秋の命を実現できない。そこで義秋は、斎藤龍興と信長を和睦させることが 先決と考え、両国に上使を派遣して和平工作を図ることにした。 幸いこの和平勧告は上使の細川藤孝や、信長方と実質的な折衝を務めた和田 惟政の働きかけにより美濃・尾張両国の受け入れるところとなり、信長は義秋 に誓書を提出して上洛軍の出兵を確約するに至った。 信長は八月二十二日を期して近江の矢島に参陣することとなり、尾張・三河・ 美濃・伊勢四ヶ国の兵を率いて上洛軍を催すこととなった。ところが、確実視 されていた信長の上洛行動に対して思わぬ事態が生ずる。義秋に対抗して足利 義栄の擁立を図る三好三人衆が、斎藤義興に対して濃尾和睦の破棄を働きかけて いたのである。さらに三人衆は、当初義秋の擁立に積極的であった近江の六角氏 にも調略の手をのばし、六角氏を離反させた。 三好三人衆による一連の妨害工作をキャッチした信長は警戒して軍勢の出兵 をためらうようになり、ついに実行されないうちに濃尾和睦も破綻してしまい、 そのため義秋の上洛計画は挫折を余儀なくされ、また信長は義秋から誹りを うける羽目となり、天下の嘲笑の的となった。 信長と斎藤氏は再び敵対関係に逆戻りし、閏八月には信長は名誉の挽回を図る ため美濃に攻め入るが、総退却するほどの前代未聞の大敗北を受けてしまった。 一方、義秋は突如として琵琶湖を渡って若狭の武田氏、ついで越前の朝倉氏を 頼るに至った。かくして、信長の上洛軍出兵計画は幻に終わった。 義秋が越前に移って既に一年半が過ぎた。十一年四月十五日、義秋は名を義昭 と改め上洛の時期を再び模索し始めていたが、頼みとする朝倉義景は上洛の 意思を固められず、ために義昭は焦慮の日々を送っていた。 その頃、尾張の信長は念願の美濃平定を成し遂げていた。ここに機は熟し、 やがて信長と義昭は上洛について再び交渉を持つに至った。 かくして、義昭は越前から美濃に御座を移すことになり信長の上洛計画が確実 のものとなった。七月十三日、義昭は越前を発ち、途中信長と婚姻関係を通じて 同盟を結んでいた近江小谷城の浅井長政の饗応を受け、二十五日に岐阜城下の 立政寺に着座した。ここで、信長は初めて義昭に謁見し、銭千貫・太刀・馬を 進上してその移座を祝賀した。いよいよ、上洛作戦の開始である。 九月七日、信長は大軍を率いて岐阜を発った。その上洛作戦は、信長軍の破竹 の進軍により出陣以来わずか二十日足らずで入京を果たし、ついで京都から 退去していた三好三人衆を畿内から一掃した。ここに畿内方面の政治情勢は 大きく塗り替えられた。これを受け、十月十八日に義昭は従四位下に叙せられ、 征夷大将軍に任じられた。同二十六日、上洛作戦の終結と義昭の将軍任官を 果たし、所期の目的を完遂させた信長は直ちに帰国の途につき、二十八日 岐阜城に凱旋した。 ここに、信長の強大な軍事力を基盤として幕府が再興された。この政治機構は 信長と幕府の二重政権で、矛盾に満ちたものであった。したがって、歯車が 狂い利害関係が生じると両者の衝突は避けられない危険を孕んでいた。信長 は当初から義昭を傀儡政権と決めつけていた節があり、義昭の奉戴も上洛の 大義名分を必要としたもので、擁立は単なる名目的手段にすぎなかったのである。