華氏451度



この作品は未来に置ける思想の危険性を暗示させるものだった。書物が存在してはいけないものとされ、情報は全てテレビやラジオで流される「変動する情報」だけが存在するのである。平和な世を保つためにも反抗的な考えを生まないように知識を与える暇を与えずに、常に行動させるようにする。いわゆる自己を持っているが、押さえられた事故死かもてないのだ。本などには昔の賢者たちの考えが詰め込まれていて、世界に自由な知識を与えてしまうのだ。考えることが禁じられているこの世界では幸福を得ることは可能なのだろうか?

考えることができないのであったら、幸福が何かをわかるはずもない。もしわかっているなどと言ってもそれは一般的にはどのようなことが幸せかと比較しているだけだ。教えられた幸福よりも時債に自分で経験をし、見つけることが大切なのである。つまり、「なぜ」を心の内に持っておくべきである。一つわからないのは、なぜビーティ署長は、それを知っていながらモンターグのように行動ができなかったのだろう?しかし、ストーリーを読むと彼はコロされたかったようだ。実際彼はモンターグのように行動をしたかったものの、結末は彼にとって不幸を導くために何もできなかったのではないのだろうか。実際にモンターグは自分で何かを成し遂げるために彼の妻や、友人などを犠牲にしてしまった。ビーティはこの苦しみを味わうのなら行わない方がよいと決めたのであろう。

一つ、この本を読んで同感するところがあった。それは浮浪者のグレンジャーの言葉である。彼が言うことは最近書物に目覚めた僕のことを言っているようでしょうがない。彼は少数派の人々は相手が振り向くまで叫び続けなければいけないと言っている。いわゆる「待つ」という行為になる。僕はこの叫び声に要約気づき待たせていた本を読んでいるのである。ストーリーでは戦争が人々が彼らを必要とさせると言ったが、この戦争による爆発が考え始めるきっかけといえるだろう。

「華氏451」では本というものは存在していなかったが、それと同等の存在がいるのである。それが書物を記憶した人々である。彼らは必要とされるまで全く気にかけられることはないのだ。しかし彼らはいつまでも待ち続ける、まるで本が棚にほこりをかぶってしまってあるように。。。

Posted: 水 - 5月 25, 2005 at 10:37 午後      


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