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QUATRE ROSEAUX。 「4本の葦」。キャトゥル・ロゾ−。美しい響きをもった言葉だと思う。
高校に入るまで、サックスのクァルテットなぞ聴いたこともなかった。 うちの中学にサックスが4本あったかも覚えていない。音楽というものを真剣に考えたことすらもなかったかも。
初めて触れたアンサンブルの音は、部室(のようなところ)に置いてあったキャトゥル・ロゾ−とトルヴェールのもの、そしてアルトを吹いていた友だち(のような人)の持っていたキャトゥルのテープ。衝撃だった。
それ以来、ずっとキャトゥルが好きだった。言ってみれば初恋の人か。特に富岡先生。 いまだに僕は、日常会話でも富岡「先生」が抜けない。あの音、あの歌い方、あの軽やかさ。 もうめろめろである。ところがそのキャトゥル、待てど暮らせど今何をしているのかわからない。 関東に出てきたのに演奏会の知らせも聞かない。CDもなかなか手に入らない。もはや夢の人達 状態である。
しかし10月4日、遂にとうとう彼らに会えた。キャトゥル・ロゾ−・サクソフォン・アンサ ンブル、結成25周年記念演奏会。しかもクァルテットとオーケストラのコンチェルト 4本立て。夢見心地で出かけた。彼らがステージに現れたときに、もう僕は極度の興 奮状態で胸が張り裂けそうだった。いや、本当に。だが、プログラム最初の2曲、言ってみれば「なんでやねん」という感じ(いや、演 奏ではなくて)。
1曲目、一緒に聴きにいったU川が「なんでやねん」。彼はデゥボワの導入部のない 始まりが好きと開演前に言っていた。しかし、初めて聴いたコンチェルト版にはオー ケストラの短い序奏が。僕はサックスの音が聴こえた瞬間にトリップ状態に入ってし まったのだが、それにしても、クァルテットとオケの感覚が合っていないような感じ を少しうけた。オケが乗り切っていないと言ったら正しいか。オケと富岡先生がずれ たように聴こえた最後もしかり。曲も、四重奏曲を聴き続けていたせいか、コンチェ ルト版は少々蛇足のような気もした。それでも、キャトゥルの音は美しく、まるで呼 吸をしているように音楽をしている。想像通りだ。
2曲目、今度は僕が「なんでやねん」。松下功の「グラン・アト−ル」という曲だっ たが、あまりにひどい。短絡的なテーマが短絡的な手法の元に短絡的な音になったと いう曲。初演の場合、僕はプログラムノートを読まないことにしている。純粋に音楽 から感じられるものを聴き取りたいという欲求と、楽曲は音楽のみで語られなければ ならないという理由からだ。しかし、この曲は何も語りかけようとはしなかった。そ こにあるものは、既存の技法・アイディアと作曲家の独善的な理論が織りまぜられた、 グロテスクな音塊だった。山下一史の指揮も、クァルテットを無視したかのような突 発的で過剰、オーケストラは何に向けたかもわからない音の羅列を無為に表現しよう としていた。キャトゥルがそこにいる理由が見出せなかった。演奏が終わり、僕は慌 ててプログラムノートを読んだが、そこに書かれていることが、音楽からはまったく 伝わらなかった。そこで僕は、何とか早くこの曲を忘れることにした。
2曲目のせいで、休憩のコーヒーもまずくなってしまったのだが、後半の2曲、ロジ ェ・カルメルとジャン・マルティノンのコンチェルトでのキャトゥルが、全てを忘れ させてくれた。ほっ。オケとの息も合ってきだして、クァルテットとソロ楽器との絡 みなどが心地よい。2曲ともクァルテットとオケの使い方がおもしろい。実際、こう いう形態の音楽を聴くのは初めてで、不思議な感覚があった。和声もリズムも表現で きてしまうクァルテットにオーケストラの組み合わせはとても独特な響きだった。そうこうしていると、あっという間にアンコール。オケとの熊蜂の飛行を挟んで、 「ワルツ・クロマティーク」とフランセの第3楽章。自在に揺れるテンポの中に、気 張らず、軽妙で、自然な、キャトゥル・ロゾ−の音楽があった。そしてそこには、ア ンサンブルの喜び、音楽の喜びが、慎ましやかに、そっと置かれていた。
富岡先生が、こう書いていた。
「僕は本当にいい仲間を見つけたと思う。ずっと幸せでした。アンサンブルが楽しい、 、、」僕は、キャトゥルに憧れてアンサンブルをやり出した多くの人達のうちのひとりです。