伊賀平定戦
伊勢を完全に制圧した織田信長の次の目標は、伊賀国(三重県)であった。 もともと伊賀は大和国(奈良県)に隣接し、寺領などが多く、守護大名などとの なじみの薄いところであり、数千石の地頭や数百石程度の豪族が群居しているに すぎなかった。 昔から、これらの伊賀侍たちは表向きは国司北畠氏に臣従していたが、実際は、 豪族間で共和国的な形態をとり、必ずしもすべての伊賀侍たちが北畠氏の掌握下 に入っていなかったので、信長にとって、あまり目障りにはならなかった。 しかし、北畠具親が森城で挙兵したとき、伊賀侍の吉原氏が全面的な支援をした。 これが、信長・信雄父子の伊賀攻めの直接的な動機となった。信長は山陽・山陰 両道の平定中だったので、伊賀攻めはのばしていた。 ところが十九歳の信雄は、伊賀をみずからの手で平定し、その武勲を父信長に 認められたい一心から、攻撃の拠点丸山城を築いたが、逆に先制攻撃を受けて 敗北した。だが、これにもこりずに、信長の許可なく、天正七年(1579年)九月、 伊賀侵入を敢行したのである。 結果は、部将の柘植三郎佐衛門らを失う、信雄軍の惨敗で終わった。これを 知った信長は激怒した。 「若気のいたりとはいえ、このような結果を生み、無念至極じゃ。あまつさえ、 柘植をはじめ多くの将士を討ち死にさせたは言語道断、こうなっては親子の 縁を切るほかはない」 このような内容の叱責状を、信雄に送った。 とはいっても、信雄は織田家を代表して、代理戦をやったわけだから、この 惨敗は、伊賀侍たちに対する信長の激しい憎悪を駆り立てることにもなった。 よって信長は、天正九年九月、大挙して伊賀平定に着手した。伊賀に通ずる すべての道路から大軍をもって攻めさせ、国中の神社仏閣を焼却させるとともに、 むごたらしい殺戮を繰り返した。憎悪の反動とみてよい。だが、この伊賀平定も、 信長の武威を高める効果を生んだことは、否定できない。 信長は、平定した伊賀三郡を信雄に、他の一郡を信包に与えた。そして、 信長は国見山に登り、形勢を一瞥したにすぎなかった。頭には、次の侵略を 企図していた。