藤本美佳さんが大学生になってからのことです。
引っ越した先の一軒家で、なんとなく他人の視線を感じるようになりました。
いつも感じました。朝起きた時から夜眠りにつくまで、いつも感じました。
ただ、不思議だったのは、家から出ると視線を感じないということでした。
こんなに変なことがあるのでしょうか。
「気持ち悪いわよねえ」
外に出て、他人の視線を感じるというのなら、分かります。しかし、母親の
他には誰もいない家の中で誰かが見ているというのは、どうにも分かりません。
歯を磨いていても、顔を洗っていても、服を着替えていても、メイクをして
いても、風呂に入っていても、なんとなく視線の注がれているのを藤本さんは
感じました。
「どこかに、誰かいるんだ」
姿が見えるわけではないのですが、なんとなくもうひとりいるのが感じられ
ます。ですが、藤本さんの部屋の中には鏡台がひとつ、ベッドに本棚、机に
椅子、それだけしかありません。押入すらもありません。人が隠れるような
ところなど、どこにもありません。
そんな日々が続いていたころの夜。
カーテンを閉めようと思って、藤本さんは席をたちました。窓ガラスに部屋
の中が映っています。ぼんやりとですが、部屋の中の雰囲気がよく分かります。
瞬間、藤本さんの瞳が凍りつきました。なぜかといえば、藤本さんを見つめて
いる視線の主が分かったからです。それは、鏡台の中にいました。
鏡の中にいる藤本さんが、窓辺にたっている藤本さんの背中をじっと見つめて
います。どう考えてもおかしな現象でした。藤本さんは鏡に背中を向けて
います。本当ならば、鏡に映っている藤本さんは背中のはずです。ところが、
そうでありません。正面を向いて、藤本さんの背を見つめています。
「どうしよう」
自分にむけられている自分の視線が、藤本さんはたまらなく恐ろしくなり
ました。身じろぎもできないほど、身体が硬直していました。振り返るしか
ないのでしょう。にやりと笑ったら、どうなるでしょう。
「卒倒しちゃうよ」
藤本さんはそう思いました。しかし、いつまでも窓に向かって立ち続けている
わけにもいきません。ぐっと拳を握りしめて、藤本さんは思い切り振り返り
ました。途端に、拍子抜けしました。鏡の中には、おびえきった顔をした藤本
さんがいるだけでした。
その夜、藤本さんは一睡もできませんでした。
ベッドの中に潜り込んで、鏡だけは見ないようにしていたのですが、怖くて
怖くて仕方ありませんでした。鏡台に背を向けながら横になっている「わたし」
を、鏡の中で立っている「わたし」が、じっと見つめているのではないか・・・
と思うだけで、歯が噛み合わないほど、藤本さんは震えていました。その一方、
考えてもいました。どうすれば、「わたし」は「わたし」の視線から逃れられる
んだろうと考えていました。家中にある鏡を割れば、もしかしたら事が終わる
かもしれませんが、そんなことはできるはずもありません。
朝になるとともに、藤本さんは部屋から飛び出し、食堂へ駆け込みました。
母親が驚いたような顔をして、藤本さんを見ます。説明したところで仕方ない
し、いったいどう対処すればいいのだろうと思いながら、ホットミルクを
一口だけ飲みました。
結局、藤本さんは鏡台だけを捨てることにしました。もともと古道具屋に行って
無料も同然な値段で買い求めてきたものだから、金銭的には惜しくありません
でした。ただ、少しばかり気に入っていたものだったので、ほんの少し残念な
気分になっただけでした。
しかし、鏡台を捨ててからというもの、自分の視線を感じる、ということが
なくなりました。
藤本さんは机の上に鏡を置いて、なにもかも、その鏡で用をたすようにしました。
鏡に映った藤本さんは、藤本さんのする通りに動くだけです。藤本さんは、
ときおり窓辺にたって鏡を覗き込んでみますが、常に自分の背中しか見えなく
なっていました。