対 今川戦
尾張織田氏と三河松平氏の関係は、大永六年(1526年)頃に始まるらしい。 その頃、松平氏は既に尾張への進出を果たしていた。すなわち、桜井松平の 信定が尾張の守山(名古屋市守山区)と品濃(瀬戸市)両城に拠って尾張東部に 勢力を扶植させていた。三河の松平信定がなぜ尾張の守山や品濃に入部する ことができたのか、その経緯については判然としないが、松平信定の子清定 の室は織田信長の祖父信定の女であることからすると、織田氏との関係に よるものと考えられる。 その後、享禄二年(1529年)の秋頃、三河の安城を居城とする松平清康(家康の 祖父)は、尾張に侵入して織田方の桜木上野介の居城春日井郡品野城を落とし、 ついで岩崎城をも占拠したという。しかし、この戦いの背景には不明な点が 多く、疑問視する向きもある。 その後、岡崎城に進出した松平清康は天文四年(1535年)十二月四日、織田信秀 を牽制するため軍勢千余騎を率いて尾張の守山に出陣して所々に放火した。 だが、翌五日の朝、清康は老臣阿部大蔵の子弥七郎に謀殺された。世にいう 「守山崩れ」である。 清康暗殺は松平信定の策謀であったといわれるが、もともと清康と信定は宗家 の家督をめぐって激しく争っていたから、清康の死は信定にとって宗家からの 自立を図るチャンスであった。やがて、松平信定は岡崎城主となり、以前から 気脈を通じていた織田信秀と関係を強め、その勢力の安定を図るため信秀の 姉妹すなわち織田信定の息女を長男の清定の室に迎えたのであった。 その後、天文六年六月、信定の勢力が衰退すると、桜井松平氏は岡崎城を宗家 の松平広忠に渡して恭順の意を示し、松平氏は織田信秀と敵対関係に入った。 これ以後、信秀の三河侵略が始まる。 岡崎城主となった松平広忠は、三河の統一に乗り出すが織田信秀のたび重なる 侵入に抵抗しきれず、駿河の今川義元に助力を乞い、その傾斜を強めていった。 こうしたなか、天文九年六月には信秀が大軍を率いて三河に侵攻して松平氏の 支城安城城を陥落させ、西三河における織田氏の拠点を確保した。さらに、 同十一年八月、三河に援兵を送った今川氏と信秀との間で大規模な軍事衝突が 起こった。いわゆる第一次小豆坂の戦いである。戦いは織田方の勝利となり、 西三河における信秀の勢力が着実に扶植されていった。 しかし、三河の属国化を図る今川義元は、同十七年三月、織田氏を排斥すべく 兵を送り西三河の織田氏の出城山崎を陥れて安城城を脅かすに至った。これを 受け信秀はただちに軍勢を繰り出し、三月十九日に両軍はふたたび小豆坂で 激突した。戦いは信秀の敗北となり、兵を撤退する羽目となった。しかも、 翌十八年十一月には安城城の陥落により信秀は西三河の拠点を失った。対して 今川義元は、岡崎城の占拠によって三河の支配を強化していった。 その頃、後奈良天皇による織田・今川の和睦が勧められていたが、それが実現 しないまま信秀が病死する。対今川戦は信秀の子信長に受け継がれた。信長は、 父同様にみずから兵を率いて三河に侵入するが戦果は上がらない。 こうして、永禄三年(1560年)五月十九日の桶狭間の戦いを迎えるのである。 戦いは、総大将今川義元を討ち取るという織田方の予想外の大勝利で終わった。 義元の戦死により今川軍は総崩れとなり、信長は今川軍残兵の撤収を受けて、 その勢力の一掃と領国尾張の再構築に着手する。 一方、大高城にあった松平元康(後の徳川家康)はその日の夜半に退却し、 翌五月二十日に三河の大樹寺に入り、岡崎城から今川軍が退くのを待って 二十二日に入城する。天文十八年に駿府に抑留されて以来、実に十年余の歳月 が流れていた。皮肉なことに、今川軍が大敗するという思いもかけぬ事態に よって宿願の岡崎城復帰を果たした。元康は父祖伝来の地、三河の回復と家臣 団の再編成を進めていく。 このように、尾三国境を隔てて対立する織田信長と松平元康は、それぞれの 失地回復とその保持、さらに自己の勢力拡大に計略をめぐらせていた。だが、 この対立は翌四年に入ると事態に変化が現れた。織田、松平両氏の間でにわか に和睦の話が持ち上がる。時期は不詳だが織田氏の老臣林秀貞・滝川一益と、 松平氏の老臣石川数正・高力清長らが尾張の鳴海に会して和睦の具体的内容を 議すことになり、両軍による戦闘行為の停止や尾三両国の境界などが定められた。 織田・松平両氏の老臣によって整えられた和睦は、永禄五年正月十五日の尾張 清洲城における信長と元康の会見によって互いに誓書を交換して正式に締結 された。これを世に、清洲同盟あるいは尾三同盟といい、この同盟関係は信長 が本能寺の変で斃れる天正十年(1582年)まで守り続けられ、戦国期にあっては 長期間存続された極めて珍しい和平同盟となった。同盟の締結により信長は 東方の憂いから解放され、また元康にとっては駿河の今川氏から独立する画期 となるのである。