合戦の概要




 

伊勢平定戦

織田信長は上洛の機運が熱したとき、近江(滋賀県)制圧に先立ち、伊勢 (三重県)の攻略を敢行しようとした。 その理由は二つある。一つは、北伊勢の有力豪族の神戸具盛と関一党の統領 である関盛信が、信長の上洛に反対している近江守護の六角承禎(義賢)に加担 して、近江制圧の際、腹背の敵になりかねないからである。 いま一つは、信長の本拠清洲城の外港的性格の強い、木曽川一帯の要衝を平定 するためにも、北伊勢の攻略はぜひとも必要であった。 室町初期における伊勢国は、南伊勢に南北朝時代から連錦と国司の座にある 北畠氏とその一族が五郡を領し、勢力を張っていた。しかし北伊勢の方では、 工藤祐経の後胤と称する長野氏をはじめ、関・神戸・千種・赤堀ら有力豪族 と、合計四十八家にのぼる武士が、八郡の割拠を競い、互いに対立と連合を 繰り返していた。 これが永禄元年(1558年)頃になると、長野・神戸・関の三氏が台頭し、長野氏 は国司北畠具教の次男具藤を養嗣子に入れて北畠家と組み、一方、神戸・関の 両氏は、承禎の重臣蒲生定家の娘を妻にし、六角氏と結んでいた。そして 両陣営が対立し、まったくの無統一状態におかれていたのである。 この混迷に乗じない信長ではない。永禄十年の春、信長は滝川一益を大将に して伊勢侵略を開始した。速攻が効果をあげ、員弁、桑名の二郡は勢力下に 入ったが、八月になって信長自ら桑名に出陣したにもかかわらず、高岡城 攻めで、神戸氏の宿老山路弾正の抗戦に遭い苦戦していた。 そのさなか、美濃(岐阜県)の西方三人衆が反旗をひるがえしたため、信長は 高岡城の囲みといて岐阜へ戻った。 翌永禄十一年二月、信長は伊勢攻略を再開したが、この時点から信長の戦略が、 力攻めから謀略戦に変わっていく。 神戸具盛と和議をすすめ、三男三七(のち信孝)を養子に入れて神戸家をかす めたのをはじめ、北畠氏の血族木造具政に背かせ、やがて次男茶筅丸(のち信雄) を北畠氏の養子に入れ、名門北畠氏を滅亡させた。
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